2018年5月17日木曜日

『不死身の特攻兵』 鴻上尚史


昨秋の黒旅(6)で鹿児島の知覧にある特攻会館へ行きました
その展示を見終わってブログにつぎのような感想を記しました

 「ここには特攻隊員となった若者たちの悲壮な気持ちがあります 
隊員の親御さんたちが隊員の死を悼む気持ちがあります
そして出撃地となった知覧の人たちの無念の思いがあります

ここにないのは誰がどのようにして特攻を発案し
それが日本軍の作戦として採用され実行されていったのか
という説明です」

特攻を命令した側についてもっと知る必要があると思ったのです
今回不死身の特攻兵』を読んで特攻会館で抱いたにがい思いへのこたえを見つけました
特攻作戦がなぜ考案され、どのように出撃が命令されたかが書いてあったからです
その内容は高木俊朗さんの『陸軍特別攻撃隊』に準拠したものです
それでも胸のつかえが降りるような気がしました
佐々木友次さんという下士官(伍長)が1944年に9回の特攻出撃を命ぜられたのです
その概要は以下の通りです

ーー
月日       集合時刻 出撃機数 有掩機数 内容(戦果は軍発表)     上聞/葬式
11月12日 午前3時  4機   20機  佐々木戦艦一隻撃沈のち戦死      有
11月15日 午前4時  4機     8機  僚機に合流できず帰還
11月24日 正午近く   2機  機数不明  壮行式最中に爆撃にあい出撃中止
11月28日 午前10時    1機    6機   敵艦を発見できず帰還
12月4日   午後3時  1機    2機   敵戦闘機編隊に遭遇したため帰還
12月5日   午後3時  4機    9機   佐々木他戦艦一隻大破炎上のち戦死  有
12月7日   午前7時   10機   3機   整備不良で離陸できず
12月16日 早朝     1機    無   敵船団約200隻に遭遇し帰還
12月18日 不明    不明  有無不明 離陸後エンジン不調のため帰還

ご覧のとおりひと月余りの間に佐々木さんは9回もの出撃を命令されました
出撃のための集合時刻が始めは未明だったのが回を追うごとに遅くなりました
遅く出撃するとアメリカ軍の戦闘機と遭遇する確率が高まります
しかも最後のほうは一人で直掩機無しで出撃させられました
壮行式では知り合いがバナナを一房くれただけということもありました

司令官や参謀長からは「死んでこい!」「死んでくるんだ!」と口々に言われました
それほど上官は佐々木さんに死んでもらいたかったのです
華々しい戦果をあげ佐々木さんは戦死しましたと2度も天皇に報告してしまっていたからです
田舎では佐々木さんの葬式を2回出しました
天皇にまで報告し軍神となった佐々木さんを処罰できません
なので処刑飛行として佐々木さんに何度も出撃を強制したのです

9回目に帰還したのちにはもうフィリピンの日本軍は特攻する飛行機を持っていませんでした
そのため司令官や参謀長は佐々木さんに処刑飛行をさせられなくなりました
そこで司令官は参謀長に佐々木さんを密かに殺すよう命じました
参謀長は狙撃隊を作りましたが間もなく日本が降伏したため実行されませんでした
ーー

この後に佐々木さんは生まれ故郷に帰り92歳まで生きて2016年に亡くなりました
亡くなる直前に著者の鴻上さんは佐々木さんに何回かインタビューをしました
そのインタビューの内容と「特攻の実像」という特攻の分析が鴻上さんの業績です
この本のあとの半分はすでに高木さんが公にした『陸軍特別攻撃隊』からひいた内容です

この本にはユニークな部分が半分しかないとしても出版の意義があると思います
それはまず特攻を命令した側の実態を改めて知らしめ
そして佐々木友次さんという反骨の人の存在を伝えていることです


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