2020年10月25日日曜日

ためる、ためない

ためるためるビンをためる
ジャムのビンを物入れに使ってます
バッククロージャ―、石灰、輪ゴム
ためるためるバッククロージャ―をためる
食パンの袋のバッククロージャ―でコードをとめます
ほかにあまり使い道がありません
バッククロージャ―で止めたコード
ためるためる石灰をためる
せんべいや海苔の袋に入っている石灰です
庭に撒いて植物を育ちやすくします
庭に咲いたエビネ
石灰のおかげできれいなのかな?
ためるためる輪ゴムをためる
スーパーで揚げ物を買った時に袋を閉じる輪ゴムです
輪ゴムは使い道がいろいろあります
黒いハンガーには赤い輪ゴムがにあう
ためるためるビニタイをためる
焼きそばやラーメンの袋にビニタイが使われています
ビニタイはわら細工や竹細工でよく使います
わらをビニタイでとめます
ためないためない怒りをためない
怒りはすぐにこのビンに入れ十かぞえます
すごいときは百かぞえます

ためないためない
憎しみ、反発、絶望、落胆、憤慨、見くびり、妬み、自卑、恥辱、後悔、恐怖、軽蔑、嘲弄、小心、恐慌、残忍、買いかぶり、臆病、復讐心...
をためない
来たらさっとこのビンに入れ十かぞえます
ごっついときには百かぞえます


2020年10月20日火曜日

ねじ花さんの俳句

ねじ花やつむじ曲がりの朝の顔

立葵のてっぺんまでも他人の庭(ひとのにわ)

初夏や箱が欲しさに買うお菓子

色変えぬ松駅名はカタカナに

自転車を止めて眺むる秋夕焼

心地よき膝の狭さよ村芝居

口笛を吹けば空いっぱいに秋

木枯らしや何でも吊るしたがる店主

慎ましき薬缶のえくぼ寒日和

朧月や千円カットの首ずらり


2020年10月19日月曜日

『老いる勇気』 岸見一郎


老という漢字
これは腰の曲がった長髪の老人が杖をついている姿をかたどった象形文字だそうです
その姿は仙人のイメージと重なります

この春に何人かの友人に「仙人暮らし」をしているといわれて釈然としませんでした
つまり仙人のように老いているということだな!、と抵抗があったのですね
いい年してこんなことも超越できないので困ります

せめて仙人に見られないようにこの夏から髪型を短髪にしました
ヘアスタイルを変えるのはじつに数十年ぶりだったのでじゃっかん逡巡しました
床屋さんにも何度も「切っちゃっていいんですか?」と聞かれました
それほどのことかと思いつつもいよいよバリカンが入る時は「あ!」という感じでした

その髪型を見たどなたからも「いいね!」とか「なにそれ?」とかありません
自分が気にするほど辺りは気にしていないということですね
癪ですがベリーショートはすぐ乾くし寝ぐせがつかないので気に入っています

さて定年退職して5年近くたちました
競争社会とはおさらばしたはずですが習い性はそうやすやすとは退散しません
いまだに人と自分とを比べたり知らずに人に勝とうとしているときがあります

この点アドラーのいう「健全な優越性の追求」はぐあいがいいですね

きのうの自分よりましな自分になるためにきょう何かすること
「健全な優越性の追求」をこのように理解しました
あくまでも過去の自分よりかは優れた現在の自分を目指すということです

自分の退職からこれまでをちらっと眺めかえしてみました
するとあの時はできなかったけど今はできるようになったということがいくつかありました
それが人に自慢できるコンテンツやレベルなのかはわかりません

もちろん自慢できなくてもいいのです
自分がやりたくてやっているだけですからね
こういう割り切り方が若いときからできていればよかったなと思います
後悔しているわけではなく年齢に関係のない大切なライフスタイルだと思うからです

さらにふと思いました
見てくれや健康を除く老いの問題の大半はじつは若い人にとってもだいじなことかもしれない


2020年10月9日金曜日

一行レシピ 茹で落花生

 


