方法
日本資本主義論争概観
「資本論」における経済外的強制
高率物納小作料の実態
「経済外的強制」に関する諸見解
「経済外的強制」に関するわたし見
「講座」「労農」両派と宇野理論
参考文献
方法
日本農村において、農地改革施行以前に経済外的強制が行われていたか、否かという点は、日本資本主義論争で「講座派」と「労農派」の意見が、対照的に対立した点であった。「講座派」は、日本農村の特殊的性格として高率物納小作料を指摘し、その根拠を「経済外的強制」に求めた。一方「労農派」は、高率物納小作料を、経済的条件によって生じる現象であるとしたのだった。
このような意見対立の根本的問題は、単に「経済外的強制」という社会現象の検証だけではなく、日本資本主義の性格規定さえも含んでいると思う。つまり、「講座派」と「労農派」のそれぞれの日本資本主義に対する理解の相異が「経済外的強制」の肯定・否定の判断に、基本的な意味をもっていると思うのである。両派の日本資本主義の理解の相異は、その段階の起点であるとされる明治維新、あるいはそれ以前の段階においてすらも、明確に2つに分裂する。であるから、「経済外的強制」の問題は、その現象のみに終始すべきものでなく、当然、日本資本主義の性格規定と脈絡をもったものとして検討されてこそ正当な判断を下すことが可能であると思う。
さらに言えば、このような両派の日本資本主義に対する理解の相異は、結局、両派のマルクス経済学に対する理解の相違から出発しているといわざるを得ない。
以上の前提に立つ本論文の究極の目標も、「経済外的強制」の問題を起点として、両派の日本資本主義の性格規定の相異を明らかにし、さらには両派のマルクス経済学の理解のしかたの相異を明らかにして、最終的には、両派を批判的に考察して独自の見解を提示することである。
しかしながら、初学者であるわたしがその問題と取り組むためには、予め知っておくべき基礎的事項が多数あったために、本論文が、自分の学習したことのまとめといったふうな体裁をとらざるを得ず、前述した独自性を打ち出すことが不充分であったことは否定できない。
しかし「経済外的強制」というひとつの現象のみを取りあげて独断的見解を表明するよりも、日本資本主義あるいはマルクス経済学全体の中に包括されるいち問題として「経済外的強制」について考察を試みることの方が、有意義であると思い、あえてこのような形式をとることにした。
当初の予定では、「講座」「労農」両派から、さらに両派を批判的に検討した理論として宇野博士の諸理論に論及する予定でいたが、論文の紙数、自分の能力などの限定があり、今回は断念せざるを得なかった。「経済外的強制」と宇野理論については、次年度のテーマとしたい。
日本資本主義論争概観
主題である「経済外的強制」を、「講座」「労農」両派を中心として考察するためには、両派の由来および争点について少なくとも事実関係程度は予め知っておく必要がある。そこで、その点について述べることとする。
日本共産党は、非合法政党であった1924年6月に当局によって強力な弾圧を受け、壊滅的な打撃を受けた。それを発端として、党は再建派と解党派の2派に分裂した。
再建派は、コミンテルンの発した1927テーゼに基づく党綱領を作成する一方、日本資本主義の現状を理論的に解明する論陣を形成した。その代表的理論家には。いわゆる「講座派」の先駆をなした野呂栄太郎(主著「日本資本主義発達史」)や、服部之総(主著「明治維新史」)らがいた。1932年にコミンテルンが発したテーゼを基本として、野呂の指導下に日共の新綱領が作成された。
一般に「講座派」といった場合、この32年テーゼにそって理論を形成した人々を指すのであって、山田盛太郎(主著「日本資本主義分析」)、平野義太郎(主著「日本資本主義社会の機構」)の2人を取り上げる。「講座派」は32テーゼに依拠しつつ、当時の日本が旧ロシアでいうツァーリズム下にあり、依然として絶対主義の時代にあると規定した。だから、明治維新は資本主義段階に移行する起点としてのブルジョア革命ではなく、単なる封建制の再編成であったにすぎず、天皇制絶対王政を成立させただけのものであった。だから、日本に社会主義国家を建設するためには、まず権力の民主化を目的としたブルジョア革命を完成させ、一般資本主義化が実現された後に、プロレタリア革命を打ち立てる必要があるとした。これがいわゆる2段階革命説と呼ばれるものであって、この理論が「講座派」理論に強く影響を与えていることが、「経済外強制」の問題を取り扱う場合にも感じられる。
以上のような「講座派」の理論に対するアンチテーゼとして、マルクス経済学に立脚しながら批判を加えたのが、いわゆる「労農派」と呼ばれる人々である。「労農派」は1924年に分裂を余儀なくされた日共の解党派をその母体としている。「労農派」の主張した「1段階革命説」によれば、明治維新はブルジョア革命であり、それ以降の社会は必然的に資本主義社会であるのだから、労働者階級は次に社会主義革命を完成させる必要があるとしたのである。ここで取りあげる主たる論客としては、向坂逸郎(主著「日本資本主義の諸問題」)、土屋喬雄(主著「日本経済史概説」)の両者である。
