2020年9月28日月曜日

お散歩しましょう

お散歩しましょう
ほらうんちのにおいがする
あそこで牛さんたちがお話ししている
お散歩しましょう
ほら子どもの声が聞こえる
あそこで母子が川を見ている
お散歩しましょう
ほら風が北風に変わった
まだなまあたたかいけれどもう秋
お散歩しましょう
ほら彼岸花が咲いている
あれこそ朱色だなあ
お散歩しましょう
ほらちょっと汗かいた
帰ったらなにか飲もうかな



2020年9月25日金曜日

『山里の釣りから』 内山 節


とある学校法人にこの本が刊行された1980年に就職しました
これからは経済的な心配をしないで生活ができると安堵しました
目指していた教員という職業にはつけなかったにしろ

同期生10人で数か月の研修をうけたあと経理課に配属されました
自分の懐さえどんぶり勘定なのにソロバンが必須の職場にまわされたのです

仕事との相性の悪さもさることながら致命的だったのは筋違いの職場文化でした
仕事はあくまで完璧に、余暇は職場のみんなと家族もそろって仲良く楽しく
そのどちらも性に合いませんでした

窓の小さな事務所で金勘定に明け暮れる日がつづきました
最初の半年は笑ってごまかし、1年たつと顔がひきつり、2年目からは不眠になりました
自分はどうなってしまうんだろうと思い詰めていた頃にこの本を読みました

この呑気な書名だけではあの頃とても読んでみようという気が起きなかったでしょう
きっと新聞の書評かなにかで内容が紹介されていて読む気になったのだと想像します
いまもそのようにして読む本を選ぶことが多いので
自分が置かれた状況からの救いを求めてこの本を手にしたのでしょう

この本に書かれていることは書名からはおよそ想像のつかないことです
それは人間はどのように暮らし働いたらいいのかという根本的な問いかけでした
あのころ共感を覚えただろうところをひろいながら40年ぶりに再読しました

ーー

…現在では、自分の技術能力を自分自身で正確に評価できるものは、遊びの世界にしかないかもしれない…

…かつて我々はもっと一年のサイクルを利用して生きてきたのではなかったのだろうか。春には春の仕事が、夏には夏の仕事が、そして冬にも秋にもそれに適した仕事と生活があった。そのリズムを崩してきたのは、都市の労働と生活である。

(山村での)労働と生活の間には都市のような明瞭な区別がない。労働の密度が濃くなることは、一面では生活の密度が濃くなることと同義である。
 そして労働の密度も、自然条件との関係のなかで、自然条件を利用しながら決定される。一年の生活と労働の四季がそこにあらわれる。
 都市の労働と生活は、自然条件を克服しながら発展してきた。それは他面で自然条件の利用を忘れることにつながった。自然条件の利用はいまでは都市の外で、素朴なかたちで継承されることになった。

 都市の労働が本質的には自然の人間化という労働の概念を逸脱するものではないとしても、個人としての労働者のなかには、自分が自然に向き合い、それを加工しているのだというプロセスが視野には収まらないのである。だからそこでは労働の楽しさが喪失されている。

…村人は毎日自分の労働と生活から山と川のもつ空間の意味を見通している。いわば山里にいながら、山村と地方と東京、ときに世界と自分との関係を認識しうるのである。人間の認識という行為の純粋なかたちがそこにある。こうして認識されていく村人の視野は、東京に棲む人間が抽象的に日本、世界をみていくときよりはるかに深い洞察であるように思える。

 山と川とのコミュニケーションのなかに山里の生活をつくりだそうとすれば、どうしても労働は雑多なものになっていかなければならない。

 マルクスは初期の著作のなかで、社会主義社会とは労働の開放ー人間の開放によって達成されると述べた。この論理に従えば社会主義社会における労働とは労苦ではない。労働自身が一つの人間的営みであり、楽しみにならなければならない。
 しかし後にマルクスは、社会主義社会における人間性の回復は労働時間(労働日)の短縮であり、自由時間(自由処分時間)の拡張によって達成されると読めるような記述を残している。それは彼の経済学のなかに散見されるが、ここではマルクスもまた、社会主義社会になっても労働はやはり労苦であることを承認しているように思える。

