2024年11月19日火曜日

『創るセンス 工作の思考』森 博嗣

『小説家という職業』には私は直接的な接点はありませんでした
それでも面白く読ませてもらいました

この本は私がやっているもの作りに直接関係があります
なので最初から興味を持って読み、共感することも多々ありました

 これほど面倒ならば、窓なんか作らないで、窓の代わりに液晶モニタを壁に取り付けておけば良いではないか。

 最初に作る人間は、必ずなんらかの問題に直面し、自分でばらつきを体験し、乗り越えなければならない。

 ものを作るとは、常に何かを探す行為だといってもよい。もっと良い工夫はないか、もっと適した作り方はないか、最適の材料はどれか、これを解決するアイディアはないか、と・・・。

 優れた技術者とは、知識が豊富なのではなく、ものの道理を知っている人のことだ。

 簡単にいえば、楽ができる近道的なものを「コツ」と呼ぶのである。

 本当の楽しさは、自分の中から湧き出るもの、自分で作るものである。

 大人がもの作りを楽しんでいれば、それを見た子供は自然に興味を持つ。

 もの作りのセンスというのは、そんな「考える工作」のプロセスでしか生まれないものなのだ。

 技術のセンスを育てるためには、いかなる支配からも隔絶された環境を作る必要性を示唆している。

 接する品減がどんな表情でいるかは問題ではない。作られるものの品質こそが評価の対象だ。

 実際に手を動かして、一つでも新しいものを作った方がいい。作れば、あなたは必ず何かを学ぶし、あなたの中できっと変化が起こるだろう。

 オリジナルのものを作る場合には、インプットとアウトプットとの間に、膨大な処理が必要であるし、そもそもインプットするものを探し、そして整理することから必要になる。これを処理する過程で、作り手のオリジナリティが表れ、つくられたものの価値が生まれる。そして、作り手のオリジナリティは、この処理体験の蓄積でさらに成長するのである。

 どんな工作であっても、大切なのは、それを「楽しむ」ことであり、そのプロセスで自分自身の変化を「喜ぶ」ことだと思う。できあがっていくものが素晴らしい自信作になりそうなときも、あるいは失敗作に近いぎりぎりのものであっても、楽しむことでは、自分自身が得るものでは、大差がないと考えるべきである。

 自分にとって価値があるのは、変化する自分を体感することである。もし、作り出したものが社会的価値を持ち、それがビジネスになりそうならば、そこで判断が必要になる。

 そういったもの(軽はずみな装飾)を極力排し、たとえばただ精確に作る、ただ好きなように作る、といった誠実な姿勢が、あるレベルに達すると、「見ただけで誰が作ったのかわかる」個性を醸し出すまでになる。

 人間はものをみているときに、自分の目で見ているわけだが、そのときに思考はもっと自由に働く。見ているものの裏側を想像したり、過去はどうなったか、未来はどうなるか、といった飛躍も可能だ。つまり、それが視点である。

 昔のような大当たりはもうない。マイナなものを沢山作り、どこまで個人のニーズの広がりに応えるか、ということが勝負になるはずだ。

 仕事が大事で、趣味は二の次、という考え方は、一面だけをとらえた物言いであって、観点によってはまったく反対になる。また、仕事も趣味も、つまりは生きていくための糧になるものを得る、ということでは同じ行為かもしれない。どのように考えても良い。お好みしだいだ。

 最終的に周囲の人に影響を与えるものは、技術の高い低い、上手い下手ではなくて、「凄さ」なのだと思われる。

 といわけで、結論としては、創作が産み出す価値とは、「人間の凄さ」である、ということになる。

 天性の凄さももちろんあるけれど、大部分の凄さは、日常生活の中で、こつこつと少しづつ作られたものであることに注目してほしい。それはきっと貴方にもできる。

 ものを作ることは、「凄さ」を見つけること、「凄さ」を形にすることである。





『小説家という職業』森 博嗣

著者は小説家です
小説家としてその職業をどのように営んできたかをこの本に書いています
それは小説家を目指す人にとって参考になるでしょう
私は小説家を目指していないけれどもこの本を読んでみました
それは森博嗣という人の生き方に共感する部分があるからです