端的にいえば、「講座」「労農」両派の対立は、明治維新をブルジョア革命と規定するか否かという点に集約することが可能ではないかと思う。
「資本論」における経済外的強制
日本資本主義論争において問題となった「経済外的強制」は、明治維新以降の日本農村におけるそれである。しかし、それを論ずるには、まず「資本論」において述べられている経済外的強制について検討した後で述べなければならないであろう。というのも、「講座派」は「経済外的強制」を、明治維新が単なる封建制の再編にすぎないという前提のもとに理論的に検討する一方で、「労農派」は、明治維新以降の日本を資本主義社会であるとして、「経済外的強制」を否定するのであるから、封建制下の「経済外的強制」が「資本論」の中でどのように規定されているかをあらかじめ知っておくことは、重要であると思う。
「資本論」第3巻の労働地代で、マルクスは封建制下の農業労働においては、いかにして不払剰余労働が強要されるかを説明して概略次のように述べている。
「直接生産者は、彼自身の生産手段を、彼の労働の実現と彼の生活手段の生産とに必要な対象的労働条件を、占有している。彼は彼の農耕をも、それと結合された農村家内工業をも、独立に営む。これらの条件のもとでは、名目的土地所有者のための剰余労働は、ただ経済外強制によってのみ強奪されえ、これがいかなる形態をとるかを問わない。」(岩波文庫版、第8巻、292~293頁)
ここで意味されている「直接生産者」とは、封建制下の自営的な農奴であるから、ここに述べられている意味での「経済外的強制」を明治維新以降の日本農村に適用するためには、既に日本農村が封建制下にあるという確証が不可欠である。この点は、「講座派」の明治維新に対する性格規定のしかたと関連させて考えると、ひとつの問題がうかびあがる。しかし、それはまた後で詳論することにする。
「資本論」の右の引用の中では、「強奪の形態」はいかなるものであるかを問わないとされているが、その「形態」の具体例については述べられていない。そこで次に、それについて検討してみたい。
レーニンは、賦役経済の必要条件として、次の諸条件をあげている。1.自然経済の支配。2.生産者に対する生産手段および土地の分与と生産者の土地への緊縛。3.農民の地主への人身的隷属。4.技術の低位性と停滞性。(「ロシアにおける資本主義の発展」)
次に、わが国徳川時代における経済外的強制の実例を、土屋氏の研究をもとに見ていきたい。土屋氏は、経済外的強制を4つあげている。(「日本経済史概説」56~57頁)
移転・職業転換の自由に対する制限
幕政初期において、触れをもって命ぜられ、維新後地租改正直前まで行われた。明治5年に農民が農業以外のいかなる職業についても良いということが公的に認められた。
土地の利用・収益・処分に対する制限
寛永20年以降の田畑永代売買禁止令、寛文13年以降の分地制限令、質入れ・書入れ・寄付地の制限等が存在したが、幕政時代においてすでに商品経済の浸潤によって形骸化していった。明治5年2月の田畑永代売買禁止令解除によってそれが公的に認められた。
耕作物選択に対する制限
五穀以外につき見られたもので、例えば本田畑に煙草を作ること。明治4年9月の田畑勝手作の許可により、法的には解除された。
衣食住に対する制限
衣服については、並百姓の男の衣服は木綿までで、名主や百姓の女房は紬まで許された。食物については、米食が制限され、雑穀食が奨励された。住居については、百姓の分際相応と制限された。以上の諸制限は、明治4年の封建的身分の撤廃によって、法制的には解除された。
ここに掲げた4つの経済外的強制は、共通して明治維新以降法制的には解除されたと土屋氏は述べている。この点は、日本資本主義論争における土屋氏の立脚点が明確になる部分でもある。
4. 高率物納小作料の実態
明治維新以降においても、徳川時代に行われていた経済外的強制が存続していたとするか、あるいはしないかという検討に入る前に、その問題と密接なかかわりを持つ高率物納小作料について述べておきたい。というのも「講座」「労農」を問わず、明治時代の農村が、徳川時代から引き続いて高額の現物小作料を地主におさめていた点が、日本農業の特殊的性格の主たる原因のひとつに数えられているからである。
小作料が高率である点について
山田博士の研究によれば、明治初期の地租は総収穫高の34%、また小作料(地代)は総収穫高の68%を占めていた。(「日本資本主義分析」193頁)また、平野義太郎氏も、明治6年の検査例における全国平均の地主の搾取率、山田博士と同じく68%としている。(「日本資本主義社会の機構」30頁)これを徳川時代の年貢と比較してみよう。小野武夫博士の調査によれば、徳川時代(平均的にみてみると)総収穫高を100%とすると、年貢37%、地主所得28%、小作人所得35%で、結局地代(年貢+地主所得=小作料率)は65%となり、明治時代と比較して同程度であるといえる。(「徳川時代の農家経済」79~82頁)しかし、小林平左衛門氏の調査では57%であり、単純な割合からみれば、むしろ明治時代のほうが、徳川時代より以上に高率の小作料を農民は要求されていたとも言えるわけである。(「徳川時代における農民の租税と小作料額」)
