1975年4月1日火曜日

自立への模索 1975年4月1日~1980年3月31日

学費の工面

わたしは早稲田大学の社会科学部(通称社学)に合格したことを早速両親に伝えました

父はわたしの受験番号が「4919」で「良く行く」だから縁起が良かったと喜びました

母も喜んでいましたがいったい学費がどのくらいかかるのか心配な様子がうかがえました

それでわたしはお金のことはこれからも心配いらないと言いました

入学金と当座の授業料は1年間新聞配達をして貯めた金で払うことができます

その先も学費は、そしてできれば生活費も、自分で稼ぐつもりでした


アルバイト遍歴

大学の講義は毎回休まずノートもしっかりとりました

工業高校出身なので普通高校出の学生に遅れをとらないようにと緊張していたかもしれません

ところが1年生の成績が思った以上に良かったので若干拍子抜けしました


アルバイトの方も勉学に劣らず必死にやりました

学費は自分で工面するので良いアルバイトを早く見つけて収入の目途をつけようとしました

それがなかなか見つかりません


良いアルバイトというのは、時給が高く、仕事内容が面白く、体力的に楽なものです

それに大学に通いやすい場所で、勤務時間は融通がきき、おまけに週末は休み、だと最高です

そんな都合のいいアルバイトはそうあるはずもありません

それでも少しでもいい条件のバイトがないか1年生のあいだあれこれ転々として探し続けました


植木屋

最初のバイトは横浜駅の西口の植木屋です

通学の途中で店先に「アルバイト募集」の張り紙がしてあるのを見て始めました

植木と言ってもオモトやサツキといった鉢物を扱う小さな店です

ここは通学経路上にあり、仕事は楽で、時間の融通もききました

しかしいかんせん時給が安く、仕事の中身が面白くありませんでした

それで早く辞めて次のバイトを探そうと思いました

しかし店主の奥さんが親切なのでなかなか見限れず、5月の連休過ぎまでやって辞めました


返本整理

その次は本屋の倉庫で返本を整理する仕事をしました

ここは植木屋より若干時給が良かったのですが良かったのはそれだけでした

職場が不便なところにあり、仕事は植木屋よりさらに面白くありませんでした

屋外に面した空調の無い倉庫での仕事は夏が近づくにつれ暑く、きつくなってきました

それで1か月ほどで辞めてしまいました


スーパー

三番目に横浜駅近くのスーパーの生鮮品売り場の売り子をやりました

ここは時給はそこそこで、職場もほぼ通学経路上でした

明るい大きな店先で働くのは初めてでどんどん売ってやろうと意気込みました

「いらっしゃい、いらっしゃい」と毎日声を嗄らしているうちに嫌になってしまいました

これも1か月で辞めました


ここまでバイトを三つやってみて時給が良くて楽な仕事はないということがわかりました

それでバイトを選ぶ基準を変えました

仕事の内容は、合法的であれば、問わない

体力的にきつくても短時間で高収入が得られる

このようなバイトを探しました


ラリる

お盆の時期に1日10,000円という割の良いバイトを情報誌で見つけました

場所は厚木のN産です

仕事内容は「自動車工場の廃液タンクの清掃」と書いてありました

作業は大きな長靴を履いて塗装した廃液を貯める地下タンクの中でやります

廃液のカスをスコップですくって袋に入れ外に出す仕事です

タンクの中で作業しているると揮発性のガスで頭がクラクラして気持ちが悪くなりました

ようやく高給の理由が分かりました

これでは体がもたないと思い1日かぎりで辞めました


引っ越し

次は事務所の引っ越しです

週末のみの仕事で時給も良いのでやってみようと思いました

朝から晩までキャビネットや机などの重量物を運びます

これは体力的にとてもきつくて疲れ、週明けにまともに生活ができないので辞めました


旅行添乗員