 本来人間にとってはすべての行為が労働であった。人々は物をつくり、一部を交換し、一部を消費しながら暮らしてきた。ところが近代以降の商品経済の歴史のなかでは、商品を作る労働、商品の価値をつくりだす労働という、狭義の労働だけが労働として承認されるようになった。その傾向は資本制生産様式の成立によって決定的になる。
 そこから労働と生活の分離が生じ、また労働が賃金を得るための労苦になった。そうなると人間はますます生活を楽しむことに専念するようになる。こうしてできあがっていくのが現代の市民社会である。

 はじめに個人が確立し、その確立した個人が自然や村の共同性の社会と関係を持つのではなく、自然との関係や共同性の社会との関係が、村人個人をもつくりだしていくのである。この人間存在のあり方を支えているものは何なのだろうかと、私は考えていた。そして再び腕と知恵の世界をみつめなおした。自然との多様な関係をつくりだすことができる村人の腕と知恵、村という共同性の社会のなかで有意義な人間でいつづけられる村人の腕と知恵、それらが山里の世界を基底で支えている。

ーー

経理課に配属されてから二年後の春に上司に職場の異動を申し出て認められました
そう思い切れたことにこの本がどれくらいの力があったのかは分かりません
思えばほかに直截でインパクトのあるアドバイスをくれた先輩もいたからです

その後も職場を転々とするたびに浮沈を繰り返しました
どこの職場でも多かれ少なかれ妥協しがたい状況があったのです
それでもどうにか定年退職にまでたどりつくことができました

こうしていまこの本を再読できてただ有り難いと感じました




2020年9月23日水曜日

一行レシピ 油揚げの納豆つつみ焼


二つに切って袋にした油揚げに、刻みネギと醤油を加えて練った納豆を詰め、3分焼きます

新潟のよく粘る納豆ともっちりした油揚げが好きです
クリスタルクリアな芋焼酎の水道水割りによく合います

ハジトミ 取り付け

一入亭にハジトミ(半蔀)を取り付けました

ふだんはこうして閉じておきます
開けておくときはツッカエ棒を立てます
あるいはロープで吊っておくこともできます
家の中からみるとこういう感じです
内側から窓越しに開け閉めできます
閉めるとこういう感じです
昼食にとろろざるそばを食べ昼寝した後ながながと本を読みました
Almost heaven...



2020年9月21日月曜日

『内山節と読む世界と日本の古典50冊』 内山 節

就職してしばらくのあいだ塗炭の苦しみを味わいました
その頃に内山さんの『山里の釣りから』を読みました
渓流釣りと山の暮らしのことが書いてある本です

あの頃何を考えてその本を読んだのかちょっと定かでありません
いまもう一度読めばきっといろいろ思い出すことでしょう
いろいろ共感したことは間違いないのですから

これはその内山さんの近著です
たくさんの本が紹介されています
その中でこころにのこった断片を記しておきます

『シュルレアリスム宣言」 アンドレ・ブルトン
実際私たちの社会は、その時代特有の観念=意味づけをあらゆるものに与えることによって成り立っている。戦後のある時期までは、日本の社会は、農山村に「遅れた社会」という意味づけを与えていた。そうすることによって都市優位の時代を、農山村から都市へと若者が移動する時代をつくりだしたのである。
 だが今日の農山村への意味づけは違う。それは自然環境のよいところであり、地域のコミュニティがしっかりしている場所、さまざまな知恵や技をもつ人たちが暮らしているところ、である。そしてこのような観念=意味づけが生まれることによって、都市から農村へと移動する新しい人の波が生まれた。
 ブルトンは、このような観念=意味づけによってみえてくる「現実」を「理性」の働きとして排除している。それでは本当の本質はみえないのだと。
 確かにそうかもしれないと私も思う。だが知性に頼るかぎり、人間には意味づけされた現実しか認識できないのである。それを拒否するなら、農民や職人が体で覚え、身体で判断するときがあるように、身体をとおしてとらえていくとか、生命の力そのものでつかみとっていくというような、別の回路が必要になっていくだろう。

『自殺について』 ショウペンハウエル
 晩年のショウペンハウエルが闘ったのは「時間」という観念であり、この観念から生みだされた「時間」の客観的実在性に対してであった。彼は次のように言う。常識的な人々は時間は客観的な存在であり、自分とは関係なく存在していると考える。たとえば自分が死んでも、時間はその歩みを止めることはない、というように。だがこの考え方は根本的に間違っている。時間は自分の内部にあるのであって、その時間は無限である、と。