この本を読んでみて小説家を目指していない自分にも援用できるような部分を発見しました
それらをここに書きとどめておき後々の参考にしようと思います

 大事なことは、「こうすれば」という具体的なノウハウの数々ではなく、ただ「自分はこれを仕事にする」という「姿勢」である。

 読者から、僕の作品に対して「感動した」というメールが届くと、僕はいつも「感動したのは、あなたの能力によるものです」と答えている。

 はっきりしている真実が一つある。どんなひどい作品でも、誰かは褒めてくれる。どんなに優れた作品でも、誰かは貶す。

 「人間というのは、自分が望んでいる以上のものには絶対にならない」

 マイナは、競争相手がいないという状況で、それを求めている消費者を確実に引きつける。むしろ、メジャな商品より安定して売れるだろう。

 よくある助言、格言というのは、たいていは「上手く立ち回るため」ための方策・・・

 小説というものは、文章しかない。音も映像も伴わない。この表現手段の不自由さは、現代では素晴らしく珍しい。

 僕は自著に対してデータを集計したことがある。すると、売れている本ほど、読者の祭典が低くなる傾向があることに気づいた。理屈は簡単である。採点が低いからよく売れるのではなく、よく売れるほど、その作品に合わない人へも本が行き渡るから、低い評価を受ける結果になる。逆に、ものすごくマイナで部数の少ない本は、コアなファンだけ買うので評価が高い。

 ようするに、褒められても貶されても、「真に受けるな」ということである。

 人は、結局は「人に感動する」ものである。それは、自然の中にあって、最も自分自身に近い存在だからだ。人間の行為、その行為の結果がもたらしたものを通して、その人間の存在を感じる。・・・その感じた自分を対面に置き、反響させて感動を増幅する。

 世の傑作というのは、たいてい、どうでもよい素材を集め、どうでもよい手法にこだわって作られたものである。



2024年10月21日月曜日

『自分探しと楽しさについて」森 博嗣

わたしは人よりひねくれていると思うときがあります
世間の一般的な解釈がわたしにとっては合理的でないと思えることがよくあるからです

森さんもひねくれていて世間一般の論理とは逆のことをよくいいます
そのことにわたしは共感してしまいます

「ほかのものに没頭することが、結局は自分を見つめることになる。自分を忘れることが、自分を見つけることになるのである」

もし自分が信頼する誰かに「自分を見つめなおせ」といわれたらどうするか?

多くの人はまず自分の考え方や行動をジッと振り返るでしょう
それではだめなのです
自分を見つめなおすには、自分のこと以外に没頭することがいいのです

「・・本当の「楽しさ」とは、他者から与えられるものではない、・・それは、「自分」の中から創り出されるものである」

「楽しさ」を探している人は実に多い
イベントやライブやテーマパークや、安くて手っ取り早い「楽しさ」を探している

「楽しさを求めれば、金は入ってくる。真剣に楽しみを実現したいと思う人は、自然に金持ちになっている。これは、自由を求めると、自然に金持ちになる、ということと同じだ。金が楽しみを生むのでなく、楽しみが金を生む。・・
 金がかかる楽しみを目指す人は、金を得るだろう。金のかかる楽しみを目指す人は、金を得るだろう。金のかからない楽しみを目指す人は、金が無くても楽しめるだろう。金を目指す人や、金がないから楽しめないと諦める人は、楽しみは得られない」

その通りだと思う


2024年10月20日日曜日

『自由をつくる 自在に生きる』森 博嗣

わたしと森さんとはいろいろなことがかなりちがいます

まず経済環境がちがいます
森さんは小説家として19年間の印税収入が15億円あったそうです(未確認情報)
わたしは生涯を通しての収入が3億円あったかなかったかぐらいです

生活環境もちがう
森さんは北海道かどこかの広い森の中にポツンと暮らしているらしい(未確認情報)
そして敷地内に自作の鉄道を走らせている
わたしは埼玉県の小さな町屋に住んでいます

急に細かい話になりますが執筆速度がずいぶんちがいます
森さんは新書一冊をトータル12時間で書き上げてしまう
わたしはどのくらい遅いか分かりませんがもっともっと遅筆です

ほかにもあれやこれやわたしと森さんとでは違う点が多いです

なのになぜかわたしはこの本に書いてあることの多くに共感しました

わたしは20歳から40年間にわたって定職についていました
とりわけその後半の20年間は組織の中で働くことの息苦しさに悩まされました
それからなんとか逃れようともがいた日々でした