よく洗った生落花生を4%の塩水で30茹でて、鍋に入れたまま20分さまします


この季節は掘りたての落花生が伊佐沼の農産物直売所に出ます
クリスタルクリアな芋焼酎の水道水割りがよく合います

2020年10月7日水曜日

『時間』 黒井千次


内山節さんの『山里の釣りから』を読んだ1982年頃「働く」がテーマの本を数冊読みました
自分が置かれた状況からの出口を見つけ出せるような本を読んでいたのですね
そのなかでいまでもよく覚えているのは黒井千次さんの『働くということ』です

「働く」とはどういうことなのか学生の時は真剣に考えていませんでした
就職して自分に合わない職場に配属されて初めて働くことの意味を考えさせられました
その状況についてはこのブログの9月25日の記事にちょこっと書きました

黒井さんの作品では『時間』も印象深かったはずでした
というのもタイトルだけは記憶していたからです
内容をまった覚えていないのが不思議で『時間』も40年ぶりに再読してみました

まるで初めてこの作品を読むようでした
それでもなぜタイトルを覚えていたのかはおおよそわかりました
おそらく主人公の心情に共感したからです

あの頃学生運動のトラウマを引きずって生きている人はめずらしくありませんでした
世代的にはもう激越な闘争の時代は過ぎていました
それでもまだ前の世代の怨念のようなものが時折のしかかってくるのでした

そのような時間を経て就職し実社会にもまれた幾人かのメンタルはかき乱されます
日々の仕事と折り合いをつけられず転職したり退職したりする人もいました
まわりの人のアドバイスで踏みとどまったとしてももがき続けるしかありませんでした

ひとつの決心をかためてある行動にでたことがその後の人生を方向づけたようです


2020年10月6日火曜日

『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』 内山 節


群馬県と新潟県との境に三国峠という標高1,300mを超える峠があります
両県の麓から続く長く急な坂道の国道17号線が峠直下の三国トンネルを通過しています
一入亭への行き帰りにその道を車でよく通ります

数年前の晩秋の小雨が降る日にその群馬県側で目を疑うような光景を見ました
中年の男性が荷物をたくさん積んだ台車を押しながら峠の坂道を上がっているのです
身なりや荷姿から彼が何かの作業をしているのではないことは確かでした

麓からトンネルまでの標高差は800mほどあります
前傾姿勢で台車を押す彼の背中からは湯気がたっていました
こうして上まで登り、暗い三国トンネルを抜けて、新潟県側の急坂を下るのでしょう
考えただけでもたいへんな道のりです

「旅」というにはあまりに過酷なのですが彼はいったい何をしているのでしょう
おそらく彼はこのようにして暮らしているのでしょうね
どこへ行って何をするといった格別な目的はないのかもしれない
そんなことを考えながら一入亭へ向かいました

一入亭での用事を済ませ二日後に同じ道を帰りました
すると六日町市街で日本海の方へ向かって台車を押している彼とすれ違いました
あそこから二日かけてここまで来たのです

その日は天気も良く前を向いて台車を押す彼の足取りは軽々としていました
彼が二日のあいだどこに泊まり、何を食べ、何をしていたのかは一切わかりません
それでも彼の様子を見ればここ数日を問題なく暮らしてきたことが伺われます

彼はけっして特別な例ではありません
というのも昨年その峠道で今度は年配の男女を見かけました
その日も雨模様で二人はうすいビニールのレインコートを着ていました
台車ではなく少し大きめのキャリーケースを引いていました
前を行く男性が後ろで立ち止まる女性に何か声をかけていました

毎年何人もの人たちがこのようにしてこの峠道を越えるのでしょう
どういったことで彼や彼女らがそうしているのかは知りません
今度同じような人を見かけたら車から降りて挨拶をしてみようかなと思います


さてキツネにだまされなくなった日本人はその後どうなったでしょうか?
町中に出ていろいろなものにだまされるようになりました
仮想通貨、架空請求、振り込め…
健康食品、サプリメント、薬品…

詐欺が蔓延するのは不安におののく人がそれだけたくさんいるからでしょう
お金のこと、健康のこと、家族のことなどで大勢の人が心配をかかえています

資産がそこそこあり
平均寿命が80歳を超えていて、
社会には民主的な制度が整い
民族紛争や戦争もなく、
自然災害はあるとしも
気候温暖で風光明媚な国土に
ひどい公害もない、
食料はかなり輸入品だけどある

このような国に日々の不安に苛まれている人があふれています
これはいったいどうしたことでしょう?
その疑問にこの本は答えてくれています

再びキツネにだまされるようになるには身体性や生命性と結びついた生活に身をおくことです
そうかといって1965年以前の社会にはもどれません
今できるのはどんな生活でしょうか?