 近代という新しい社会の成立は、多くの知識人たちを苦悩に陥らせた。それは一面では人間たちが欲望の赴くままに生きる社会であり、むごたらしい社会であった。そしていまそのむごたらしさの果てに、私たちは原発の事故や壊れていく時代をみなければならなくなった。

『自由からの逃走』 エーリッヒ・フロム
…近代に入ると、共同体や「ギルド」は壊されていく。とともに都市社会が肥大化し、都市への人口の流入がはじまる。こうして近代市民社会が形成されていくのだけれど、その近代的市民はつねに不安定な個人として暮らすことになった。都市には農村共同体やかつての「ギルド」にあたるものは形成されておらず、経済活動とそこから得る収入だけを頼りに生きる「根無し草の大衆」が広範に生まれたのである。フロムはこの人たちを「根無し草の大衆」とも「浮き草の大衆」とも呼んでいる。個人の力だけで生きる、頼るべき世界をもたない人々である。

『遠近の回想』 レヴィ=ストロース/ディディエ・エリボン
 私たちは「世界」という言葉をきくと、地図上の世界を思い浮かべる。それはアジアやヨーロッパ、アフリカやアメリカがある世界だ。そしてこの地図上の世界のなかに政治や経済などの構造が埋め込まれている。それは客観的に考察したり説明したりすることができる世界である。
 ところが(上野村の)村人が諒解してきたのはそういう「世界」ではない。それは自分たちの生きてきた世界である。自然があり、村人のコミュニティがあり、村の歴史や文化があって人々の営みがある世界、それが村人たちが生きてきた「世界」である。もちろん村人も地図上の世界があることを知っている。混乱するEUや矛盾をはらみながら経済成長する中国のことも知っている。だがそれは知識としての世界である。理解してきた世界だといってもよい。それに対して村人がつかんできた自分たちの生きる世界は、知性ではなく身体性や生命性もふくめてつかみとってきた世界であり、諒解してきた世界、納得してきた世界なのである。この自分たちが生きてきた世界と地図上に展開する客観的に考察される世界との間に発生するズレ、それが村人を戸惑わせ、客観的に考察された世界をピンとこない世界におしやるのである。

 たとえば日本について考察してみよう。私たちは日本についてさまざまなパーツから考察することはできる。日本の経済システムはどうなっているか。政治システムは、社会システムは、日本の文化は‥…。それらはさまざまな知識を私たちにもたらす。しかしそのことによって、自分の生きている世界が諒解できるわけではない。自分の外側にある客観的世界が理解できるだけであって、自分の生の諒解とともに展開する世界ではないのである。だからこの客観的世界には、自分の居場所がない。

 レヴィ=ストロースも述べているように、近代の思考は、人々の生とともにある世界を認識された世界の彼方に追いやった。その結果、人々が求めているのは生の諒解であり、生の充足であるにもかかわらず、それがみいだせないままに経済や政治、社会システムに振り回される時代をつくりだしてしまった。その結果戦後の経済成長の恩恵をいちばん受けているはずの定年退職者たちが、生の孤独感や所在なさに悩まされ、それなりに経済成長をとげた農村でも、何かが空洞化してきたという感覚が広まってしまった。

「我々は自分の存在が無であること、あるいはたいしたものではないことを知っているのに、この我々の知が本当の知であるかどうかは、もはや知ることができない」

『経済表』 フランソワ・ケネー
…もともとは人間たちがよりよく暮らすための道具であったはずの経済が神のように振る舞い、経済的利益を求める活動が、今では社会の破壊要因にまでなっている。ここでも人工的につくりだしたものが社会を破壊する要素になってしまったのである。このように考えていくと、私たちの社会の中には、人工的につくりだしたものの暴走がさまざまなところではじまっていることがわかる。

…「生産的労働」とは何か。ケネーはそれは農業だと考えていた。彼の経済学に従えば、農業のみが社会的富を増大させるのである。なぜ農業のみがそれを可能にするのか。その理由は農業は人間労働のみでは成り立っていないことにあった。農業は自然と労働の共同行為によって成り立つ。ここには自然の生産分があるのである。この自然の生産分が社会的富を増大していく。