いうまでもなく明治維新政府は殖産興業・富国強兵政策を遂行して、資本の本源的蓄積を代行したわけで、その財政的基盤は当時唯一ともいえた産業部門である農業に負わされた。そこで、地租改正後も高率の小作料が維持されたわけである。
以上のような高率物納小作料は、それが現物納入という形態をとっていたことと表裏1体をなすものである。
小作料が物納形態をとった点について
日本農村において、殊に水田作において、小作料を物納とする慣行は、支配的なものであった。地主の側からすれば、小作人から現物で小作料を受け取ることは、好都合な方法である。なぜなら、地主は小作人から収穫期の米価(通常年間最低価格)で換算された小作料すなわち米を受け取った後、最も高価に効率良く売却することが可能であっただろう。
しかし、小作料を現物で支払う形態は、小作人にも好都合であった点も指摘されなければならない。この問題は2つの原因に依っている。
第一に、米穀流通機構の不備である。米の販売を、直接生産者である農民自らが行うことは、農業労働に縛り付けられている農民にとって、非常な負担である。農民が小作料を金納する社会的条件の不備が、農民にとって物納が好都合である条件に転化していたと言えると思う。
第2に、米価の絶え間ない変動である。豊凶によって変動する米価をもとに金納することの危険を、地主に負担してもらうわけである。しかしこの制度は地主にとっても有利に働く場合がある。具体的にみても、明治初期は維新前からの傾向をひきついで米価が年々騰貴していったから、地主が地代を据え置くか、あるいは少しずつ低下させても、実質的には地代の引き上げという結果をまねいている。
以上検討してきた高率物納小作料は、体制の変革によって、年貢から租税と名目を変えた部分を含んではいるが、その実態は、徳川幕府から明治政府へとうけつがれたと言えると思う。さらにこの高率物納小作料が、戦後の農地改革まで続いたことを考え合わせると、その現象は明治維新前から農地改革施行前まで存続していたとすることができると思う。
「経済外的強制」に関する諸見解
本章で検討するいわゆる「経済外的強制」は、「講座派」が明治時代の高率物納小作料の原因としたそれである。その意味での「経済外的強制」は「労農派」が否定するところであるから、当然本章での両派の説は対立したものになる。そこで、両派の対立点を際立たせながら述べていきたいと思う。
◎高率物納小作料の原因は「経済外的強制」によるものであったとする説
山田盛太郎博士(講座派)は、「日本資本主義分析」の中で、地租改正(明治6~14年)の本質を次のように規定している。「旧幕藩を基調とする純粋封建的土地所有組織=零細耕作農奴経済から軍事的半農奴制的保塁をもつ半封建的土地所有制=半農奴制的零細農耕への編成替へ」換言すれば、地租改正は地主をブルジョア化させ農民をプロレタリア化するという資本主義の政策ではなく、単に、日本農村を純粋封建性の社会から半封建性の社会へと再編成したにすぎない、と山田博士は述べるわけである。このように、日本農村の現状が、明治維新以降から「分析」が執筆された時点まで半封建的であったとする理論が、山田博士の「経済外的強制」の根本にある。
「34%の地租徴収と68%の地代徴収とを包括する2層の従属規定[巨大なる軍事機構=鍵鑰(キイ)産業体制の基礎たる所の、又広汎なる半隷農的零細農耕作農民及び半隷奴的賃金労働者の地盤=供給源たる所の、膨大なる半農奴制的零細耕作土壌そのものの基本規定]は、公力=[経済外強制]、その相関、によって確保されえた。」
つまり、山田博士は、明治維新以降地租改正により地租が34%とされ、地代が68%という高率に地主によって設定された原因が公力=[経済外強制]にあるというのである。この公力と=で結ばれた「経済外強制」が具体的にどのような形態をとって現れるのかという点については、「分析」の中で述べられていない。そこで、前章で既に検討した経済外的強制の諸形態などを念頭におき、山田博士の「経済外強制」は具体的にどんな形態をとるのか推論してみたい。
まず、明治政府が地租を全収穫高の34%という高率にせざるをえなかったのは、前に述べたとおり、殖産興業富国強兵の諸政策を行うための主たる財源を農業に求めたからである。そして、34%という比率の根拠は、地租改正で地租が地価基準の定率賦課制となったことに由来する。国税(地価の百分の3)に、地方税(地価の百分の1)を加えた地価の百分の4が新地租となったのである。
以上は前置きであるが、それでは何故34%が地代64%に増加するのか、という点が「経済外的強制」と関連して重要である。
国家に対して地租を支払うべき人は、法制上の土地所有者たる地主である。この地主が支払う地租は、直接には小作人が地主に収める地代によっている。小作人は契約にもとづき土地を地主から賃借しているのだから、地主に対し地代を支払う義務がある。その地代は、外形的には契約という双務的な形態をとっているが、その内実は、地主が小作人に対し一方的に地代額を言渡すことによって決定される。このような地主=小作人関係は、「経済外的強制」によって維持されている。以上のような条件のもとでは、小作料は高率にならざるを得ない。このように推論が可能ではないだろうか。
