2020年10月4日日曜日

『遠近の回想』 クロード・レヴィ=ストロース


「なぜあんなに仕事をしたとお考えですか? 仕事をしているとき、私は不安を感じます。しかし、仕事をしていないときには、私はやりきれない退屈さを感じ、私の心はひどく苦しむのです。研究生活は他の生活と比べて楽しいということはありませんが、少なくとも退屈することはありません」

彼は「おそらくは二十世紀という時代をもっとも深く生きた人間」(訳者竹内信夫)です
退屈するのが嫌だったようです
このことが印象的でしたので9月29日の投稿でも上の文を引用しました

――

「(『野生の思考』はさらに広い認識論的射程をもった著作で)それは西洋哲学では古典的なものになっていた感覚と知性という二つの次元の対立を克服しようとする試みでした。近代科学が打ち立てられたのは、このふたつの次元の分離という代償を支払ったからです。十七世紀には、このふたつはそれぞれ別のものでした。第二次的事象――つまり諸感覚の所与である色彩、臭い、味、音、感触などがそう呼ばれていたのですが、それは、感覚に依存することなく真実の存在世界を構成している、と考えられていた第一次的事象と、たがいに区別されていました。ところで、私の考えでは、「未開」と言われる部族において、思考は依然としてこのような区別を嫌い、すべての反省的思考を感覚次元の事象に還元するのですが、それでもやはり、感覚というこの唯一の基盤の上に一貫性を持った論理的な世界観を建設することに成功するのです。そしてそれは普通考えられているよりも実効性のある世界観なのです」

世界を感覚的にとらえることの大切さは経験的に理解しているつもりです
ことに旅に出た時はできるだけ五感に頼って歩くことを心がけています
それによってその世界をよりありのままにとらえることができるだろうと信じています

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「(ソシュールは)彼の人生の、多分最も大きな部分を、ニーベルンゲンという神話と伝説と歴史の混じり合ったものの解明にささげたのです。ジュネーブ図書館に今でもそのための数百冊の手書きのノートが保管されていますが、私もそのマイクロフィルムを取り寄せて、それを研究してみました。それを私は夢中で読みました。そこにいろいろなアイディアを見つけ、とくに、ある一つの教訓を得ることができました。研究は進めば進むほど複雑さを増し、新しい道が前に開けてくるのです。ソシュールはこの壮大な研究の何一つも発表しないうちに死んでしまいました。私も同じようになりかねない、と感じましたので、その危険を逃れようとしたのです。そうしなければ、私の冒険も、ソシュールのそれと同じように、決して終わることがなかったでしょうね」

どんな人も一生のうちに一つの物語を紡ぎます
その物語はじっくりと見てみればとても興味深いものにちがいありません
なのにその物語をじっさいに自ら発表する人はほとんどいません
なぜでしょうか?

ひとつには人生というのが止まることなく常に推移しているからです

あるところで止まってこれまでの人生の物語を何かのかたちにしようと決心したとします
たとえば小説にして書こうしたとします
書いている端から人生という物語はまたつぎつぎと展開していってしまいます
そしてその展開はとうぜんながらその人が息をしなくなるまで続きます
なのでとても書きづらいのですね

死んでしまえばもうそれ以上物語は展開しませんが本人はもう亡くなっていて書けません

――

「もしあなたがアメリカ・インディアンの誰かに(神話というのは何ですか?と)お訊ねになったとしましょう。そうすると彼はきっとこう答えるでしょう。それは、人間と動物がまだ区別されていなかった頃の物語である、とね。この神話の定義は、私には、なかなか意義深いものに思えます。ユダヤ=キリスト教的伝統がそれを隠蔽するためにいろんなことを言ってきたのですが、この地上で他の動物と一緒に生きながら、地上で暮らす喜びを彼らとともに享受している人類が、その動物たちとコミュニケーションを持てないという状況ほど、悲劇的なものはなく、また心情にも精神にも反するのではないかと私は思うからです。これらの神話は、この原初の欠陥を原罪などとは考えないで、自分たち人間の出現が、人間の条件とその欠陥を生みだした事件であると考えている、というのはよく理解できますね」

人類は自らを他の動物とはちがう特別な存在だと思い込んでいます
そしてこの地球があたかも自分のものであるかのようにして生きています

――

「たとえ現象から現象へと進むほかないということが我々の宿命であるとしても、どこかで停止することが賢明なことであると知ること、そしてその停止すべき地点を知ることは重要なことだからです。表面に現れる現象、そして意味の背後に意味を求めるあくなき探求――正しい意味は決して知られることがありません――、この両者の間に、人間が落ち着いてもよさそうな中間的地点があるということを、何千年にもわたる経験から我々は教えられているのではないでしょうか。人間がもっとも多くの道徳的なまた知的な満足を見出し、快楽原則だけを物差しに使って測ったとしても、他の地点より居心地が良いか、あるいは居心地の悪さがより少ないと感じるような、そういう地点です。その地点が存在するレベルは科学的認識の、知的活動の、芸術的創造のレベルです。それではそこに留まろうではないか、ということなのです」

あくなき探求と進歩が人間の習い性だとしても安住の地点は見定めようじゃないですか

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「(人権に関して少しばかり考察を加えた)私の報告はどういうものであったかと申しますと、それは、人間の諸権利というものの根拠を、アメリカ独立とフランス革命以来そうだと普通に考えられているように、人間というただ一つの生物種の特権的な本性に置くのではなく、人権というのはあらゆる生物種に認められる権利の一つの特殊事例に過ぎないと考えるべきだ、というものでした。その方向をとれば、狭い人権概念よりもよりいっそう広いコンセンサスを得られる場所に我々は立てるだろう。なぜならば、歴史的にはストア派の哲学に合致できるし、地理的には極東の哲学に追いつくことができるようになるだろうから、と言ったのです。さらに、民族学者の研究している、いわゆる「未開」の民族が自然に対してとっている、事象に即した実際的な態度と同じ平面に立つことさえできるのです」

人間の特権的な意識は人種差別に結びついていきます



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