『西欧中世の自然経済と貨幣経済』 マルク・ブロック
 マルク・ブロックは国家がつくる貨幣制度だけをみていたのでは、民衆経済の実態を明らかにできないことを提起していたのである。人々はさまざまな方法を駆使して交換経済を実現させていた。その基礎には、自給自足的な、物々交換的な経済も根付いていた。「自然経済から貨幣経済へ」というそれまで信じられてきた経済発展の法則は成立せず、このふたつの経済は複合的に展開していたのであって、両者を分けること自体が不可能であるというのが彼の研究だった。

 これからの私たちの課題の一つは、貨幣の役割を少しずつ低下させていけるような社会のあり方をみつけだすことであろう。私はそれをローカル世界の形成としてとらえているのだが、貨幣が国家の権威とともに展開する商品である以上、それは国家の権威を低下させる社会のかたちをみつけだすことでもある。いわば人間たちの結び合いとともに展開する自律的社会の役割を拡大していくこと、そこにこそ今日の経済とは違う経済社会の可能性が存在している。

『コミュニティ』 R・M・マッキーヴァー
 かれにとってコミュニティとは、人間たちがつくろうとしてもつくれるものではなく、生まれてくるものであった。ここに自分たちの共有された世界があるという感覚が芽生えたときに生まれてくるのがコミュニティであり、それに対して人間たちがつくりだすことができるのがアソシエーションであった。アソシエーションはある目的を実現するために人間たちがつくりだす結合組織であると位置づけられている。つまり今日私たちが「コミュニティをつくろう」などといっているものは、マッキーヴァーにとってはアソシエーションなのである。

『農業の基本的価値』 大内 力
 経済はもともとは自然と人間が生きる世界の道具の一つであった。ところが近代に入って道具であるはずの経済が肥大化し、ついには社会の主人公のような地位を確立してしまった。だがそうなればなるほど、経済によって失われ、破壊されたものが明らかになってきた。
 農業もその一つである。今日の市場経済についていこうとすると、否応なく農業も単なる産業になってしまう。利益の最大化を目指してひたすら効率を追求するようになってしまうのである。そしてこの動きに追従できない農民たちは、農の世界からの退場を迫られてしまう。そして産業としての農業ではなく、人間たちの仕事の営みとともにあった農業がつくりだしてきた地域社会や地域の文化、農村の環境といったいろいろなものが壊されていってしまう。

『歎異抄』 唯円
…仏教は真理を説明するのではなく、真理を知るための方法を提示する。この方法が「行」であり、浄土系では一身に念仏を唱えることが行であり、禅宗では座禅を組むことが、真言宗では阿字観が、修験道では山での荒行が行である。ただし行を積んで悟りの世界に向かうわけではない。行をしているとき自体が悟りの世界、菩薩の世界、仏の世界なのである。

 現代社会は、すべてのことを合理的に説明しようとしてきた。ところが人間たちの精神や行動は、必ずしも合理的にはつくられていない。なぜなら合理的なものには、それを正しいとする共有された指標が必要で、人間はそれを共有するとはかぎらないからである。たとえばある程度の収入がなければ人間は幸せにはなれないと考えるのは、収入を共通の指標とする合理的な考え方であるが、実際にはその収入以下でも幸せに暮らしている人はいるし、逆に収入が多くても不幸な人はいる。幸せに共通の指標はなく、ゆえに合理的に説明できるものではない。




2020年9月20日日曜日

社交ダンス

どんなダンスのセンスもないと思っています
それでも社交ダンスをやってみたいとかねがね思っていました

ゼロからスタートしたのは昨年3月でした
熱心に教えてくれる先生のもと、7、8人の生徒の一人としていろいろなダンスを習っています
これまでに、ルンバ、タンゴ、ワルツ、ジルバ、ブルース、サンバ、スロー、をやりました

新しい種目を始めるたびに、頭と身体がはげしく動揺します
先生のいっていることがなかなか分からず、たとえ分かっても身体が動かない
それをどうにか納得させて、一曲通して踊れるようになってすこし安堵する
それを1年半繰り返してきました

この夏ごろになってようやくすべての種目をなんとか通しで踊れるようになりました
そんな矢先、先生から、〇〇さんはきょうから中級です、といわれました
えーっと思いました