山田博士は、さらにこのような高率の小作料が必然的に現物納入の形態をとることの理由について、「半封建的土地所有=半隷農性的零細農耕の場合には、地代の現物形態から貨幣形態への転化は不可能」であるとしているが、またも具体的な指摘がないので、推論を加えてみたい。
日本農業において、米作が決定的地位にあることについては異論がない。この米作のうち、水稲作においては、徳川時代以来現物納(生産物地代)が原則であった。このことは第4章で述べた。農民自らが生産物を現金化することを困難とする諸条件が存在したからである。だから小作人が地主に物納し、地主が政府に地租を金納することは、日本農業、特にその代表部門である米作農について典型的にあてはまるわけである。明治維新以降の農村には、農地改革以前まで、生産物地代という封建的な遺制が存続していた。このような地主=小作人関係を維持しているのは、明治政府による徳川封建制の再編である地租改正が「公力」的に規定した「経済外的強制」にあると山田博士は述べようとしているのだと思う。
以上述べた山田博士と極めて近い立場にある平野義太郎博士(講座派)の説を「経済外的強制」の部分に限定して検討してみたい。
まず平野氏は、地租改正を「農民社会の階級分化の起点」であると規定したうえで、更に次のような解釈を加えている。(「日本資本主義社会の機構」)
「地租改正はまさに、とくに明治政府の財政上の必要から、このような構造と特質とを有する資本の本源的蓄積の強力な槓桿として近代的租税制度確立のためになされたものである。」
ここでいう特質とは、軍事的要素がもっぱら支配的であったことを示している。
明治維新直後の日本経済は、依然として資本の本源的蓄積すらも行われていない段階であったから、明治政府は自ら地租を主財源としていた。明治8年から12年の5年間を平均すると、地租が租税収入の80.5%を占めていた。殖産興業・富国強兵政策を推進するために地租改正が必要だったわけである。そして「改正」された新地租は「封建的貢租をそのまま平均的に、たた統一規模で継承したものにすぎ」ないことの例証として具体例をあげている。
「地租改正条例検査例は、1反の収穫高1石6斗、その代価1石につき3円なる計算の前提の下に、地価40円80銭とし、地租金額、中央地租地価の百分の3、地方同百分の1と決定したものである。」
さらに、地租改正で地租を金納化し、土地所有者を納税義務者としたことによって「小作料搾取を公権的に確保したこと」は、農民の階級分化に大きな影響を与えたと述べている。
以上のように地租改正の意義を解釈したうえで、平野氏は「経済外的強制」を問題にする。平野氏によれば「明治政府が、地租改正によって、いかに地主の小作人に対する半封建的隷属関係を確保し、地主の小作米取立権を擁護するのに厚かったか」ということの立証として「経済外的強制」が論じられるのである。これに関する部分を少し引用してみよう。
「地主はかかる経済外的強制による、加治子米取立および封建以来踏襲のままの鎌止め、立毛刈取方の禁止、小作株の取上げたる土地引き上げ権の確保の下に、半隷農的小作関係およびそれからの搾取、土地引き上げ権を確立し強化しえた。」「ここに、本邦の小作の本質が示現せられる。小作の本質は、鎌止め、小作権の取上げなどの経済外的強制の下に、所与の土地に緊縛せられる農民が、その剰余生産物を、直接的関係において、汲みとられる関係である。」
このよう述べた後、最終的には「これらの鎌止め、立毛刈取方の禁止、小作株の取上げという半封建的経済外的強制の諸特徴は、天皇制政府の下においても、近代的法律形態の複合的追加の下に継承存続せられたのである。」から、平野氏も、山田博士と同じく「経済外的強制」が存続したと結論するのである。
山田博士と平野氏は等しく「経済外的強制」を認める立場にありながら、その証明の方法は同様ではない。平野氏は、「経済外的強制」をある程度具体的形態でもって示しているが、山田博士は、それを「公力」、その相関、という抽象的な表現にとどめている。わたしは、具体的形態での指摘があって当然だと思う。マルクスは「資本論」の中で、先に引用したように「経済外的強制」はいかなる形態をとるか問わない、とはしているものの、「経済外的強制」の存在証明には、その現実形態が例証されてしかるべきだと思うからである。
これとは別に、山田博士と平野氏の両者に共通している「経済外的強制」のとらえ方は、双方とも基本的には地主=小作人の法的な関係を問題にしている、という点である。山田博士が、公力と経済外的強制を=で結びつけていることは、公力が近代法に姿を借りた所強制を意味していると思える。(例えば地租改正条例のようなもの)平野氏は、「経済外的強制的強制の具体例を鳥取県小作条例から引用しているので、山田博士よりも一層この点、つまり「経済外的強制」を原則として法的諸強制としてとらえること、が認められるのではないだろうか。