わたしはその息苦しさの原因を漠然とではありますが理解していました
それを言語化はせずに頭の中にしまいこんでいました
そしてその息苦しさに反発するようにさまざまな行動をしました
また退職すれば組織に縛られない生活ができるだろうと期待していました

60歳を目前にして退職しました
そしてようやく組織の息苦しさから解放され自分のしたい生活ができるようになりました

この本を読んでああ自分はずっと自由を求めてきたのだなあと思いました
そしてこれからもずっと自由を追い求めていくのだろうと思います

ーー

 自由というのは「自分の思いどおりになること」である。自由であるためには、まず「思う」ことがなければならない。次に、その思いのとおりに「行動」あるいは「思考」すること、この結果として「思ったとおりにできた」という満足を感じる。その感覚が「自由」なのだ。

 学校や仕事は、社会的な支配といえる。個人の肉体的な支配よりもやや緩やかではあるけれど、場合によっては(あるいは感じる人によっては)、非常に強力な制限にもなるだろう。

 個人の自由は、社会的な不和を生みやすい。それはあたかも、「自由の絶対量」というものがあって、それをみんなで分かち合わなければならないかのようにも見える。自分だけが自由になってよいものか、と心配になるのだ。

・・自分の能力を完全に引き出したときには、それなりの充実感、すなわち「自分にもここまでできた」という達成感が得られる。・・」
 その満足感を得たときには、多くの人がきっと「自由になった」と感じるに違いない、と確信している。

 自由を手に入れるということは、そういう「できる自分」を作り上げることであり、自分の変化を積極的に推し進めること、といえると思う。

 支配にもいろいろなものがある。母親が子供を可愛がる愛情でさえ、支配といえる。すべての支配を排除して、完全に奔放になろうとすれば、人間として破綻きたすことは間違いない。
 ただ、そういったものが「支配」であるという認識が大切だ、・・

 僕がいいたいのは、「自由」が、思っているほど「楽なものではない」ということである。自分で考え、自分の力で進まなければならない。その覚悟というか、決意のようなものが必要だ。

 目指すものは、自分で決めなければ意味がない。
 本当の自由がそこからはじまる。
 目指すものへ向けて、少しずつ近づいていく自分、それを体感する楽しさ、そしておそらくは辿り着けないかもしれないそのゴールを想うときの仄かな虚しさ、でも、とにかく、その前向きさが、自由の本当の価値だと思う。
 この価値を一度知ると、もう自由の虜になるだろう。

・・自分が何に支配されているのかをよく考えることが必要だ。自分を束縛する原因となるもの、もしそれが人為的なものならその意図をしっかり把握することだ。・・

 人間関係が複雑になることで、個人の自由は失われる、と考えて良い。お互いに助け合うことはもちろんできるけれど、約束や責任が自然に発生するためである。二人で歩けば楽しいかもしれない。しかし、一人で歩く時よりも神経を遣うだろう。相手に歩調を合わせなければならないからだ。

 人と足並みを揃えなければならない理由は、大勢の力を合わせないとできないことがあるからだ。できないことは不自由であり、できることは自由だとすると、これはつまり、集団の自由を確保するための行為といえる。

 自由の価値というのは、過去の自分よりも、今の自分が、そしてさらに将来の自分が「より自由」になっていく変化を感じることにある。常に自由に向かって進む、その姿勢こそが、自由の本質だといってもよい。目指すものが自由であるなら、目指す姿勢もまた自由である。そういう不思議な連鎖が自由の特性だといえる。

 組織というものは、大きくなればなるほど保守的になり、ちょっとやそっとでは変わらない。個人に比べたら、はるかに鈍感なもの、それが組織である。

 最近、定年後に田舎へ引っ越して、そこで自給自足に近い生活をしたり、自分の趣味を最大限に生かせる環境へ生活の場をシフトする、という悠々自適なライフスタイルがそれほど珍しくなくなった。

 大した苦労ではない、毎日少しずつ、自分の決めたことを実行するだけだ。たえとば、起きたいと思った時間に起き、しようと決めたことをする、というだけである。このように自在に生活できれば、すでに自由の一部は実現している。計画さえあれば前進できる。すべては、最初に自分の位置を確認することから始まるのだ。

 人気のあるものが、必ずしも社会の求めているものではない。むしろその逆であることの方が多い。不人気な職業ほど、働き手が不足していて、待遇は良くなるし、いろいろな場面で選べる自由度も高い。