中級になるととうぜん踊りの内容がレベルアップして難しくなります
踊るたびに頭と身体がきつく混乱する日々がまた始まりました

毎週日曜日、朝9時半から昼までのレッスンがきょうありました
種目によって踊れたり踊れなかったりです
全身どこもかしこもめいっぱい使うのでとてもくたびれます

話は遡りますが、社交ダンスをやってみようと思ったのには二つわけがありました

ひとつはヨーロッパで長い自転車旅行をしようと思っていたからです
その旅のあいだにひょんなことから社交ダンスをするはめになるかもしれない
その日のためにすこしは踊れるようになっておこう、と…

もうひとつはクルーズ船で地球を一周する旅にいつか出てみたいと思っていたからです
何日も洋上で過ごす旅の無聊を社交ダンスで慰められたらすてきだなあと考えていました
オールバックにしてタキシードを着てオードトワレをまとって…

そしてどうなったと思いますか?
自転車旅行へは何度も行きましたが社交ダンスらしきものにまったく遭遇しませんでした
クルーズ旅行の方はといえば、こちらはコロナ禍とともに夢自体しぼんでしまいました

それなのにどうして今も社交ダンスをやっているのでしょうか?
それは社交ダンスそのものが楽しくなったからです

社交ダンスをする時の頭や身体のはたらきはふだんととても違う感じがします
けっこうきついのですが、心地よいことでもあります
自分というまことに小さな存在にもまだ幾許の余地があると気づける瞬間です

今はこう思っています
たいそうな目的などなくても社交ダンスは楽しい!





2020年9月19日土曜日

ハジトミつくり つづき

朝一番で半年ぶりに川越市場へ行きました
9月22日の地鎮祭で供える物を買います
日本酒、尾頭付き魚、野菜、果物、昆布にわかめ
いいものを手ごろでそろえることができました

昼食はKCF弁当を食べて午後からハジトミつくりをしました

きのう生方さんのお宅でみたシトミドはこんな風でした
表側(上半分)
裏側(下半分)
これを参考にしてハジトミの線を引きなおしました
かぎりなく脆弱で節だらけで最低価格の杉の野地板を使います
それでも強度が保てるように考えました
材料の長さを調整して組み立てました
ハジトミ 表側
ハジトミ 裏側
あとは金具を付ければできあがりです

2020年9月18日金曜日

旧生方家住宅

一入亭のハジトミ(半蔀)の参考にするため実物を見に行きました
沼田市の旧生方家(きゅううぶかたけ)住宅です
300年以上前に建てられた東日本で最も古いといわれる商家(町家)です

シトミ(蔀)ははじめ寝殿造りに、ついで寺院、時代が下って商家によく使われました
店先を蔀にすると広々して商いがしやすくなりますからね
シトミド(蔀戸)の上半分をハジトミといいます
この家ではハジトミを内側にはね揚げて金具で釣っています
下半分は外してかたわらに立てかけてありました
昔の建具はいい材料を使っています
材料はマネできませんが構造は参考にして線を引き直すことにします
はね揚げたハジトミの高さは175㎝ぐらいです
頭上注意の札が下がっていました
土間を奥へ入っていくとバケツがたくさん置いてあって一瞬オブジェかなと思いました
板葺きの石置き屋根から雨漏りがするようです
見て、触って、入場料110円、見学時間45分は無駄ではありませんでした


2020年9月17日木曜日

山芋の千切りとおぼろ豆腐

いい気分のもと定刻17時に晩酌を開始します
いつもの芋焼酎の水道水割りです
ふだんのアテは乾き物ですが今日はほんの少し手をかけて山芋の千切りとおぼろ豆腐です
山芋は海苔で、豆腐は鰹節で隠れて見えませんね

ハジトミつくり

昼寝から目覚めて内山節さんの本を読みました
『内山節と読む世界と日本の古典50冊』
この人らしい内容に元気をもらってハジトミつくりにとりかかりました

まず材料を全部切り、組み立てを始めたところではや時間切れです
それでもあっという間にこういうことができてしまうのに感心してしまいます
こんなことがサラリとできてしまう今という時代についてです
とくに感心しない人もいるでしょうがじつはこれはたいへんなことだと思います
むかしのこと、たとえば一入亭が建てられた幕末のころを考えてしまうからです
あの当時ふつうの人がこういう材料や道具を手にするのは容易なことではありませんでした
それが今はさして苦も無くこのようにできるので有り難いです