しかし、明治時代以降の「経済外的強制」を半封建的な地主=小作人関係を温存させる条件であるとあらかじめ規定して考えてみると、その具体的形態は、単に法制的強制のみにとどまらないとする方がより妥当であろう。宇野弘蔵氏の述べる「農民の封建的なる思想・感情乃至慣行」は、この範疇に属するものだと思う。
しかし、本論文ではそれを取扱わない。「経済外的強制」のみを検討するのが目的ではなく、「経済外的強制」に関する「講座」「労農」両派の論争から、両派のマルクス経済学の相異に立ち至るのがわたしの目標であるからで、そのためには紙数の制限と、両派の「経済外的強制」の論争が、法制的側面を中心として展開されていることの2点を考慮しなければならないからである。
◎高率物納小作料は、日本農村の経済的条件によって必然的に生じるとする説
向坂逸郎は、「労農派」の研究者として、「講座派」と対照的に、日本農村を特色づける高額でしかも現物納入形態をとる小作料の原因を、純粋に経済的な強制(条件)によって証明しようとした。向坂氏は、日本資本主義論争において、「講座派」の誤りを指摘する形で多くの論文を発表した。それらの論文をまとめた「日本資本主義の諸問題」のなかで、高率物納小作料について述べている部分を中心に検討する。
山田博士が「分析」の中で、日本農村を「半農奴制」とする根拠として⑴耕作規模の零細性、⑵高率物納小作料をあげたことに対し、向坂氏は、⑴は近代化した過小農経営においてもありうるとしたあとで、肝心の高率物納小作料について述べている。
向坂氏は、まず高率物納小作料の原因を「資本論」から引用して「細分地経営が賃借地で営まれる場合にも、借地料はなんらかの他の諸関係の下におけるよりもはるか以上に利潤の一部を含み、また労働賃金からの一控除分さえも含む」というマルクスの意見に日本農業を結びつけて考える。
山田博士は「分析」の中で、日本農村の「半農奴制的」性格を明らかにするために、高率物納小作料=封建地代として証明する必要があったからである。だから、向坂氏が「資本主義社会の農村でも、農業が細分地でしかも賃借地である場所で営まれる場合は、他の形態における経営よりも高率な小作料になる」と述べることは、山田博士への反論となる。
明治維新が、他の先進資本主義国(イギリス、ドイツ、フランスなど)が過去において封建制から資本制の社会へと移行する過程で経験したブルジョア革命とは、その個別的性格を異にしているとはいいながら、等しく資本主義化の道をたどった以上は、その個別性、特殊性も一般性に解消できる、と向坂氏は述べようとしているのだと思う。ここで、一般生徒は、資本主義社会が純粋な形に近づく過程における現象であり、特殊性とは、日本農業でいえば、耕作規模の零細性・高額な現物小作料である。
以上の点を総括して、向坂氏は「特殊性の検出は一般性の否定であってはならない。一般性実現過程の特殊性である。」と述べている。
それでは次に、向坂氏が日本農村の特殊性のひとつに数える高率物納小作料は、どのような経済的条件によって与えられるのだろうか。それを向坂氏ひと言で、「主として小経営の競争力の弱勢である。」と述べている。「かりに、わが国の高額小作料(全剰余労働のみならず、必要労働部分にもくいこむ)が、明治初年においては封建的慣行をそのまま継承したとしても、資本主義の発達、したがって形式的に実質的に封建制が解消するにつれ、これを逆にいえば、商品の法則が農村に侵入するにつれて、小作料決定の原理も変化した。同じ高額でも決定の法則は、経済外的ではなく、経済的なものとなった。競争の法則である。」
「土地所有と小作人の小経営との競争で後者の弱勢であることが、日本の場合における小作料の経済的水準を、今のような高額におくのである。それが、封建的賦課から発生し、今なお、高額であるとしても、これを維持する作用が経済法則であることをさまたげない。」
以上のように向坂氏は高率小作料を説明したのであるが、これではその小作料が現物形態をとるという点についてはどうだろうか。
向坂氏はまず、物納小作料の存立が可能な前提条件は何であるかをマルクスに従って「農民の自足経済が原則としておこなわれ、したがって農業と工業が合一されていることを前提とする。」と述べている。これは封建制社会における物納地代である。「しかし」、と向坂氏は次のように「講座派」の誤りを指摘する。
「一定の事情のもとでは、資本主義的生産方法の基礎の上においても、物納地代が存在しうる。しかし、かかる物納地代は貨幣化されているものであって、物納という形態に迷わされては事の本質がつかめない。」「現物小作料が、封建的地代であるためには、現物小作料が行われかつ、これを必然的に封建地代とする社会的諸条件存在の立証がなされる場合」であると向坂氏はいう。
この「社会的条件」を、「経済外的強制」と同等の者として考えれば、日本農業において経済外的強制が存在すると実証されれば、その小作料は封建地代である、と向坂氏は考えているのであろう。
向坂氏も、「講座派」と同じく「わが国に今日まで封建遺制が存することは、われわれの議論の前提となっている」と述べているのであるから、「経済外的強制」の存在を全面的に否定してはいない。しかし、その存在の程度が農村社会に支配的ではなく、一部に残存する「遺制」であるにすぎないというのである。