 人生でここぞという場面、勝負に出る局面では、大勢が選択しない道を真剣に考慮するべきだ。大勢が行かないから安全率が低いという先入観に支配されていないだろうか。それは本当に根拠のある判断か。

 非合理な常識よりも、非常識な合理を採る。それが自由への道である。


2024年9月12日木曜日

『人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか』森 博嗣


森さんはあとがきで「人の意見を聞くときや、人が書いた本を読むときには、それで自分が影響を受けようという気持ちでいる」と書いています
わたしが本を読もうとするときもまったく同じ気持ちで読みます

この重たいテーマの本では抽象的思考の大切さが説かれています
それは抽象的思考によっていろいろな問題を考えることが有効だからです

「抽象的思考をする人は、どんな人間からでも、自分の利益になる発想を拾えることを経験的に知っている。それだからこそ、自然に人の話に耳を傾けるようになる」

自分には物事を抽象的に考える傾向があると気づいたことがありました
それはアメリカの大学院で「成人の発達」という講義を受けたときです
成人にはつぎの4つの顕著な学習スタイルがあるとのことでした

具体的経験型(Concrete Experience)
ことにこだわった考えを持たず、起こっている事象の中に飛び込んで、自ら体験することを好む。
熟考的観察型(Reflective Observation)
事象のあらゆる細部について様々な角度から考察し、起こったことの密接な関係全てを検証することを好む。
抽象概念化型(Abstract Conceptualization)
ある事象について、関係する重要な要因を見きわめ、理論や仮説を導き出すためにそれらの要因を関係づけることを好む。
活動的実験型(Active Experimentation)
目的を持ち、計画を立てて、物事をより良くより簡単に、また実験が必要なことを行うのを好む。

このことを学んだあとわたしは自分自身の傾向を考えてみました
そして自分は抽象的概念型の傾向が強いのではないかと判断しました

森さんは「抽象的思考は論理的思考と具体的行動がセットにならなければ、問題を解決できない」といっています
これもアメリカで学んだことと一致しました
ちょっと長いですがわたしの留学報告書から該当部分を引用します

「(成人の)学習者は自らの具体的経験を整理・考察し、問題意識を明らかにします。そのうえで指導者は、この問題の解決への手助けになる研究の枠組みを示唆し、問題とする分野の研究に役立つ図書を大量に指示します。学習者はこれらを読み進めると同時に、指導者が決めた時期に、個々の読書について自分の問題意識に照らし合わせて、何を感じそして学んだかを小論文としてまとめ、指導者に提出します。この作業の後、自分と同じ問題意識を持つ人々と、自分の信じるところ、疑問とするところについて徹底的に議論します。

これらの作業をしていくうちに、学習者の脳裏に、自分の抱えている問題が何を原因として生じているか、という因果関係が次第に明らかになり、概念の抽象化ができていきます。

そして、最後にはこのような問題を解決するためには実際にどのような方法をとったらよいかの計画に移り、その計画を実行してみて自らの仮説の正当性を立証する、具体的実験を行うことになります。」(Adult Study Abroad ‐早大職員の大学院留学レポート‐)

森さんは国立大学の教官として忙しい生活をしていました
もっと自由に生活できるよう収入を得たいといくつも小説を書き始めました
それが思いのほか売れて生涯働かなくてもいいだけのお金を稼ぐことができました
それで森さんは大学教員も小説家もやめて自分のしたい生活をすることにしました
そして今はその生活を楽しんでいます

わたしは私立大学の職員として40年間にわたり事務の仕事をしました
妻の死をきっかけにその仕事を辞めて自分のしたい暮らしをすることにしました
そして今はその生活を楽しんでいます

2024年9月5日木曜日

砂のメダイユ


 記憶は薄れゆき        New!そして留学に至る 1992年3月~1993年3月
 写真は色あせる          好きを仕事に  1988年6月1日~1992年3月25日
 文書はちりうせ          夜の仕事と遊山 1982年6月1日~1988年5月31日
 人々はいく            人生のリセット 1980年4月1日~1982年5月31日
                  就職浪人    1979年4月1日~1980年3月31日
 砂浜にしるした          自立への模索  1975年4月1日~1980年3月31日
 かすかな足あとを、        大学受験浪人  1974年4月1日~1975年3月31日
 波が消し去る前に、        山登りをバネに 1971年4月1日~1974年3月31日
 ひょいと拾いあげ         浮かない日々  1968年4月1日~1971年3月31日
 胸もとに小さくかかげる      三人の担任   1962年4月1日~1968年3月31日
 このように生きたのです、と    古川地方の方言
                  生い立ち    1956年2月14日~
                    ちょっと長めのプロローグ



2024年9月4日水曜日

『集中力はいらない』森博嗣

世間の常識として「集中力は大切」というのがあります
ここに偽りがあると自らの経験から解き明かす森さんの本です

まずなぜ世間の人は偽りの常識を信じてしまうのでしょうか?

