2024年10月20日日曜日

『自由をつくる 自在に生きる』森 博嗣

わたしと森さんとはいろいろなことがかなりちがいます

まず経済環境がちがいます
森さんは小説家として19年間の印税収入が15億円あったそうです(未確認情報)
わたしは生涯を通しての収入が3億円あったかなかったかぐらいです

生活環境もちがう
森さんは北海道かどこかの広い森の中にポツンと暮らしているらしい(未確認情報)
そして敷地内に自作の鉄道を走らせている
わたしは埼玉県の小さな町屋に住んでいます

急に細かい話になりますが執筆速度がずいぶんちがいます
森さんは新書一冊をトータル12時間で書き上げてしまう
わたしはどのくらい遅いか分かりませんがもっともっと遅筆です

ほかにもあれやこれやわたしと森さんとでは違う点が多いです

なのになぜかわたしはこの本に書いてあることの多くに共感しました

わたしは20歳から40年間にわたって定職についていました
とりわけその後半の20年間は組織の中で働くことの息苦しさに悩まされました
それからなんとか逃れようともがいた日々でした

わたしはその息苦しさの原因を漠然とではありますが理解していました
それを言語化はせずに頭の中にしまいこんでいました
そしてその息苦しさに反発するようにさまざまな行動をしました
また退職すれば組織に縛られない生活ができるだろうと期待していました

60歳を目前にして退職しました
そしてようやく組織の息苦しさから解放され自分のしたい生活ができるようになりました

この本を読んでああ自分はずっと自由を求めてきたのだなあと思いました
そしてこれからもずっと自由を追い求めていくのだろうと思います

ーー

 自由というのは「自分の思いどおりになること」である。自由であるためには、まず「思う」ことがなければならない。次に、その思いのとおりに「行動」あるいは「思考」すること、この結果として「思ったとおりにできた」という満足を感じる。その感覚が「自由」なのだ。

 学校や仕事は、社会的な支配といえる。個人の肉体的な支配よりもやや緩やかではあるけれど、場合によっては(あるいは感じる人によっては)、非常に強力な制限にもなるだろう。

 個人の自由は、社会的な不和を生みやすい。それはあたかも、「自由の絶対量」というものがあって、それをみんなで分かち合わなければならないかのようにも見える。自分だけが自由になってよいものか、と心配になるのだ。

・・自分の能力を完全に引き出したときには、それなりの充実感、すなわち「自分にもここまでできた」という達成感が得られる。・・」
 その満足感を得たときには、多くの人がきっと「自由になった」と感じるに違いない、と確信している。

 自由を手に入れるということは、そういう「できる自分」を作り上げることであり、自分の変化を積極的に推し進めること、といえると思う。

 支配にもいろいろなものがある。母親が子供を可愛がる愛情でさえ、支配といえる。すべての支配を排除して、完全に奔放になろうとすれば、人間として破綻きたすことは間違いない。
 ただ、そういったものが「支配」であるという認識が大切だ、・・

 僕がいいたいのは、「自由」が、思っているほど「楽なものではない」ということである。自分で考え、自分の力で進まなければならない。その覚悟というか、決意のようなものが必要だ。

 目指すものは、自分で決めなければ意味がない。
 本当の自由がそこからはじまる。
 目指すものへ向けて、少しずつ近づいていく自分、それを体感する楽しさ、そしておそらくは辿り着けないかもしれないそのゴールを想うときの仄かな虚しさ、でも、とにかく、その前向きさが、自由の本当の価値だと思う。
 この価値を一度知ると、もう自由の虜になるだろう。

・・自分が何に支配されているのかをよく考えることが必要だ。自分を束縛する原因となるもの、もしそれが人為的なものならその意図をしっかり把握することだ。・・

 人間関係が複雑になることで、個人の自由は失われる、と考えて良い。お互いに助け合うことはもちろんできるけれど、約束や責任が自然に発生するためである。二人で歩けば楽しいかもしれない。しかし、一人で歩く時よりも神経を遣うだろう。相手に歩調を合わせなければならないからだ。

 人と足並みを揃えなければならない理由は、大勢の力を合わせないとできないことがあるからだ。できないことは不自由であり、できることは自由だとすると、これはつまり、集団の自由を確保するための行為といえる。

 自由の価値というのは、過去の自分よりも、今の自分が、そしてさらに将来の自分が「より自由」になっていく変化を感じることにある。常に自由に向かって進む、その姿勢こそが、自由の本質だといってもよい。目指すものが自由であるなら、目指す姿勢もまた自由である。そういう不思議な連鎖が自由の特性だといえる。

 組織というものは、大きくなればなるほど保守的になり、ちょっとやそっとでは変わらない。個人に比べたら、はるかに鈍感なもの、それが組織である。

 最近、定年後に田舎へ引っ越して、そこで自給自足に近い生活をしたり、自分の趣味を最大限に生かせる環境へ生活の場をシフトする、という悠々自適なライフスタイルがそれほど珍しくなくなった。

 大した苦労ではない、毎日少しずつ、自分の決めたことを実行するだけだ。たえとば、起きたいと思った時間に起き、しようと決めたことをする、というだけである。このように自在に生活できれば、すでに自由の一部は実現している。計画さえあれば前進できる。すべては、最初に自分の位置を確認することから始まるのだ。

 人気のあるものが、必ずしも社会の求めているものではない。むしろその逆であることの方が多い。不人気な職業ほど、働き手が不足していて、待遇は良くなるし、いろいろな場面で選べる自由度も高い。

 人生でここぞという場面、勝負に出る局面では、大勢が選択しない道を真剣に考慮するべきだ。大勢が行かないから安全率が低いという先入観に支配されていないだろうか。それは本当に根拠のある判断か。

 非合理な常識よりも、非常識な合理を採る。それが自由への道である。


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