このように向坂氏が論述したことから、当然自らが「講座派」のいう「経済外的強制」に対する反証を提示する必要が生じる。そこで次に、向坂氏の「経済外的強制」の否定のについて検討してみたい。
まず向坂氏は、明治維新以降の日本農村における「経済外的強制」が具備していなければならないことを規定している。
「法制として存するばかりでなく、事実上慣習的に存する場合にも、この強制の執行が、その社会で当然のこととされる程度に普遍化されていなければならぬ。これを執行する個人の偶然的な恣意的な強力行為ではなく、一般にかかる場合は、かかる協力が発動すると考えられる性質となっていなければならぬ。」
以上のように条件づけた「経済外的強制」が日本農村に存在しているか否かについて、さきに検討した土井喬雄氏の研究を土台に個別的に考察してみる。
土地売買、質入の制限はない。
いかなる種類の耕作をおこなうかは農民の自由である。(経済的法則はこれを必ずしも自由としないが。)
農民は経済的必要性に応じて移転する自由をもっている。(金がないという経済的強制は実質的にこの自由を不自由に転化しているとしても)
職業の自由、衣食住の自由はある。
農民が大きな家を建てないのは、国家または地主から禁ぜられているからではなく、金がないという経済的強制にもとづく。
分地の自由もある。
租税に対して、連帯責任の制はない。
純粋に資本主義的な集団的接触のおこなわれていない農村においては、今日でも人身的隷属関係の残滓がないとはいえない。
わが農村に支配的なるものが、小農民の経営であって技術的に低いということは認めなければならぬ。
向坂氏は、(8)の人身的隷属関係と、(9)の技術の低位性の2点が、日本農村において「経済外的強制」として残存していることを認めた。しかし、その認め方は非常に消極的な意味であって、むしろ否定しても良いと言わんばかりのものである。つまり、人身的隷属関係と技術の低位性の二者は「封建遺制」にすぎず、「経済外的強制」は「社会の一部」に残存するだけであるから、高率物納小作料が封建地代であるという「講座派」の言い分は、根も葉もないことだ、と向坂氏は結論するわけである。
「経済外的強制」に関する私見
本章では、前章で検討した「講座」「労農」両派の「経済外的強制」を批判的に故殺してみたい。
「経済外的強制」を、わたしは条件付きで認めたい。その具体的形態は後で述べることとして、その条件とは、日本資本主義の発展に伴う社会経済構造の変化を考慮に入れるということである。というのも、「経済外的強制」における「講座派」の過ちは、第一にこのような変化を考えに入れなかったからだと思うからである。
「講座派」によれば、明治維新と地租改正は単なる封建制の再編成であったにすぎない。だから、明治時代を通じて日本農村で行われた高率物納小作料は封建地代に他ならない、と述べるわけである。ここでまず注意しなければならないのは、「講座派」が明治維新を日本資本主義の直接の起点としないことである。このような観点からすれば、当然高率物納小作料=封建地代という発想が生まれてくるだろう。
「講座派」は一体どのような理由で明治維新を封建制の再編成であると定義したのであろうか。それは、維新以降明治政府は近代法に姿を借りた所立法によって、幕政時代の封建的な地主=小作人関係を温存した、ということだと思う。「労農派」の述べるように、法制上は、徳川封建社会で行われていた経済外的強制の諸形態は、ほとんどすべて撤廃された。しかし、地租改正による地券の発行、租税の金納化、地価基準の定率賦課制等々は、結果として維新以前の地主=小作人関係を維持する役割を果たしたのであるから、旧制度の機能を新制度が継承したと言えるだろう。このような「講座派」の論理に対し、わたしは疑問をいだかざるを得ない。例えば、明治維新以降政府の強力な後押しによって順調に発展してきた産業資本と、農村との関係をどのように「講座派」は説明するのだろうか。明治維新以降の日本社会において、工業部門が農業部門と特殊な相互依存関係を保ちつつ発達してきたことは、若干さきに述べた。しかし、その相互依存関係が、ほとんど圧倒的な工業部門の優勢によって、明治中葉から次第に矛盾関係へと転化していったことは、当然農業部門の生産関係に変化を与えずにはおかなかった。そしてその変化は、単なる「封建制の再編成」としただけでは説明しきれない程度のものであっただろう。
山田博士は、「分析」(1934年刊行)の時点まで、地租改正によって終局的に決定された高率物納小作料=封建地代の構造に変化を認めていない。この点が、向坂氏から「型を永久化」していると批判されている。日本資本主義の問題が明治維新から始まるのも、それ以降の日本社会が特殊な過程をとりながらも、資本主義化の道をたどったと考えられるからである。後進資本主義国ながら、急速に工業化したわが国の農村が、明治維新以降、地租改正によって「終局的に決定」された型を昭和初期まで保持しえたと考えることに無理があると思う。
