2020年11月30日月曜日

オサカナを遠く隔てて

5年前のきょう永いこと勤めた職場とさよならしました
そしてこれからはこんなふうにしようと思いました

オサカナを遠く隔てて
ときどき山川
ちょくちょく藁竹茅

ちょっと何のことか分からないですよね

お魚食べるのは好きですけれど
オサカナには距離を置こうと思いました

オサカナのオは女の人のオです
縁のない生活です

オサカナのサは酒肴です
酒は夕方に芋焼酎を一合飲みます
肴は乾き物か厚揚げなど
オサカナのカは金です
もらわない、あげない、つかわない
もちろん必要なかぎりということ

オサカナのナは名です
名誉とかプライドとか意地とか
つまりややこしい精神です


ときどき山に行きます
美しい姿を眺めたり、古民家で過ごしたりします
それから友人と川べりを自転車で旅します

ふだんは手仕事をしています
藁で民具、竹でかごやざる、茅で茅葺きです

この5年間で嬉しかったのは自身に可能性の残滓を見出したこと

さてこれからはこうしようかな

サカナを遠く隔てて
ときどき山川海
ちょくちょく藁竹茅

素敵だな…

2020年11月28日土曜日

『老後に備えない生き方』 岸見一郎


「老後に備えない」とはとりたてて老後対策はとらないということですね
人生哲学をことさらに更新しないであちらまで行ってしまおうというわけです
何かにつけ面倒くさがりの方にはピッタリの考え方かと存じます

しばらく前にこの人の『老いる勇気』という本を読みました
そして健康を除く老いの問題の大半はじつは若い人にとってもだいじだと実感しました
この本でも同じような読後感を持ちました

年齢や性別などを越えて、まず人として大切な何かがあるということです
その老若男女共通のだいじな何かとはいったいどのようなものでしょうか?

「人生は後悔の集大成にならざるをえない」 だからまず過去を手放すこと

「あらゆる悩みは対人関係の悩みである」 けれどまた

「生きる喜びも幸福も対人関係の中でしか得ることはできない」

「自分のまわりに自分を嫌う人がいることは、自分が自由に生きていることの証(あかし)であり、自分が自由に生きるために支払わなければならない代償である」

「およそあらゆる対人関係のトラブルは人の課題に土足で踏み込むこと、あるいは踏み込まれることから起こる」

2020年11月26日木曜日

ニワ

上り框(あがりかまち)

 一入亭に入り、トオリを抜けると玄関土間になります
ここから先がニワです

ニワ(庭)はこの家が建てられた当時(江戸時代末期)は全面が土間でした
ここで脱穀などの農作業や炊事をしていました
囲炉裏があったので古い部分の柱や天井は真っ黒に煤けています

入ってすぐ左にウマヤ(厩)に向かう通路があります
ニワとウマヤの間は高低差が30センチほどあります
スロープで滑って転ばないように矢羽根模様のシートを張ってあります

台所には解体するお宅からもらったシステムキッチンを据えつけました
冷蔵庫、電子レンジなどもあります

北側に食卓、ベッド、机を並べています

食卓と長椅子です
杉の破風板と貫を使って作りました
頑丈だけがとりえです
テーブルトップには茣蓙の上にポリカーボネート板を敷いてあります

こちらはベッドです
作りは食卓・長椅子と同じで、床がそのまま寝台になった感じです

この襖の中は工具や衣類などが置いてあります

こんどいつかウマヤをご紹介しま~す🐴


2020年11月16日月曜日

『おらおらでひとりいぐも』 若竹千佐子


わたしの母親は宮城県出身で20代後半からは家族とともに横浜で暮らしました
そして70代で亡くなるまで完璧に東北弁を使っていました
横浜の人々のあいだでズーズー弁を使うことにまったく抵抗がないようでした

家の中で両親は東北弁で話しをしていました
子どもたちは怒られるときも、褒められるときも(これはあまりなかった)東北弁でした
だからわたしは東北弁を読んだり、聞いたりすることに不自由はありません

わたしの日常で東北弁が役に立つことはほとんどありません
この本を読んでいて東北弁がわかるのはありがたいと感じました
やっぱり方言でなければ伝えられない思いとか、ニュアンスというのはあるのだと思います

全編を通じてそういう東北弁のリズムがこころに響きました
それと並行して言葉遣いを超えたいくつもの真実にも共感しました

「他人には意味もなく無駄と思えることでも夢中になれたとき、人は本当に幸せなのだろう」
「人は独り生きていくのが基本なのだと思う。そこに緩く繋がる人間関係があればいい」
「どこさ行っても悲しみも喜びも怒りも絶望もなにもかにもついでまわった、んだべ」

2020年11月14日土曜日

『道教思想10講』 神塚淑子

 


道教についてわたしは仏教やキリスト教のように宗教として強く意識することはありません
また儒教に感じるような圧迫感もあまりありません

率直にいうと仏教やキリスト教の世界は現実的な欲にまみれていて親しみが持てません
儒教は統治者に利用されてきた歴史が色濃くてなじめません
イスラム教やヒンドゥー教などはこの身からは遠い世界のように感じます
道教にはそのような違和感や先入観みたいなものがあまりありません

道教は現代の日々の暮らしの中ではほとんど縁のない宗教です
身の回りの人が道教について話しをするのを聞いたことがありません

わたしは道教がとりわけ気に入ったり、それを信じたりしているわけではありません
ただ20年ほど前に何かのきっかけで『老子』を読んだことがありました
そしてその中に自分の気持ちに符合する文言をいくつかみつけたのです
それでそのいくつかを一入亭のチャノマに書きつけたりしました

わたしには道教イコール老子というイメージがありました
そうではないのですね
道教は老子という一人の人間が始祖ではないということです
だいたい老子というひとが実在したかどうかすら疑わしいそうです

それは道教のマイナス面ではなくて、成り立ちの真実に近いことではないかと思います
一人の偉大な教祖が実在して何もかもがそこから始まったというのはどうにも胡散くさいです
それはひとの歴史のありようにそぐわない強弁のように聞こえます

老子という人が何かの拍子に先人の積み重ねの中からちょっぴりひらめきをえた
そのひらめきを後世の人が延々とこねくり回して『老子』という約五千文字が成り立った
それについてさらにいろいろな解釈が生まれ、人々に受容されていった
このように考えるのがよほど自然だと思います

『老子』は『老子道徳経』ともいわれます
この「道徳」はいまの社会でいっぱんに使われている「道徳」とは重みがちがいます
「道」は天地万物を生ずる偉大な働きです
「徳」は生じた万物を養い育てる働きです
この「道」と「徳」をあわせて「道徳」といったのです

たとえば女のひとが赤ん坊を生むというのが「道」です
その赤ん坊を周りの人がだいじに育てるのが「徳」です
女のひとは存在そのものが偉大なのです
男のひとは「徳」の方面でひたすら頑張るしかありませんね