草刈り

一入亭の草刈りをしました
今年三回目です
前回は7月25日だったのでだいぶ濃くなってしまいました
選択的草刈りの効用はあとかたもありません
30分×4回で終了にしました
家のまわりに刈り残しがありますが暑くて疲れたのでおしまいです
草刈りは単調な作業なのでやっているあいだにあれこれ考えます

一口に雑草と言いますけどじつにいろんな種類があります
同じ種類の雑草でもいろんなところに生えています
日当たりや日陰、平地やガケ、湿ったところや乾きやすいところ
共通しているのはどの雑草も何も言わないところですかね

昼は納豆ざるうどんを食べてほんのすこし昼寝しました
外は30度くらいありますが室内は23度でお昼寝日和です


2020年9月10日木曜日

ハジトミ

ハジトミのむこうにお坊さんの後姿が見えます

先日床を板張りにした一入亭のデイにハジトミ(半蔀)を入れることにしました
半蔀は開口部のうえ半分だけを外にはね揚げられるようにした建具です
下半分も外せるものは蔀戸(シトミド)といいます

いまはサッシ窓のところを半蔀で覆うように付け加えます
それによりつぎのことが期待できます
・日差し、風、雨、雪をふせぐ
・視線をさえぎり、戸締りをよくする
・冬場の積雪にある程度耐える
・内側を暗くして虫が寄りつきにくくする
かどの窓二面に半蔀を付けます
線引きしてみました

半蔀についてさらに調べてみました

沼田市の旧生方家住宅では商家に用いられた蔀戸を見学できるようです
一入亭へ行く道々立ち寄って感じをつかむことにします

思いがけなく古いエピソードにも出くわしました
夕顔が光源氏と結ばれたのは半蔀を揚げた家だったんですね(源氏物語第四帖)

御車入るべき門は鎖したりければ、人して惟光召させて、待たせ給ひけるほど、むつかしげなる大路のさまを見わたし給へるに、この家のかたはらに、桧垣といふもの新しうして、上は半蔀四五間ばかり上げわたして、簾などもいと白う涼しげなるに、をかしき額つきの透影、あまた見えて覗く。

さらにはこのエピソードを脚色した『半蔀』という能の演目があることも

なんと!



2020年9月5日土曜日

『猫を棄てる』 村上春樹


ブログを書くときにこころがけていることがいくつかあります

第一に、シンプルな短文、長くても一行、40字程度を越えないで表現することです
短文のほうが読みやすいし、書きやすいからです
それと、翻訳アプリにかけたときに短文の方が正確に翻訳されるようだからです

第二に、句点はいつも、読点はできるかぎり、使わないことにしています
一行以内に一文を収め、一文ごと改行しますので句点は必要ありません
俳句や短歌に句点がついていないのと同じことです
読点は、意味の取り違えを防いだり、読みやすくするために最低限使います

第三に、「しかし」や「いずれにせよ」などは、あまり使わないようにしています
「しかし」などの接続詞は、論旨を急転換するための、いわば急ハンドルのことばです
これが頻繁に登場すると、読み手はあっちを向かされこっちを向かされ、たいへんです
「いずれにせよ」などの副詞は、話を切り上げることばです
これが出てくると、読み手は急ブレーキを踏まれたようなショックを感じます

この本を読んで、ちょっと気になったことをメモしておきます
この作品は単行本サイズに換算したらわずか40ページほどです
(高妍さんのすてきなイラストのページは含めず、文章だけで)
そこに、上の第三の「急ブレーキ」ことばが頻出するのが気になりました

何回登場するか、ざっと数えてみました
「いずれにせよ(「いずれにしても」1回を含む)」が6回出てきました
「とにかく(「ともあれ」1回を含む)」が3回です

話を早く切り上げたいのか、何か落ち着かない感じが伝わってきました
この人の作品をたくさん読んできて、こういう印象を持ったことはありませんでした
だいたいはじっくりと話を進めていく人ですよね

彼はいつか自分の父について書かねばならないと思ってきたようです
そうしてようやく父と一緒に猫を棄てた話から書きはじめました
すると思っていたよりも筆が進んだということです

それでも長々書くのは気が進まなかったのでしょうか
はしなくもこのようにして「急ブレーキ」ことばが頻出してしまいました
父親について語るとき、彼も人の子になるのかという印象です