毎日の生活は切れ目なく続きます
浮き世が清浄な地になる日まで待ってはいられません
いっそ町中を修行の場として生活してはどうでしょう
状況ではなく自らの世界のとらえかたを変えてしまう修行です

身の回りで手に入るものを最大限に利用しながら充足感の高い生活を目指します
自然との結びつきを保ちながら身体性と生命性を維持していくことがたいせつです
たくさんの禁忌、節制、鍛錬、超越などを自らに課すことになるでしょう
「山林修行」ならぬ「町中修行」です

「山上がり」の街角版である「町下り」はどうでしょう
これは「町中修行」がいろんな理由で困難な場合の選択肢です
もうすっかり町の恩恵にあずかってしまう生活です

町にはオアシスとはいえないまでも公私の、有形無形のシェルターがそこかしこあります
ふだんはそれが見えにくかったり使うのに抵抗があったりします

まずはシェルターを利用することへの抵抗感を振り払います
(これはこれでけっこうたいへんなことだと思います)
つぎに自分に適したシェルターを見つけ出します
(これにもかなりの努力が必要だとは思います)
そのシェルターで自然との結びつきがあり身体性や生命性が確保された生活をします
(これがいちばんむずかしくてそれなりの経験や技能が必要です)

そうして人の間へ出ていく気持ちになれるまでシェルターに退避しています
これが「町下り」です

「町中修行」はその気になればいまからでもはじめられそうです
「町下り」はもしもの時のためにとっておくことにします



2020年10月4日日曜日

『遠近の回想』 クロード・レヴィ=ストロース


「なぜあんなに仕事をしたとお考えですか? 仕事をしているとき、私は不安を感じます。しかし、仕事をしていないときには、私はやりきれない退屈さを感じ、私の心はひどく苦しむのです。研究生活は他の生活と比べて楽しいということはありませんが、少なくとも退屈することはありません」

彼は「おそらくは二十世紀という時代をもっとも深く生きた人間」(訳者竹内信夫)です
退屈するのが嫌だったようです
このことが印象的でしたので9月29日の投稿でも上の文を引用しました

――

「(『野生の思考』はさらに広い認識論的射程をもった著作で)それは西洋哲学では古典的なものになっていた感覚と知性という二つの次元の対立を克服しようとする試みでした。近代科学が打ち立てられたのは、このふたつの次元の分離という代償を支払ったからです。十七世紀には、このふたつはそれぞれ別のものでした。第二次的事象――つまり諸感覚の所与である色彩、臭い、味、音、感触などがそう呼ばれていたのですが、それは、感覚に依存することなく真実の存在世界を構成している、と考えられていた第一次的事象と、たがいに区別されていました。ところで、私の考えでは、「未開」と言われる部族において、思考は依然としてこのような区別を嫌い、すべての反省的思考を感覚次元の事象に還元するのですが、それでもやはり、感覚というこの唯一の基盤の上に一貫性を持った論理的な世界観を建設することに成功するのです。そしてそれは普通考えられているよりも実効性のある世界観なのです」

世界を感覚的にとらえることの大切さは経験的に理解しているつもりです
ことに旅に出た時はできるだけ五感に頼って歩くことを心がけています
それによってその世界をよりありのままにとらえることができるだろうと信じています

――

「(ソシュールは)彼の人生の、多分最も大きな部分を、ニーベルンゲンという神話と伝説と歴史の混じり合ったものの解明にささげたのです。ジュネーブ図書館に今でもそのための数百冊の手書きのノートが保管されていますが、私もそのマイクロフィルムを取り寄せて、それを研究してみました。それを私は夢中で読みました。そこにいろいろなアイディアを見つけ、とくに、ある一つの教訓を得ることができました。研究は進めば進むほど複雑さを増し、新しい道が前に開けてくるのです。ソシュールはこの壮大な研究の何一つも発表しないうちに死んでしまいました。私も同じようになりかねない、と感じましたので、その危険を逃れようとしたのです。そうしなければ、私の冒険も、ソシュールのそれと同じように、決して終わることがなかったでしょうね」

どんな人も一生のうちに一つの物語を紡ぎます
その物語はじっくりと見てみればとても興味深いものにちがいありません
なのにその物語をじっさいに自ら発表する人はほとんどいません
なぜでしょうか?