「空気を読むことで多数派に入ろうと必死になっている人たちは、多数派であることに価値があると信じている」

多数派になりたい人は常識が真実であろうとなかろうとそれは常識だから信じるのです
このような常識は世の中にはたくさんあると直感的に思います

「自分の問題を解決するのは自分であり、自分で考えた手法は、その後も自身の拠り所になる」

わたしは永く勤めた仕事を退職した頃に自分の人生の出来事を時系列で振り返ってみました
具体的には自分にとって大切なライフ・イベントを可能な限りピックアップしたのです
すると記憶や記録に残っているイベントは1,000ほどありました

しばらくある種の感動をもってそのリストを眺めました
あんなこともあったなあ、こんなこともあったなあ、と・・・

その感動が過ぎてから今度はそのリストをもっと冷静に見てみました
すると1,000のイベントの生起にはひとつのパターンがあるような気がしました
そこに自分なりの処世のしかたがあったのではないか、と・・・

それは本当かと問われれば自信をもって「ハイ」とは言えません
言えないけれども自分はこのリストにあるように生きてきたのは間違いないのです
これが「自身の拠り所」なのかもしれません

この「拠り所」についてわたしは『砂のメダイユ』で書いていこうと思います


2024年9月3日火曜日

稲架(はさ)建て

家の南面に掛けた稲架
今日は初めて稲架というものを建ててみました

来週、川島町の農家から藁を大量にもらう予定です
藁細工で使うためです

刈り取ったばかりの藁はまだたっぷり水分を含んでいます
なのでこの稲架にかけて2週間ほど乾燥させるつもりです

材料は直径8㎝の丸竹と太さ6㎜の麻紐です

丸竹は長さ4.3mが4本、3.6mが5本、そして2.6mが3本です
2.6mは縦地、4.3mは横地、3.6mは斜めに立てかける支えに使います

丸竹の十字の部分はハコ縛り、斜めの部分はトックリ結びで麻紐で結束しました
さらにワラの重みで二段目の横地竹がずり落ちないように一段目から麻紐を掛けました
結束した丸竹
1時間半で差し渡し8.2mで二段の稲架が完成しました

あとは藁を縛る麻紐(太さ2㎜、長さ50㎝、135本)を用意して藁をもらう日に備えます


2024年8月26日月曜日

『「自分」の壁』養老孟司


和田秀樹という精神科医が高齢者向けの本をたくさん書いています
和田さんはこのような本を月に(年にではなくて)5、6冊書くというのです
いきおい和田さんの本には内容に甚だしく重複があります

先日読んだ『60代からの見た目の壁』は目新しいところはほとんどありませんでした
ただその中にたしか和田さんの師匠は養老孟司だと書いてありました
(間違えていたら済みません)
それで養老さんの本を読みたくなりました

この本の中で目にとまったのは2か所です

養老さんは現実をしっかりと見るために自然に接することをすすめています
「頭が良くなりたいならば、自然のものを一日に10分でいいから見るようにしなさい」

新潟の一入亭には夏の間に雑草がおびただしく生えます
今日は午前中にそれを2時間ほどながめました
雑草も自然ですよね

雑草をながめたのは草刈りをしたからです
草刈りをしている間にいろいろとりとめもないことを考えました

・ここに生えている草の中には以前よりもツタ類が増えたな
・となりの錦鯉の養殖池の周りはまた除草剤がまかれて草が枯れているな
・あの池を再び田圃に戻したときに除草剤の害はないのだろうか
・道芝が元気に生えているのでこれは来年採取できるよう刈らないでおこう
・このごろはフキよりもシダの方が元気があるな

草刈りをして頭が良くなるのか分かりませんがいろいろ考えるきっかけになるのは確かです

もう一か所は自信の育て方です
人は社会で生きていけばいろいろな問題にぶつかります
その問題から逃げずに取り組んでいけばやがて自信を持つことができると養老さんは言います

「(社会で生きていけば)なにかにぶつかり、迷い、挑戦し、失敗し、ということを繰り返すことになります。しかし、そうやって自分で育ててきた感覚のことを「自信」というのです」

なんか詩的ですてきじゃないですか?