そんな彼の気持ちが分からないことはありません
というか、むしろよく分かるような気がします




2020年9月3日木曜日

デイ

一入亭のデイ(出居)です
広さは南側6帖、北側8帖の二間続きで畳敷きでした
湿気っぽかったこの部屋を、6日間かけて14帖の杉板の床に改修しました

デイは広間型民家の一番奥に位置した、床の間や付書院のある格式の高い部屋です
かつては身分の高い人を外から直接この部屋に迎え入れたそうです

床の間(右側、襖が立てかけてあります)は中越地震(2004年)で壁にひびが入りました
これから(気が向いたら)直そうかなー、と思っています
そうしたら気に入った掛け軸を下げたい

左側は、書院造であれば違い棚や天袋・地袋のあるスペースです
前の所有者はたしかここに大きな仏壇を入れていました
そこを今回押入れに改装しました
襖紙がちょっと(かなり)はがれていますね
この江戸末期に建てられた農家に、書院窓を付けるのは問題なかったのでしょうか
それとも明治以後に書院窓を後付けしたのか、分かりません
このひかえめな障子にとりわけ時代を感じます
チャノマとのさかいには、左右に板戸、真ん中に襖が入っています
左の板戸は外してあります
天井には一昨年に杉板を張りました
そして今回ようやく床板を張りました
まず古い畳を撤去して、その下の古い板張りの上に根太を打ちました
根太のあいだに断熱材を入れて構造合板を敷きました
その上に幅135㎜、厚さ15㎜の相じゃくりの杉板を打ち付けました
最後に一入亭の庭に生えている柿の実で作った柿渋を、原液のまま一回塗りしました
行灯などの照明は以前に自作しました
夏の昼寝は吹き抜ける風が心地いい
床に塗った柿渋がどんな色になるか楽しみです




2020年9月2日水曜日

壊れないRadio


一入亭で何かをしているときは、たいていこのラジオで音楽などを聴いています
隣の家と離れているので、ボリュームを大きくしても大丈夫です
ジャズ、クラシック、ポップスなどが好きです
それに漫才や落語なども聴いています
10年以上前に「ぼやき川柳」をこれで知り、はまりました

ソニーのスカイセンサーICF-5600というタイプです
1974年の夏(暑かった!)に秋葉原の電気街で買いました
その頃はお金に不自由していましたが(今も自由とはいえませんが)、大枚をはたきました
秋葉原駅の高架ホームに立ち、これが入った箱をぶらさげた、その重さを思い出します

当時はFM放送が人気で、情報誌がFMレコパル、週刊FM、FM funの3誌もありました
2週間分の放送日時、演奏者、演奏曲目、演奏時間などが載っていました
いい音で聴きたくて、FM放送の受信に主眼をおいたこの最新型ラジオを買ったのでした

いまでもふつうに聴けますが、老化現象はあらわれてきました
ボリュームが勝手に小さくなる時があります
また、ボリュームのダイヤルを回す際に雑音が入ります
それでもいまのところ、ある日とつぜんご臨終になるとは考えられません

先日、25年間見た東芝のブラウン管テレビを廃棄しました
このごろは画面の上部半分が伸びて、下部半分が縮んできていました
時報の丸い時計が、おにぎり形に見えてきたのでそろそろヤバイかなと思ってました
番組内容の把握には大きな支障はなかったのですが、引っ越しを期に廃棄しました

いまは別のソニーの15年もの(これもブラウン管式です)でテレビを見ています
このあいだ、その画面がほんのわずか、右に2度ほど傾いているのに気がつきました
この右肩下がりがジワジワ進行していくのかなと思います

ラジオにしてもテレビにしても、こうして何十年も使えるのは有り難いことです
こういう長寿命の製品を作った人たちの技術力と職業意識の高さに感謝しています
ふた昔前ぐらいまで、海外で日本の家電品がもてはやされたのは当然でした

それはじつはメーカーにとっては痛し痒しだったのですね
気に入った製品がいつまでも壊れなければ、新しい製品を買う必要がありません
一人の人が一生に一台しかラジオやテレビを買わないのではメーカーは困るのです

どんどん買ってもらいたいがために、メーカーはどんどん道を踏み外していきました
必要のないモデルチェンジを次々したり、大金をかけてCMを流したり、などなど
東芝はついに原発事業に失敗して、サザエさんのCM料も払えなくなりました

壊れないRadioをこれからもたいせつにしたいと思います