ひとつには人生というのが止まることなく常に推移しているからです

あるところで止まってこれまでの人生の物語を何かのかたちにしようと決心したとします
たとえば小説にして書こうしたとします
書いている端から人生という物語はまたつぎつぎと展開していってしまいます
そしてその展開はとうぜんながらその人が息をしなくなるまで続きます
なのでとても書きづらいのですね

死んでしまえばもうそれ以上物語は展開しませんが本人はもう亡くなっていて書けません

――

「もしあなたがアメリカ・インディアンの誰かに(神話というのは何ですか?と)お訊ねになったとしましょう。そうすると彼はきっとこう答えるでしょう。それは、人間と動物がまだ区別されていなかった頃の物語である、とね。この神話の定義は、私には、なかなか意義深いものに思えます。ユダヤ=キリスト教的伝統がそれを隠蔽するためにいろんなことを言ってきたのですが、この地上で他の動物と一緒に生きながら、地上で暮らす喜びを彼らとともに享受している人類が、その動物たちとコミュニケーションを持てないという状況ほど、悲劇的なものはなく、また心情にも精神にも反するのではないかと私は思うからです。これらの神話は、この原初の欠陥を原罪などとは考えないで、自分たち人間の出現が、人間の条件とその欠陥を生みだした事件であると考えている、というのはよく理解できますね」

人類は自らを他の動物とはちがう特別な存在だと思い込んでいます
そしてこの地球があたかも自分のものであるかのようにして生きています

――

「たとえ現象から現象へと進むほかないということが我々の宿命であるとしても、どこかで停止することが賢明なことであると知ること、そしてその停止すべき地点を知ることは重要なことだからです。表面に現れる現象、そして意味の背後に意味を求めるあくなき探求――正しい意味は決して知られることがありません――、この両者の間に、人間が落ち着いてもよさそうな中間的地点があるということを、何千年にもわたる経験から我々は教えられているのではないでしょうか。人間がもっとも多くの道徳的なまた知的な満足を見出し、快楽原則だけを物差しに使って測ったとしても、他の地点より居心地が良いか、あるいは居心地の悪さがより少ないと感じるような、そういう地点です。その地点が存在するレベルは科学的認識の、知的活動の、芸術的創造のレベルです。それではそこに留まろうではないか、ということなのです」

あくなき探求と進歩が人間の習い性だとしても安住の地点は見定めようじゃないですか

――

「(人権に関して少しばかり考察を加えた)私の報告はどういうものであったかと申しますと、それは、人間の諸権利というものの根拠を、アメリカ独立とフランス革命以来そうだと普通に考えられているように、人間というただ一つの生物種の特権的な本性に置くのではなく、人権というのはあらゆる生物種に認められる権利の一つの特殊事例に過ぎないと考えるべきだ、というものでした。その方向をとれば、狭い人権概念よりもよりいっそう広いコンセンサスを得られる場所に我々は立てるだろう。なぜならば、歴史的にはストア派の哲学に合致できるし、地理的には極東の哲学に追いつくことができるようになるだろうから、と言ったのです。さらに、民族学者の研究している、いわゆる「未開」の民族が自然に対してとっている、事象に即した実際的な態度と同じ平面に立つことさえできるのです」

人間の特権的な意識は人種差別に結びついていきます



2020年10月2日金曜日

しめさば

しめさばが好きです
久しぶりに食べようかなと店で見たことろオヤと思いました
ふだんは片身が400円ぐらいなのが片身が二つで400円でした
ふだんの半額です
ラッキー!

夕食に息子と片身づつ食べました
息子が言うには特に飲食店で出されるような魚が値下がりしているとのこと
そこに気がつきませんでした

魚の生産・流通にかかわっている人もほんとうに大変です