時給がいいが体力的にきついバイトを二つ経験して体力勝負も長続きしないと悟りました

それで今度はもっと内容的に面白そうなバイトを情報誌で探しました

すると団体旅行の添乗員というのが目にとまりました

「ただであちこち旅行ができる!」、と喜んで応募しました

その下心を面接で見透かされたのか採用にもたどりつきませんでした


情報誌の売り込み

わたしがアルバイト探しに使っていた情報誌の会社が、営業部員の求人をしていました

これは目新しいと思って行ってみました

仕事内容は店や会社を飛び込みで訪問して情報誌に求人広告の掲載をお願いするものでした

1週間ほどやりましたがひとつも広告は取れませんでした

取れなくてもアルバイト代は払ってもらえるのですが居たたまれない気がしました

自分は営業に向いてないなと思ってこれも辞めました


大学出版部

秋になり、社学の掲示板に早稲田大学出版部のアルバイトを見つけました

時給は高くないですが大学でのアルバイトであれば終わったあと授業に出やすいと思いました


そこでは主に早稲田大学の研究者の執筆する学術書を出版していました

わたしの最初の仕事は杉本つとむという言語史学者が書く本の資料を集めることでした

もちろんわたしにはこの分野の専門的な知識はありません

やるのは学内の図書館へ行って指定された本のコピーをとることでした


この仕事はとにかく楽で、時間通りに終わりました

ただこのバイトの時給では学資と小遣いを稼ぐのはとうてい無理でした


ここで2人の男性と知り合いました

1人はすでに早稲田を卒業して編集者になることを目指している30代のIさんでした


Iさんはわたしよりもずっと大人でまじめでした

もう家庭を持って子供がいてもおかしくなさそうな外見をしていました

大学を卒業したあと編集者を養成する学校も出ていました

なんでわたしと同じコピー取りのアルバイトをここでしているのか不思議でした


さんはつかこうへいの芝居が好きで、わたしも誘われて何回か見に行きました

狭い芝居小屋のぎゅう詰めの席で根岸季衣や平田満、風間杜夫たちが熱演するのを見ました


もうひとりは第二文学部(通称ニ文)の3年生か4年生で名前は忘れてしまいました

ウィリアム・フォークナーの研究を志している人でした

この人は少しおしゃべりでお世辞にも信頼がおけるとは言いがたいタイプでした

でもあけすけなお人よしで早稲田のことをあまり知らないわたしにいろいろ教えてくれました


「学生職員」になる

暮れがせまったある日にわたしは例の二文氏と界隈の食堂で昼飯を食べました

そのあと出版部へ戻り2階の仕事場でだべっていました

すると隣の大学診療所の2階の窓から二文氏の友人がひょっこり顔を出しました

二人はお互いのバイトの待遇などについて窓越しに話し始めました


二文氏の友人は自分のやっている大学の「学生職員」についてとうとうと自慢しました

給料は普通のアルバイトより格段に高く、年に3回のボーナスもある

健康保険や雇用保険にも加入できて、有給休暇さえ取れる

仕事の内容は出版部と似たようなものだ


これにはおしゃべりの二文氏もグウの音もでませんでした


この話しを二文氏の横で聞いていたわたしは「これだ!」と思いました

すぐにその友人を診療所に訪ねどうにしたらその「学生職員」になれるのか教えを乞いました


友人氏が言うには「学生職員」は学生の身分の間だけの採用なのだそうです

それで3月の卒業時期になると毎年退職者がたくさん出ます

大学の人事課はそれに備えて年明けに各学部の掲示板に新規採用の募集掲示を出します

新年度を迎えるまでに面接を経て「学生職員」が決まります

友人氏はこう親切に教えてくれました


わたしはこの「学生職員」にどうしてもなりたいと思いました

もし友人氏の言うとおりならば言うことありません

学資は楽々稼げて、勉強にも集中でき、休暇を使って山登りやスキーにも行けます

なんてすばらしいのでしょう!