「講座派」批判の第2として、「経済外的強制」の具体例の指摘が不充分であることをあげておきたい。
マルクスは「資本論」の中で、経済外的強制は「いかなる形態をとるかを問わない」としているが、それを指摘できなければ、やはりそれを認めることも困難である。この点からすると、山田博士が「公力=経済外的強制」とだけしか述べていないのは全く納得がいかない。だから第5章でわざわざそれを推論してみたわけである。平野氏は、徳川時代から受け継いだ諸強制と、鳥取県小作条例を例として挙げているが、それで充分とは到底思えない。第一前者は前述した社会経済構造変化の重要性をらち外においているし、後者も明治6年に制定されてはいたが、そのような制度が当時の社会一般に行われていたかどうか、ということの説明を欠いていては、説得力に乏しいと言わざるを得ない。
このように、「講座派」と言われる人々の「経済外的強制」には、抽象的、没時代的、散発的であるという欠点があると思う。わたしは、制度上は消滅した古い経済外的強制が、新しい制度のもとに形を変えて存在していると思う。だから、明治時代以降の「経済外的強制」は、国家によって法制上公認されている形態をとっている。この点については、「労農派」を批判するに際してまた論及する。
「労農派」向坂氏は、第5章でみたとおり、わが国の小作料は、資本主義の進展とともに性格を変えた、と述べている。これはさきに「講座派」を批判した第一の点からすると、正当な理解であるといえる。しかし向坂氏は、「経済外的強制」を極めて限定して条件付きで認める、という立場をとっているが、納得がいかないのである。
たしかに向坂氏が、江戸時代の経済外的強制を否定するために、法制上の諸改革と、資本主義の発達に伴う農村への商品経済の浸透を理由とするのは妥当である。しかし、小作料決定の原理が、競争の法則にだけ影響されるまでには、が必要だっただろう。農村共同体の封建的性格は、明治維新以降にわたって残存したといえるからである。この封建制と商品経済のからみ合いは、前者が次第に解消するにつれ、後者が次第に優勢になっていくという、単純な資本主義純化の図式では割り切れない。それが後進資本主義国日本の特殊性であろう。そのような特殊性を一般性の中に解消しては、「経済外的強制」の正当な理解は望めない。
向坂氏の否定した封建制の「経済外的強制」は、徳川から明治へと社会体制が変革されたために、「法制上」は撤廃を強いられたに過ぎないものであった。否定すべきはそのような的はずれのものではなく、新しい法制の上に形をかえて存在している「経済外的強制」であろう。しかし、それは否定することのできない具体的形態をもって実存していた。
この点に関して、小林茂氏の見解が参考になるので、氏の講義から抜粋し、若干述べてみたい。
まず、小林氏は明治維新を「早産したブルジョア革命」であると規定している。徳川封建制の後期に、日本ではマニュファクチュアの発達が比較的未熟であったので、明治維新はブルジョアによる体制の変革となり切れなかった。そして、革命後に政府が資本の本源的蓄積を代行する以外になかった、と述べている。これは、「講座派」が「封建制の再編」、「労農派」が「ブルジョア革命」と両極端に分かれて明治維新を規定している点からみて、折衷ともいえる見解である。
以上のような明治維新の理解のもとに、小林氏は、明治政府による地主保護の2政策、すなわち経済外的強制と経済的強制を検討している。
経済的強制の典型的なものとしては、武士階級を通じての収奪をいうが、ここでは資本主義の段階(明治維新以降)でのそれを問題とする。
地主的土地所有の公認
地租改正により、地主=小作人関係が法制上確認されたことについては詳論した。
永小作権の軽視
旧民法においては、永小作権が不完全にしか認められていなかったために、小作人は常に田畑取上げの危機感をもっていた。
家督相続権の公認
長男が家にまつわる権利義務全てを相続することが旧民法で認められていた。このことによって分地が制限されていたし、地主=小作人関係を世襲的、安定的に維持していくことが可能になった。
共同体の力
水田作主体であることを除外して考えても、農村において共同体組織の有する強制力は強大であった。
つぎに、経済的強制について検討する。
向坂氏の述べる「競争の法則」と類似したもの
高率小作料は、土地に対する需要が高い場合にも、現出する。日本でも、資本主義化の進展とともに、農村における潜在的過剰人口が増加したために、土地の争奪が行われた。
零細地耕作の特殊性
細分化された耕地の経営は、労働集約的になり、差額地代第2形態に準ずるものが増大し、高率小作料となる。
このように、小林氏は「経済外的強制」と「経済的強制」を高率小作料の原因としている。これは、小林氏が明治維新を規定する際に、「講座」「労農」両派の中間的な理解をしたことと不可分に結びついていると思う。つまり、明治維新以降の農村における「経済外的強制」に関する正当な理解は、明治維新の性格規定を前提としている。
結論として。わたしは明治維新以降の農村における高率物納小作料の原因は、「経済外的強制」と「経済的強制」の二者にあると思う。それが明治維新を「早産したブルジョア革命」と規定した場合の、日本の農業に対する正当な理解である。