2024年8月21日水曜日

『デジタル・ミニマリスト』カル・ニューポート

本を読むきっかけはいくつかあります
きっかけとして多いのは、
・新聞の書評を読んで
・本や新聞の記事に言及があって
・図書館に陳列してあって
などです

ひとつふしぎなことがあります
本を読み終わる頃にはその本を読もうと思ったきっかけは大抵忘れているのです
この本もそうでした
ああ面白かった!と読み終わったのに

なんでこんなことにこだわるか分かりますか?
もっともっとたくさん面白い本を読みたいからです
どうしたら面白い本に確実に出合えるか知りたいからです


さてこの本のどこが面白かったのでしょうか?
それはカルの意見には共感するところが多々あったからです

カルはまず自分が人生で何をしたいのかはっきりさせようと言います
そうしなければデジタル・ミニマリストになるのは困難だからです
スマホの虜になってしまうのは他にやるべき大切なことがないからです

人が幸せに生きていくためには孤独の時間が必要です
スマホはその時間を奪ってしまう
その時間を奪い取るのはGAFAです


読んでいて嬉しいことが二つありました

一つは『ニコマコス倫理学』への言及です
わたしのブログのあらゆる投稿を注意深く読んでいる人(わたし以外にいないでしょうけど)
には明らかなようにわたしは『ニコマコス倫理学』の信奉者です

カルがニコマコス倫理学から引用した考えは次のようなものです

「善い人生には、その行為そのものから生まれる満足感以外に何の利益をもたらさないような活動が必要である」

これをカルは「質の高い余暇活動」と呼んでいます
そのような活動に勤しむためにはそれを可能にするだけの原資がなければなりません
それでほとんどの人はまず経済=収入を得ることに没頭します

そして幸運にもそのような原資を手にできたとして没頭する何かはあるのでしょうか?
その何かが無ければその人は「質の高い余暇活動」はできません
利益をもたらす活動に成功したとしてもその後に虚ろな人生が待っているでしょう


嬉しかったことのもう一つは「質の高い余暇活動」として手仕事を推奨していることです
スキルを活かし、物質的な世界で価値あるものを作り出す
デジタルのスクリーンを離れてリアルに何かを形作ること

これはふだんわたし自身が心がけているところです
手仕事に没頭するとスマホなどをいじろうという気が無くなります
得られる満足感がまったく違いますから
もっともわたしはいわゆるガラケーを使っていますからこの問題はありません

そのガラケーを支えている3Gというシステムが2026年で廃止になります
そのためガラケーは使えなくなるそうで迷惑な話です
わたしはガラケーで不便ありませんでしたから

でもカルの書いていることを読んで気が楽になりました
通話とテキスト・メッセージだけが利用できるガジェットを選べばいいだけのことですね
スマホもパソコンも自分の人生の目的に合った最低限の使い方をすればいいのです


2024年5月16日木曜日

差し茅 8年目の7日目

毎年ひと月かけてひとりでやった差し茅が今年は助っ人を得て2週間余りで完了しました!
足場の解体は由香さんに手伝ってもらって1時間もかからずに終わりました
来年差し茅をする予定の屋根にミズミチがあって雨漏りしているのを発見しました
シートを掛けて応急修理しました
あとは草刈りです
いつもの「選択的草刈り」です
このようにフキが生えているところは
それを刈らずに残しておきます
こうするとやがてここはフキだらけになると期待しています
これで今年の茅葺き作業はすべて終了しました