想像しただけでうっとりしてしまいました


友人氏の言った通り年が明けると「学生職員募集」が社学の掲示板に張り出されました

さっそく履歴書を人事課へ送り面接の連絡が来るのを待ちました

しかし1週間たち2週間たっても面接の連絡はありませんでした


これはどうしたものかと彼の友人氏に知恵を乞いにいきました

すると「学生職員」はとても人気があり応募者がたくさんいるのだそうです

採用は大学の教職員に縁故のある学生が優先されることが多いとのこと

わたしのようにどこの馬の骨ともわからない人間は後回しになります

とりたてて見るべきところもない履歴書を出してただ待っていたのではだめだそうです

自分から売り込みに行かなければ採用されないだろうとのことでした


それまでわたしは自分の売り込みなどしたことがありませんでした

それらしきものとして2年前に朝日新聞の配達奨学生になんとか追加で採用してもらいました

あの時は採用担当者に電話でごり押してなんとかなったのでした


数日後わたしは意を決して大学本部の四角い建物の上のほうにある人事課へ行きました

忙しそうにして出てきた採用担当の職員に自分の経済状況を手短かに話しました

そして辺りの人にも聞こえるような声で「学生職員に採用してください」と頭をさげました

すると担当の人は机の上に山と積まれた応募者の履歴書を指さしていいました

「こんなにたくさん希望者がいるので全員を採用することはできない」

「もし君と面接してもいいという事務長さんがいたら電話するよ」

とどこかで聞いたような言い回しでわたしに言いました


それからしばらくするとその人から電話がありました

大学の体育局へ行ってT事務長と面接するようにとのことでした


その頃早稲田大学の学生は卒業までに体育の実技と講義を2科目ずつ取る必要がありました

体育局はそのためにたくさんの授業科目を実施していました

それとともに野球部や水泳部などこれまたたくさんある体育各部を統括している部署でした


わたしは文学部キャンパスのかたわらにある体育局へ行きT事務長の面接を受けました

わたしの家は経済状況が厳しいので自活したいこと

スポーツが好きなこと

採用してもらったらどんな仕事でもよろこんでやること

などを話し、「なんとか採用してください」、とお願いしました


T事務長は以前は社学の事務長をしていて体育局へは最近異動して来たとのことでした

そういえばわたしはこの人をどこかで見たような気がしていました

昨年春の社学入学式の時わたしは会場の前の方に座っていました

式が始まると壇上に学生自治会のメンバーが大勢で押しかけ教職員と押し問答になりました

わたしはその様子をあっけにとられて見上げていました

その時このT事務長が険しい顔で自治会の学生たちと対峙していたのを思い出しました


T事務長との面接の結果、わたしは「学生職員」に採用されることになりました

こうして1976年3月から晴れて体育局で勤務することになったのです


学生職員の仕事と日常

「学生職員」の勤務を始めて2週間ほどたち最初の給料日が来ました

「俸給」と大きく印刷された袋を開けてみると現金と一緒に給与明細書が入っていました

給与から雇用保険や健康保険の金額が差し引かれていました

これからわたしがこれらの制度の適用を受けるようになったしるしでした


わたしは大学生になってからの1年間にいくつものアルバイトを経験しました

が、どれも自立した学生生活を保証するようなものではありませんでした

「学生職員」の存在を知った時も、働き始めた時も、わたしは同じことを思いました

これならば何もかも精一杯にやっていける

わたしは二文氏との出会いとその友人氏の親切に感謝しました


体育局には毎朝8時に出勤しました

わたしはSさんという中年男性の専任職員のもとでいろいろな仕事をしました

Sさんは常にとても丁寧な言葉づかいでわたしに仕事の指示をしました

仕事はこれまでわたしが経験してきたどの仕事と比べても簡単で少量でした

なので指示されたことはたいていすぐにやり終えてしまいました

