2020年8月31日月曜日

『スピノザの方法』 國分功一郎


ヒトは紛れもなく自然の一部です
芥子粒よりももっと小さな何ものからか進化してヒトの今日があります

ヒトは自然の法則の中で自らの可能性を拡張してきました
ヒトは自然を離れては存在すらできません

ヒトは自然の中でかなり個性的な生き物です
ヒトは自身を地上で唯一無比の存在と思っています
その思いが増々強くなり、今では自らが自然に依存していることを忘れようとしています
これがやがてヒトの破滅へと繋がっていくことに十分気がついていません

ヒトは自然の中に生きていくことで自らの存在を確保する真理を得ます
自然を蔑ろにした行為からは何も得るところはありません
むしろ自らの存在が危うくなります

いま、ヒトの欲望は暴走を続けています
これを食い止める装置であるはずの社会システムは機能不全を起こしています
ヒトの絶滅はもはや秒読みの段階に入っています

45億年の地球の歴史からみればホモ・サピエンスの40万年のなんと短い事でしょう
45億年の地球の歴史を24時間として、それが午前0時0分に始まったとします
ホモ・サピエンスの出現は午後11時59分52秒すぎです
4,500,000,000÷86,400≒52,083
400,000÷52,083≒7.7

ヒトは近代以降、地球に様々な悪さをしてきました
止むことのない自然環境の破壊は、ヒト自らと多くの動植物の生存を脅かしています
その勢いは止まるところを知らず、自らの行為を原因として自ら絶滅しようとしています

こんなヒトの存在も、地球にとっては大きな問題ではありません
ヒトによる地球の温暖化や資源の枯渇は地球の表層部分における変化にすぎません
環境の変化は動植物には影響がありますが、地球自体の存続には大きな影響はないのです
たとえ核爆発が世界のあちこちで起っても地球自体が破裂することはありません

ヒトは自らの存続を望むのでしょうか?
望むのであればヒトは自然の真理を理解しつつ生きるしかありません
真理に導かれて生きることが自らの絶滅を回避できる唯一の道だからです




2020年8月30日日曜日

ほんとうにあった怖くない話

人生というのはじつに意外性に満ちています
この凡庸なわたしにさえ、思いもかけないことがいくつも起きたのですから

これからお話しすることは(わたしの記憶の限りにおいて)ほんとうにあった話です
ちっとも怖くない(むしろ笑っちゃう?)ので安心して聞いてください

それはいまから50年以上まえのことでした
そんな昔のことですが、いまでも忘れられません
なぜというのも、それが自分の一身にかかわることだったからです

わたしは4人兄弟の次男で、兄、姉とわたしの3人は1学年違いの年子です
あと、わたしと6つ違いの弟がいます
子どもたちの誕生日には、親がお祝い(料理、ケーキ、プレゼント)をしてくれました

兄の誕生日は上皇后と同じ10月20日で、毎年つつがなくお祝いしました
姉は12月14日なので、お祝いはクリスマス・パーティーと一緒くたになっていました
年の瀬で親も忙しかったのでしょうが、これについて姉はいつも不平をいっていました
わたしの誕生日は2月13日で、弟は2月4日です
それで弟が生まれてからは、二人合わせてお祝いしてもらっていました

小学校に入学する前後ぐらいのときでした
親から(たしか母親だったと思う)とつぜんこういわれたのです
言いまわしはよく覚えていませんが、内容としてはこうです

「お前の誕生日はじつは2月13日ではなくて、2月14日だ」

同時に、姉の誕生日も12月14日から12月13日に訂正されました
要するに、姉とわたしの誕生日の日にちを、親が取り違えていたのです
そのとき親に対して、姉やわたしがどんな態度をとったのかは覚えていません

小さい時でしたから誕生日が1日変わったからといって、どうということもなかったでしょう
伝えなきゃいけない彼や彼女がいたわけでもありません
もちろん運転免許証なども持っていませんでした
誕生日はただ家族のあいだでだけ、たいせつなお祝いの日として意味があったのです
もしこれが例えば中学生のときだったら、ひと騒動になっていたかもしれません
じっさいがどうだったのかもう両親はいないので確かめようもありません

なんでこんな取り違えが起きたのか、想像するのは難しくありません

12月13日と2月14日には、1、2、3、4の4つの数字しか含まれていません
しかも13日と14日は1日違いです
日にちを混同しやすい条件がそろっているといえます
そんなこんなで、ある年に姉とわたしの誕生日の日にちが入れ替わってしまったのでしょう
ひょっとしたら二人とも13日あるいは14日でお祝いしていた年があったかもしれません
笑ってしまいます