一入亭の茅葺き修理
<計画> 10年計画の8年目
<種類> 差し茅
<箇所> 後中門右
<面積> 15㎡ (残り修理面積=231-155=76㎡)
<期間> 2024年4月29日~5月16日(実際の作業日数は7日)
<作業> 茅拵え  2日  4人工
     足場建て 0.5日 1人工
     差茅   2.5日 5人工
     刈込み  0.5日 1人工
     足場撤去 0.5日 1人工
     片付け  1日  2人工
     合計 7日 14人工(1日の実働は6時間)
<道具> 梯子(大、中、小)、足場丸太(三間13本、二間3本)、3寸角材 3本、足場板、
     シノー、鎌(大、小)、ヘラ、ガンギンタマ(長、短)、茅ブランコ、バカ棒、
     ウマ 2台、竹箒、ヘッジトリマ―、シート
<材料> 差し茅 78束(二尋の荒縄で二重にしばった太さ)、箱番線 23本
     荒縄二尋 100本、ポリエチレン紐(太さ8㎜と6㎜)
<考察> 出来は「上」
     期間を通じて助っ人を得たので作業が順調に進みました
     差し込んだ茅を最後にそろえたので刈り込みはほんのわずかで済ませました

2024年5月15日水曜日

差し茅 8年目の6日目

今日は差した茅をそろえながら足場丸太を外していきます

グシの下に短く切った茅を差し込みます
ガギンタマで全体を叩いて平らにします
飛び出している茅をハサミで切った後に足場丸太を一段ずつ外していきます
前面をそろえ終えて足場丸太も外して完了です
屋根全体(200平米)からすればほんの一部(15平米)をやったにすぎません
10年計画の8年目が終わりました
茅も時間も体力も残っているので午後に昨年のやり残した部分を差すことにしました
正面の中央最上部の畳一枚分ほどです
清々しました

2024年5月14日火曜日

差し茅 8年目の5日目

しばらく川越に帰っていました
また一入亭に戻り差し茅の作業を再開です
今日は由香さんと二人で46束の茅を差しました
グシまで届いたので差し茅の作業はこれで終わりです

今年は例年の半分の時間で終わらせることができました
作業する屋根面積が15平米と狭かった
屋根に極端に傷んだ箇所がなかった
常に2、3人で作業できた
これらが短時間で完成できた要因です

仕上がりも良好でした
これは一緒に作業してくれた方たちの勘の良さを物語っています

2024年5月2日木曜日

差し茅 8年目の4日目

きょうはよく晴れました
シートを巻き上げてきのうに引き続き差し茅です
きょうも武蔵さんが手伝ってくれます
茅葺きはとても汚れる作業ですが差し茅はさほどではありません
武蔵さんは「楽しい」と言ってやってくれます
有難いことです

屋根の幅が狭いので二人で作業するのが精一杯です
由香さんはきょうも地上勤務です

昼前までに17束差しました
早くも吹き替え予定面積の半分ほどを差し終わりました
上に登っていく足場丸太を二本かけました

シートを掛けて今日は終了です
囲炉裏を焚いて正月飾りを燃やしながら夕食をとりました


2024年5月1日水曜日

差し茅 8年目の3日目

足場建て

昨日までで茅拵えが終わったので今日は午前に足場を建て午後に差し茅を始めます
今年差し茅するのは裏中門の北側で屋根の痛みが最も早く進むところです

武蔵さんが作業を手伝ってくれ由香さんはサポートと記録をしてくれました

足場は長さ三間の丸太を使って建てます
支えの丸太がずれないようにスコップで小さな穴を掘り丸太の根元をそこに入れます
縦横の丸太を箱番線で縛って固定します
今年葺く屋根の幅は例年の半間狭い二間です
足場建ては昼前に終わりました

午後から差し茅を始めました
腐朽した茅をかき落としてから古い茅を引き出します
古い茅にヘラを差し込んで持ち上げて新しい茅を一握りずつ差し込みます
茅を13束差して今日は終了です
夜に降った雨で茅が濡れないようにシートをかけました


2024年4月30日火曜日

差し茅 8年目の2日目

茅拵え

きょうは武蔵さんと由香さんに茅拵(こしら)えを手伝ってもらいました

先日太陽さんと返して乾かした茅をまとめて長さ180㎝の荒縄で二重に縛ります
それをトリマーを使って根元から長さ80㎝ずつ二つに切ります
切った茅束をシルバー3に積んで一入亭に運び雨の当たらない場所に置いておきます

14時頃から霧雨が降ってきましたが最後までなんとか終わらせることができました
濡れている茅はあとで干して乾かすことにします

昨年まではこの作業を一人でやって三日かかりました
今年は三人でやったのでたった一日で終わりました
この調子でいけば全体の作業が例年の半分くらいの期間で終わりそうです
有難いことです