そしてSさんに「終わりました。ほかにやることはありませんか」と聞いていました

するとSさんは困ったような顔をして「とりあえず待機していてください」とよく言いました


ある朝Sさんがいつものようにホンダのカブで出勤してきました

そして「寒い寒い」と首をすくめて事務所に入って来ました

T事務長が「寒いならバイクでなく歩いて来たらどうだい」とSさんに言いました

Sさんの家から事務所まではゆっくり歩いても10分ほどだったからです

Sさんは少し自慢げに「これも健康法だと思って我慢してます」とこたえました

T事務長は「健康法かい!」と苦笑していました


年度のはじめには新品のボールやグローブなどが大量に必要になりました

これに「早大体育局 78-1」などとマジックインキで書き込みました

日照りが続いてグラウンドが乾いた時は土埃がたたないように消防のホースで水を撒きました

六大学野球で早稲田が優勝した時の提灯行列では先頭に立って神宮から早稲田まで歩きました


体育局の建物の一階の奥に扉のついた大きな木製の物置棚がありました

高さは2メートル、奥行きは1メートル、長さは10メートルほどもありました

この棚を皆で共同で使っていました

手前には事務用品、中間には年間を通じ使う用具、奥には季節毎に使う用具が入っていました


この棚のよく使う手前はまだしも中間から奥にかけてはひどく乱雑になっていました

どこに何が入っているかすぐには分からないほどシッチャカメッチャカでした

見かねて少々片付けてもすぐにまたもとの状態に戻ってしまいます


わたしはこの物置を整理することにしました

棚に入っている大量の物品をいったん全部外に出し入っていた物のリストを作りました

各扉にそこに入っている物のリストを張り付け物品を整理して戻し入れました

「待機」している時にこの作業をやってひと夏かけて終わらせました

棚は格段に使いやすくなり滅茶苦茶にもならなくなりました


事務所にはSさんより年若のOさんやTさんという専任職員がいました

よく一緒に昼飯を近くの食堂に食べに行きました

ラーメンやカレー、炒飯などでしたが大抵はこの人たちがおごってくれました

そのほかにも酒を飲みに連れていってくれたり家に食事に招いてくれたりしました

本当によくご馳走してもらいました

体育局の暑気払いで

その頃母方の高齢の祖母を宮城県の老人ホームに訪ねたことがありました

祖母はわたしに「苦学してんのか?」と同情するように聞きました

わたしには苦労しているという意識はなく自分で生活し学び遊んでいる満足感がありました

なので祖母の「苦学」ということばの響きに違和感を持ちました


祖母の言ったことは間違いではなかったことをあとで知りました

「苦学」というのは「労働をして学資を得ながら学ぶこと」(広辞苑)なのです
わたしは喜んで「苦学」をしていたのでした


体育局の仕事が終わるのは4時でそれから3時50分の授業に出席しました

大学の教員はたいてい授業に少し遅れて来るのでそれでたいてい間に合いました

まれに時間通りに授業を始める教員もいました

そのような時はSさんに理由を言って職場を少し早く抜けさせてもらいました


夜の8時30分まで90分の授業を3コマ、時折襲ってくる眠気をこらえつつ受けました

授業の合間かそのあと大学周辺のどこかの食堂で夕飯を食べました

メニューはミックスフライ、焼き魚、カツカレー、焼き肉(ただしレバー肉)など

店はメルシー、秀栄、昇龍軒、カロリー、カレーの藤、おふくろ、オトボケなど

予算は最高でも500円でした


下宿へ帰って一息ついた後、近所の銭湯へ行きました

11時が終い湯なので体を洗っていると周りのタイルをデッキブラシでゴシゴシ洗われました

さっぱりしたあと、酒屋に寄って自動販売機で缶ビールを買いました

ブラブラと歩き飲みしながら下宿に戻りバタンと寝ました


ヨーロッパへ登山に行くと決める
学生職員になって間もない1976年5月に横浜の実家から早稲田鶴巻町の下宿へ引っ越しました
三畳一間で入り口とトイレと台所は共同でした