こんなことが起こるほど3人の年子の子育てはたいへんだったのだなと思います
誕生日の1日や2日の取り違えくらい、それがなんですか?、の毎日だったのでしょう
きっと


2020年8月29日土曜日

ナナカマドの赤い実

前穂高岳北尾根にて 1984年8月

いまの自分はどのようにしてこんなふうになったのだろうか?
わかったら面白いかもしれないけれど、わかりません

たぶん、人生のいろいろが積もり重なり、何かの反応を起こしこうなったのかなと思います
そうとしか考えようがないといったほうがいいかもしれません

これまでのいろいろの中には、良いことも、悪いことも、数え切れないほどありました
多くは忘れてしまいましたが、何かの拍子に思い出すいくつかがあります

Kさんとの滝谷登攀もそのひとつです

滝谷は北アルプス北穂高岳の西側に広がる急峻な岩場です
滝谷と聞いただけで身の引き締まる思いがしたクライマーも少なくないでしょう
わたしもそんな一人でした

大学3年の秋にわたしを滝谷に誘ってくれたのはKさんでした
Kさんはわたしの高校時代の山岳部の顧問でした
顧問というのは、部員である生徒の指導を自主的に希望した教員のことです

わたしはもう一人の顧問のMさんと翌年にヨーロッパ・アルプス行きを控えていました
Mさんとわたしはすでにそのトレーニングのための岩登りに数回出かけていました
そんな折にKさんから、Mさんとどんなルートを登ったのかたずねられました

わたしはこれまで登ったルートをいくつかあげました
いずれも初心者向けのルートでした
Kさんはそれを聞くとしばらく考えて、「おれが滝谷につれていってやる」と言いました
Kさんは普段から忙しく、体調も十分には見えません
それなのに大丈夫かな、と思いました
それでも滝谷へ行きたい気持ちは強く、有り難く連れて行ってもらうことにしました

Kさんとの滝谷クライミングには北穂高岳山頂の小屋をベースにしました
そこへ至る尾根にはナナカマドの実がもう真っ赤に色づいていました
このあたりでは毎年9月中旬ころから初雪を見るのです
ときおり赤い実に目をやりながら、わたしはゆっくり歩くKさんのあとをついていきました

初日の午前は、滝谷の入門コースとして人気がある第4尾根を順番待ちしながら登りました
午後は中級向けの第2尾根P2フランケ早大ルートを充実感をもって登りました

翌日の午前が早くも今回最後のクライミングでした
Kさんは中級向けのドーム西璧雲表ルートを選びました

早朝に小屋を出て、スタート地点にどのパーティーよりも早く着きました
Kさんがトップで登攀を開始しました
わたしはセカンドとしてその場で確保姿勢をとります
トップがスリップした場合、ロープを引いて転落を食い止める役です

Kさんは岩の感触を確かめるように慎重に登りはじめました
10メートルほど登るともう確保地点からはKさんの姿が見えなくなりました
そして順調に繰り出していたロープの出が遅くなりました
Kさんがどうしているのか様子がわかりません

わたしが確保をしている場所は日陰で、冷たい北風も吹きつけてきます
30分以上同じ姿勢でじっとしていると、体が冷えきってガタガタと震えてきました

Kさんは一体何をしているのだろう?
こちらは寒さに耐えながら待っているのに、登攀をゆっくり楽しんでいるのだろうか?
そんな気持ちまで起きて、つい「どうしたんですか?」とKさんに何度か声をかけました

ようやくKさんから「登って来い」とコールがきたので、わたしは登りはじめました
するともうさきほどのイライラは消え失せて、調子よく登れました

Kさんと何度かトップとセカンドを交代して無事ルートの終了点につきました
ドームの頂上で登攀具を片付けていると、Kさんが言いました
「確保をしている時には、パートナーの命を預かっていることを忘れてはいけない」

たとえ姿が見えなくてもトップにはセカンドの様子が分かるのです
それはセカンドに自分の命を託しているからです
セカンドはつねにトップの万が一に備えていなければならないのです
Kさんにはわたしが確保に集中できていないことがよく分かったのでしょう

わたしが集中できなかったのには他にも理由がありました
わたしにはKさんよりも自分の方がうまく登れるという慢心があったのです
そのためKさんがトップで登り、行き詰っていることに耐えられなくなっていたのです
昨日中級レベルのルートを初めて登ったわたしは、早くも有頂天になっていたのでした
そんなわたしを諫めてくれたKさんは2003年に早逝してしまいました

ナナカマドの実が今年も色づく頃になりました

追伸
滝谷ドーム西璧雲表ルートをネットで検索してみました
なんと2000年頃にルートの下部が崩落し、ルートが失なわれてしまったようです



2020年8月7日金曜日

仙人暮らし


年に何回か友人と酒を酌み交わすことがあります
たいがいは「さし」で、どちらかの家で、手料理で、という感じです

そんな機会に、わたしの暮らしについて、友人3人から同様のコメントがありました
「仙人のような暮らしだ」と言うのです

はじめは、一人の友人と飲み食いしながら取り留めなく話をしていた時だったと思います
「仙人のような」と言われて、何を言っているのだろうと思いました
けれどさして頓着もせず、なんと返事したのかもよくおぼえていません