2024年4月29日月曜日

差し茅 8年目の1日目

茅返しの終わった茅場

一入亭(ひとしおてい)の差し茅はこれまで7年間一人で作業をしてきました
今回8年目は毎回一緒に作業してくれる人がいます

きょうは茅場の茅返しを太陽さんとしました
茅返しは冬のあいだ雪の下で寝かせた茅に日を当てる作業です
一人でやると丸一日かかる作業です

今年はそれが有難いことに半日で終わりました
あっという間に終わり疲労感もさほどありません
助っ人の力を得てあっけなく終わった感じです


2024年4月1日月曜日

『語学の天才まで1億光年』高野秀行


わたしは大学生の時にはじめて海外へ行きました
行先はヨーロッパアルプスでした
モンブラン、マッターホルン、アイガーというアルプスの名峰に登るためです

その山登りの合い間に店や駅や宿で耳にしたフランス語に心を惹かれました
それで帰国してからフランス語の勉強を始めました
それをほとんど使う機会もなく勉強は数年で終えました

それから数十年たったのちヨーロッパへ自転車旅行に出かけました
ライン川に沿ってスイスの源流からオランダの河口までキャンプしながら走りました
旅の途中でフランス人の自転車乗りと知り合い旅を共にしました
日本へ帰ってからフランス語の勉強を再開しました

その友人とはその後自転車旅に何度も行き一緒に走った距離は5,000㎞に及んでいます
旅の間は彼とフランス語で話をしています
わたしにとってフランス語は旅をするための言葉です

この本の中で著者の高野さんはフランス語に別れを告げています
フランス語にまつわるもろもろが嫌になってしまったのです
その話を読んでわたしも複雑な気分になりました

わたしにとっては旅をするための道具に過ぎないフランス語も重い歴史を背負っている
フランス語を使うのであればその歴史について不知ではいられません
その歴史を知ってフランス語を使うことに対して気が重くなってきました

この4月からは気分を一新するためにスペイン語の学習を始めることにしました


2024年3月24日日曜日

『「持たない!」生き方』米山公啓

ときどき図書館でふと見かけた本を手に取って読んでみます
きょうはこれ

神経関係の医師ということで和田秀樹さんと書くことが似ていました
明らかに重複している部分もあります
こちらの本は今から20年近く前の2005年刊です

何を持たない方がいいのか
それを5つ挙げています

1「大きな家」を持たない
2「健康神話」を持たない
3「肩書き」を持たない
4「孤独な時間」を持たない
そして
5「余分な金」を持たない

いまの自分はこれら5つを持っていません
それで幸せかと問われたらどうだか分かりません

読んで面白かったのは最後の「老いる前にやるべき6つのこと」です

1「時間を忘れる時間」を持つ
2 定年までの服を捨てる
3 既製のものを拒否する
4 形のあるのものを残す
5 友人に会っておく
6 やはり世界一周を

「老いる前」というのはこの本の書かれ方からすると定年後からしばらくの間でしょう
ちょうど自分はそこにいると思います
そこで自分はどれくらいできているか考えてみました

1と3と4はかなりできていると思います
2と5はまだ不十分です
6はこれからやってみたいことの一つです

なんか楽しみだな!

とはいえこの本は全体的には退職後の男性の視点で書かれています
それだから自分にマッチしていると言えるし
それだけ限られた意見でしかないとも言えます
そのあたりを塩梅して読んでおこうと思います

2024年3月8日金曜日

『運動脳』アンデシュ・ハンセン

 


これから少し古い話をさせていただきます

ちょうど50年前の今頃にわたしは家を出て大学受験のために浪人する決心をしました
家を出た先は新聞配達所が提供してくれた下宿でした
その下宿で寝起きしながら毎朝夕に新聞を配達し勉強をしました
新聞配達は規則正しい生活の支えであり細々とした収入の源でした

新聞配達は歩いたり自転車を漕いだりして体を動かします
若かった自分にはそれほどきつくない労働でした
雨風や雪の日はともかく大体毎日いい気分転換にもなっていました
おかげで希望した大学に入学できました

この本の帯に
「歩く・走る」で学力、集中力、記憶力、意欲、創造性、全部アップ!」
とあります
そんなうまい話があるわけがないと思われるでしょう

新聞配達をしながら受験勉強をしたわたしには納得がいきます
運動はその後のわたしの人生に欠かせないものになりました
これからも運動しながら残りの人生を歩んでいきたいと思っています

有明の月のひかりを待つほどにわが世のいたくふけにけるかな 藤原仲文