はやくもその年の秋にこの下宿が区画整理事業の対象になっていると知らされました
来年の夏までにこの下宿は取り壊しになるといいます

引っ越してやっと落ち着いたところなのになんということだと思いました
それならそうと大家はなぜ入居の際にわたしに言わなかったのかと頭にきました

しかしよくよく話しを聞いてみると補償金として20万円くらいが支払われるとのことでした

区画整理で転居する際には家賃が月1万円の3畳間でもそれくらいの補償があるのです


それまで自分が自由に使える金として20万円もの大金を手にしたことはありませんでした

僥倖あるいは棚から牡丹餅とはまさにこのようなことです

このような幸運はわたしの人生で二度と無いかもしれません

このチャンスを絶対無駄にはできません

わたしはそう思いました


よくよく考えたすえ、この金を飛行機代にしてヨーロッパへ登山に行くことにしました


高校生の時に山岳部顧問のM先生が「ヨーロッパアルプスに行ってみたい」と言っていました

それを聞いてヨーロッパアルプスはそんなに良い所なのかと思いました

わたしはこれまで北アルプスで何度も山登りを楽しんできました

北アルプスと同じように、あるいはそれ以上にヨーロッパアルプスは素晴らしい所のようです

それなら自分もそこへ行って登山がしてみたいと思ったのです


1976年秋に磯工の学園祭へM先生に会いに行きました

そしておもむろに「来年の夏にヨーロッパへ行って山登りしませんか」と申し出ました

M先生はちょっと驚いた様子でしたが、まんざらでもなさそうでした

わたしの希望は1977年の夏に行くことでした

しかしM先生はいろいろな都合で来年は無理だといいます

再来年、1978年の夏であれば行けるかもしれない、ということです


1978年の夏となるとこんどはわたしの方が少々厄介でした

大学4年生なので春に教育実習があり、夏には就職活動や教員試験があります


こうなると来年の夏に一人で行くか、いっそ諦めてしまうか


長考せずに1978年の夏にM先生とヨーロッパへ行くのを最優先にすることに決めました

教職や就職に関わることはすべて後回しにするとM先生に言いました


山とスキーへの葛藤

その頃わたしはやむに止まれない気持ちを抱いていました

同じ山登りやスキーを目指す人たちとグループを作れないものだろうかと焦っていました


考えたあげく、早稲田大学の中で同好の士を集めてグループを立ち上げてみようと思いました

わたし自身の中でこのアイディアはたいそう盛り上がりました

「新たに山とスキーのサークルを作るので会員を募集します」、とポスターまで描きました


そこまでやって改めて考えてみました

自分は毎朝8時から午後4時まで働き、その後夜8時すぎまで授業に出ています

平日はサークル活動ができる時間的余裕はほとんどありません

だからサークルを立ち上げても自分自身がその活動に参加できるのは週末のみです

それでは大したことはできません


ということで大学で山とスキーのサークルを創るアイディアは早々に頓挫しました


社会人のスキークラブを創る

対象を変え神城山荘にスキーをしに来る若手メンバーでスキークラブを創ることにしました

会の名称は、バイスリーベン・スキークラブというドイツ語名にしました

白い恋人たちのスキークラブという意味になると思いました

WLSKはその略です


わたしはこのクラブの会長におさまり、磯工山岳部の同期だったSが副会長になりました

メンバーは磯工山岳部のOBや同級生、Sの勤め先の同僚などです

会員を募集するとすぐに20名以上が集まりました


さっそく活動を開始しようとしました

が、この年は12月になってもスキー場に雪がなかなか積もりませんでした

正月になってようやく雪が降ったのでさっそく神城スキー場で合宿を行いました

クラブ員全体のスキーレベルの向上のために講習を実施しました

また、クラブの活動として神城山荘の運営にも関わることになりました


ヨーロッパアルプスへ登山に行く

1977年7月から1年間にわたってM先生とトレーニングのための山行を重ねました

そして1978年夏に1カ月にわたってヨーロッパアルプスの山旅をしました

モンブラン山頂で


大学での勉学
わたしは将来高校の社会科教師になりたいと思って大学への入学を目指しました
大学受験に一度失敗して浪人生をしている間に高校教師になる夢は早くも冷めてきました
浪人生活を支えるために新聞配達をしました
新聞をよく読むようになったことが影響し新聞記者になりたいとも考えるようになりました

自分の将来像がぐらついてきてわたしの大学での勉学は腰の定まらないものになりました
大学の授業科目はそれぞれがいろいろな方向を専門性を目指したものです
どこかに焦点を絞るのはなかなか難しいことです

そのような中で大学三年からのゼミを小林茂教授の「日本資本主義の農業問題」に決めました
小林先生はとても整然とした授業をしていました
板書は、図表も含めて、きれいで説明が分かりやすいものでした
こういう教員のゼミであればさぞ楽しく学べるのではないかと思いました

ゼミを選択する基準は学生によりさまざまです
学生に人気のあるゼミは、勉学の負担が軽く、いい就職先が見つかりやすいゼミです
その点からいうと小林先生のゼミは学生に人気のないゼミでした

わたしが5年間の学生生活でもっとも集中して勉強したのはこのゼミの課題に関してでした
各自のテーマについて400字詰め原稿用紙50枚の論文を3年生と4年生の終わりに提出しました
長い論文を書いたことがなかったのでそれを書き上げるのはきついことでした


ヨーロッパアルプスへこんどはスキーに行く

1980年4月から大学の専任職員として働き始める前に卒業記念に何かをしたいと思いました

1年間就職浪人をした間はあまり金を使わなかったので蓄えがありました

それでWLSKの仲間と相談してヨーロッパアルプスへスキーに行くことにしました


パッケージのスキーツアーではなく自分たちでオリジナルのスキー旅をつくることにしました

飛行機でパリに着き、列車で代表的なスキー場を渡り歩きます

シャモニ、ツェルマット、グリンデルワルトが候補に挙がりました

最後は再びパリに戻って観光し、帰国する計画です


現地で病人が出たり、大雪に遭ったりするアクシデントがありました

それらをなんとしながらヨーロッパアルプスのスキー旅を3週間にわたって楽しみました

シャモニーのスキー場で

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