別の機会に別の友人から同じようなことを言われた時は、また来たかと思いました
そして、「それは仙人の定義によるなあ」とややツッケンドンな返事をしました
じつは、「仙人」と言われてあまりいい気分でなかったからです

わたしの「仙人」のイメージはこうです
長い着物を引きずった高齢の男性で、白髪を束ばね、髭を生やし、杖をついている
こういう老人のイメージがまず浮かんだので「仙人のようだ」を否定したくなったのです

「定義」について、この友人ははっきりこたえませんでした
それほど深く考えていたわけでもなく、ふとそのように感じて口にしたからでしょう
ほかにももう一人、わたしを「仙人」と見たてた友人がいるのです

「仙人」とはどんな人か調べてみました

①道家の理想的人物。人間界を離れて山中に住み、穀食を避けて、不老・不死の法を修め、神変自在の法術を有するという人。

②(仏教用語で)世俗を離れて山や森林などに住み、神変自在の術を有する修行者。多く外道を指すが、仏を仙人のなかの最高の者の意で大仙あるいは金仙ということもある。

③浮世離れした人のたとえ。                     

①と②は、いずれも神変自在というスーパーパワーを身につけた人です
神変自在というのは、神通力のような普通の人間にはない力です
友人たちは、そのような超人とわたしとを同一視したわけではないのは明らかです
③は、数こそ少ないけれど、どこにでも居そうなタイプです
友人たちが③の意味、「浮世離れした人」として見立てたのは、ほぼ間違いありません

これでわたしから「定義」を尋ねられた友人が、はっきり答えなかった理由もわかります
「浮世離れした人」とあからさまに言って、わたしの気分を害したくなかったのでしょう

わたし自身は①の人物にあこがれている部分があります
一入亭のチャノマの襖に老子の教えをいくつか墨書してときどき眺めています
友人たちにもそれを見せたらどういう反応があるか見てみたいものです
老子道徳経 抜粋



『分かりやすい表現の技術』藤沢晃治

ブログを4つやっていてシバシバ立往生しています

4つが多いからではありません
(すこし多いかもしれませんが・・・)
伝えたいことをどう表現するか悩むためです
文章表現はもちろんのこと、写真や、図や、動画をどう使ったら良いか迷います

一旦投稿した記事も、気に入らないところが見つかり修正することがよくあります
自分で気がついて修正するのはまだいいほうです
記事について、よく分からない、とフィードバックをもらってから修正する時があります

先日こんなことがありました
わたしのブログに藁竹茅という藁細工などの制作方法を記事にしているものがあります
それを見た藁細工をはじめて1年の方が、ある記事の説明がよく分からないというのです

このような意見をもらうのはじつはとても貴重です
なぜなら、分からなければスルーされてしまうのが泡沫的なブログの運命だからです
泡沫的である理由のひとつは、このように記事の表現が分かりにくいためです

さっそく指摘のあった記事を見直してみました
なるほど作り方の説明が十分でないと思われるところがいくつかありました
そこを噛んで含めるような表現に書き替えました

さきほどの方はそれを改めて見て、丁寧な説明でよくわかりました、とのことでした
「分かりやすい表現」には、読み手のプロフィールを考えに入れることが大切なのですね

「技術的スキル」と「表現スキル」は別物です
高い技術を持っているがゆえに初心者の「分からない」が理解できないことがあります
技術を分かりすぎているため、その表現が初心者には分からないものになるのです

藁細工を作るのは上手でも人に教えるのは下手、という人は珍しくありません
初心者が分かりやすいように教える「表現スキル」がないためです
「ほら、こうで、こうで、こうでしょっ!」といわれも初心者はついていけません

分かりやすいように表現しましょうね!


2020年8月4日火曜日

チャノマ

一入亭の修理をはじめて三十年近くたちます
なかなか進まなくてお見せできるところはまだほとんどありません
チャノマには余計なものが置いて無いのでお見せしても構わないかと

チャノマというのは古民家の用語のひとつです
中門造りの一入亭では建物の中央にあります
囲炉裏があって屋内生活の中心になるスペースでした


失われていた囲炉裏を復活しました
囲炉裏の上に吊るす火棚を作りました
天井を取り払い、松の丸太梁が見えるようにしました
床の畳を取り払い、杉板を張って柿渋を塗りました
襖紙を張り、そこに老子のことばを書きつけました
北側の壁を打ち抜いて障子窓を取り付けました
囲炉裏は火が恋しくなる時節までお休み中です