以上で「経済外的強制」に関する考察を終わり、次に「講座」「労農」両派の理論に共通する問題点を宇野派がどのように批判して、自らの理論を構築しているかを、本論文と、次年度の論文との接合点とするために、大内力氏の「日本経済論上」を参考にして概観しておきたいと思う。
「講座」「労農」両派と宇野理論
日本共産党のテーゼと「講座派」理論との関連
「講座派」はコミンテルンのテーゼを前提にして、「昭和期の日本をもってツァーリズム下のロシアと同じように、絶対主義段階にあるものと規定し」ているが、「それが可能なのは、日本の土地所有が封建的であると論証された場合である。」そこで「講座派」はその論証として、次の2点を主張する。
第一に、「日本資本主義の発達-広汎に独占組織を形成して最高段階にまで到達した発達-にもかかわらず、土地所有は何ら変化を受けなかった」として「型の永久化」を、第二に、「明治維新そのものを封建制の再編成」であるということを主張するわけである。
大内氏によれば、「講座派」がこのように誤った理論をみちびきだした原因は、理論と実践の関係を正しく理解していなかった点にある。帝政ロシアからの類推によって、日本経済や日本の階級構造について把握をこころみ、それを「ア・プリオリ」に前提したうえで、日本資本主義を「分析」しようとしたために、「講座派」理論が実りすくないものに終わったと述べるのである。
(2)「講座派」の理論体系の中に段階論が欠如している点
「講座派」は日本資本主義の特殊性の標準を、原理論的資本主義に求めていた。しかし、「農民が地主から土地を借りており、小作料が彼らの最低生活費に食い込むほど重く、しかも現物形態をとっていることが、ただちに封建制をいみする」とはいえない。この程度のことは、日本のみにみられる特殊性ではなく、資本主義国に共通の現象である。ただ、このような現象が徐々に解体されるのではなく、むしろ復活強化されさえしているという問題に答えるには、段階論とくに帝国主義論なしには答えようがない。段階論を正しくふまえていれば、「講座派」が日本の特殊性と考えたものが、じつは後進国の、なかんづく帝国主義段階の、一般的な特徴を多分にもっており、特殊性は、じつはそういう一般性の上に立った特殊性であることが明確にできたであろう、と大内氏は述べる。
「労農派」理論の問題点
「労農派」も「講座派」と同じく段階論を考慮に入れなかったことが致命的欠陥となった。かれらの理論が「講座派」と異なるのは、「日本資本主義も資本主義である以上は、原理論的世界に到達すべき歴史過程のなかにあるという理解に強く執着していた」点であった。かれらは、「日本資本主義の特殊性といったものが存在しているとしても、やがては消えていくものであって、いわばそれは時間的なずれを示しているにすぎない」とりかいしていたということは本論文でもふれた。この点を、高率小作料にからめて考察してみる。「労農派」は、高率小作料が小農の土地に対する競争によって生ずるとしているが、それならばなぜ農民層が分解し、資本家的土地所有関係が成立しないのか。」その点について彼らは、「まだ農民層を完全に分解しつくすところまで、資本主義がすすんでいないからで、やがては、資本家的土地所有が成立するはずだ」と答える。しかし、大内氏によれば、このような考えがあてはまるのはせいぜい自由主義段階までのことであって、帝国主義の、しかも国家独占資本主義体制を固めつつあった日本の資本主義は、「労農派」の段階論ぬきの論理では分析することが不可能である、ということになる。
宇野氏の段階論について
-次年度への導入として-
大内氏は、「講座」「労農」両派の理論に共通する欠陥として、段階論を考慮に入れていない点を指摘した。ここでいう段階論とは、いうまでもなく宇野弘蔵氏が、3段階理論として、原理論・発展段階論・現状分析に分けたうちの発展段階論を意味する。発展段階論とは、簡略していえば、資本主義発展の段階を大きく重商主義・自由主義・帝国主義に分けて、それぞれのタイプ的解明、いいかえれば世界史的類型化を行うことである。
このことにより、「講座派」が日本資本主義の特殊性と規定していた現象を、再度発展段階論を考慮してとらえかえすことが可能になり、「労農派」が原理論的世界に解消してしまっていた日本資本主義の特殊性も、発展段階論によって正当に分析することが可能になると大内氏は述べるのである。
このような大内氏の意見は一応納得のいくものである。しかし、発展段階論の重要性を認識するためには、その前提として宇野氏の3段階理論を承認しておく必要がある。そこで来年度のゼミ論文のテーマは、必然的に宇野3段階理論に関するものになるだろう。
参考文献
日本資本主義分析 山田盛太郎著
日本資本主義社会の機構 平野義太郎著
日本資本主義の農業問題 大内力著
農業経済学序説 大内力著
日本経済論上 大内力著
日本資本主義の諸問題 向坂逸郎著
日本資本主義と近代化 正田健一郎著
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