2020年12月29日火曜日

『ハゲを生きる 外見と男らしさの社会学』 須長史生


3年前に小学校の同窓会に出席しました
午前中に理髪店に寄って散髪してからそのまま会場に向かいました
お世話になった先生と懐かしい級友たちとほぼ半世紀ぶりに再会しました

会の様子をいろんな角度から撮影した写真があとから送られてきました
その中の1枚を見てオヤ?と思いました
自分の頭のてっぺんがいやに薄いのです

当日髪を刈ったということがあるにしろ思いのほかの薄さでした
自分の頭とはにわかに信じられませんでした
誰かほかの人の頭だと思いたいくらいでした

若い時からずっと髪型は真ん中分けにしてきました
この髪型の維持が最近なかなか難しくなってきたなあ、とは思ってました
真ん中で分けると頭頂部の地肌が目立つようになってきたからです

5:5していた分け目を同窓会のことがあってから4:6にしました
すると薄毛はだいぶ目立たなくなりました

それにしてもどんなものでしょうか?
この流れからするとこの先は3:7、さらに2:8と。じりじり後退することになるでしょう
側頭部の髪を真ん中の方の応援に向かわせるというおじさん特有の髪型です
「バーコード」や「スダレ」へと至る道です

最後はいかんともしがたく「未練の架け橋」を渡るような苦境に陥るでしょう
それが5年後なのか10年後なのかは知りません
それにしても分け目をつける髪型にしがみつく価値はあるのでしょうか?

ということで突然ですがこの夏から短髪にしました
ベリーショートです
2020年8月29日
一瞬ポニーテールに惹かれましたが手入れに手間がかかります
いつもきちんとしていないと不衛生っぽくなります

ザンバラはただむさくるしくなるだけです
それにロン毛にすると友人から一層「仙人のようだ」と言われることになります

ということで長髪系はやめることにしました

ベリーショートはどうか?

こちらにはそう惹かれませんでしたが何かと実用的なようです
短時間で安価に刈れるし、手入れはほとんど必要ないし、寝ぐせがつきません
そしてなにより短髪にすると薄毛が目立たないことに気がつきました


中高生のとき何回かスポーツ刈りにしたことがあります
襟足からかなり上まではっきりと刈り上げ、上の方だけほんの少し長めにしてました
スポーツ刈りにしていた時は心身ともにさっぱりしていた気がします
槍ヶ岳山頂 1971年7月26日
というわけでベリーショートにしました
薄毛がもっと進んだらベリーベリーショートにします!

ところでこの本おもしろいです

出発点は、
「ハゲた男性は女性にもてない」
「ハゲなど気にせず堂々としていればいい」
といった社会に流布する通念へのアンチテーゼです

これらをくつがえすジェンダー視点の思考・調査分析が「ハゲ」という一点を越えて秀逸です

「通常我々は会話の内容が自らの身体に及ぶと、多少なりとも動揺する。それはたとえ会話の上であっても、身体への言及は他者の領域(テリトリー)への侵犯であり、普段は慎まれるべきものとされているからだ。他者への親密さには、よそよそしい状態から互いの領域に踏み込み、双方のテリトリーを融合・浸食させることによって実現されるという側面がある。その意味では他者の領域への侵犯は親密さを築き上げる条件の一つになっているともいえる。つまり、身体への言及は、テリトリーの侵犯が相互に許しあえる仲なのだという親密さの確認の意味も含んでいるのである。この説明はハゲ経験にも有効である。他者の領域への侵犯が、こと、ハゲに関することになると、普段話題にすることを避けられる度合いは「その服、似合うね」とか「髪切ったの?」と比べても格段に高くなると思われる。それでもあえて「おい、ハゲ」と言う場合、それは発する側からの一層の親密さの表明であり、そこには互いの関係の親密さを確認しようとする意図が込められている。すなわち、他の連中なら決して触れることのできないタブーでも、俺たちなら笑って話題にできるのだ、と。
 しかしながらハゲへの言及は、親密性の表現という効果をもたらすと同時に、正反対の機能も果たしている。それはもちろん侮辱であり攻撃である。現在の日本においてハゲに言及することは、多少なりとも(否、おおいに)言及された本人に対する侮辱になることは明白である。からかいは、「遊び」という隠れ蓑をまとうことで自らを合理化しつつ、しかし確実に相手の心に攻撃を仕掛けているのである」

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