日本人の生活の原点を見詰め直すための、これ以上の資料はないのではないかと思う。自動車はもとより、電燈とラジオの外に、家庭電気製品と名のつくものは何もない生活であっても、決して貧しかったわけではない、ということが伝わってくる。豊かさの初めに掲げるべき思いやりの心を、家族も村人も等しく持っている。それぞれが自分の時間を守っていることも、写真のそこかしこに読むことができる。
撮影は昭和31年6月21日から始まった。
多くの農山村がそうであるように、阿智村も、昭和30年代後半からの高度経済成長期の変動は大きかった。
昭和30年代後半から全国的な傾向になる省力による能率化、いわゆる農業の機械化である。機械化の発端と、それによってもたらされた変化は、村によってそれぞれ異なるが、ほぼ共通しているのは、機械と一緒に金を必要とする生活が農家にもはいってきたということである。むろんそれまでも金を必要としなかったわけではないが、必要最小限度にとどめ、農家が大きな経済の渦に巻き込まれることはなかった。これは、供出米の外は、自分の家で食べる食料の確保、いうならば食糧の自給のために働き、それが満たされれば十分というのが、多くの農家の営みだったからである。そこにはいってきたのが、車、テレビ、家庭電化製品、家具、服などの新しい生活用品である。これらは、供出米と繭の代金、それにわずかな雑収入だけではとてもすぐに買うことができない。しかし手に入れないと時代遅れになる。その感覚が村の変動の一つの要因となる。
夏 太陽の下の日々
農作業がほぼ自然と共にあったころには、暑い季節には暑く、寒い季節には寒くというのが農家にとっては望ましいことで、これによって作物がよく育つと考えられていた。
蚕飼い(こがい、養蚕)は、天候や生糸相場など、収入に不安定な要素が少なくないが、繭を出荷しさえすればとにかく金になるという現実は、農家にとって他に替え難いものがあった。
農家のもう一つの収入源は米である。
一つだけいえることは、汗を流すわりには、米の収入は少ないということである。これは今も変わりないが、それでも昭和30年代前半までは、少ないなりに農家は農業で生活できた時代だった。
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