1970年代に入って、いわゆるナナハンといわれる国産大型バイクの性能が向上し、一方で大型バイクの交通事故が増加した。このため国は、排気量400㏄以上のバイクを運転できる免許は、1975年から運転免許場で実施されるとても難しい実地試験に合格しなければ取得できないことなった。
わたしはこのニュースを知って、いま自動2輪の免許を取っておかなければだめだ、と思った。いまなら、教習所に1週間通って、400㏄のバイクで何回か乗り、教習所の試験に合格すれば間違いなく排気量に限定の無い自動2輪免許が取れる。それで、三ツ沢にある教習所へ通って、免許制度が改正される直前に、駆け込みで自動2輪免許を取ったのだ。
その頃のわたしの経済状況は、大学の学資さえアルバイトで稼ぎきれない状況だった。教習所の受講料を捻出するのがやっとで、バイクは買えなかった。
スズキ・ハスラー400
磯工の時の友人Iが持っていたホンダのCB750や、スズキのハスラー400を時々借りては乗っていた。CB750は4サイクル4気筒の堂々としたナナハンだ。スタートから時速100㎞到達までの時間がとても短いので、都会の青信号の間でも150㎞以上のスピードが出る。街中で乗るにはいかにも性能が過大である。
一方ハスラー400は、CB750とは対照的に2サイクルの単気筒で、出足の良いトレール車である。わたしは取り回しが良くて、道を選ばないトレールに大きな魅力を感じた。Iはそれらのバイクを頻繁に乗っている様子は無かったので、ハスラーの方を売ってもらうことにした。いくらで買ったのかは覚えていないが、ちゃんと登録手続きをして自分のものになった。ただ乗り回すだけでなく、エンジンやマフラーなどできる限りの整備をし、車体色もオリジナルの比較的地味なグリーンから派手なレッドに塗り替えた。
1976年2月に、このハスラーでツーリングに出かけた。行先は奥秩父から八ヶ岳、南アルプスを巡る初めての本格的バイク・ツアーだ。
まず荒川を遡り、大滝村から三国峠を信州側に越えることを企てた。ところが早くもここで予想外のことが起きた。峠に至る林道が積雪のため走れないのである。峠に向かって高度を上げていくにつれて、徐々に路面に雪が出てきたのだが、ついに積雪が30㎝ほどになって、バイクで走ることが不可能になった。ツアー第1日目に、ここから引き返す気も起らず、なんとか峠を越えようと、バイクを下りて押しながら峠を目指した。厳寒の中、大汗をかいて峠にたどり着いた。信州側に入ると一転して雪が無くなり、快晴のもと、舗装道路を走ることができた。しかし、気温は依然として低く、手足がかじかんだ。
清里に出て、そこから八ヶ岳連峰に沿って南下し、甲州街道に行きあたって左折し、南アルプスを入口である芦安の民宿で1泊する。
翌日は南アルプス・スーパー林道を走りぬけようと、夜叉神峠のトンネルをくぐる。冬期の林道は崩落がひどく、ところどころ道をふさぐように路上に土砂が堆積している。そのようなところを何か所か過ぎ、ついにもう通過できないほど崩落した土砂に行く手を阻まれてしまった。無理をするとバイクごと谷に転落してしまうことが確実だったので、諦めて戻ることにした。
スズキ・ハスラー400 |
甲府に出て、甲州街道を新宿に戻った。途中相模湖で休んでいる時、他のツーリング・グループの人たちと今日の出来事を話した。相手の話しぶりで、自分が一目置かれていることが分かり、ちょっとばかり自信が持てた。
この後、ハスラーは車検時期が来た。車検を通すためにはかなりの金がかかるので、バイク雑誌に「売ります」と告知して、申し出た人に有償で譲った。
ホンダ・CJ250T
そして、次はホンダから発売されたばかりのCJ250Tというバイクを25万円ほど出して新車で買った。わたしは1976年の2月から早稲田大学の学生職員になったので、以前に比べて圧倒的に金回りが良くなったので、物欲が強くなった。
CJ250Tは排気量が250㏄未満なので車検はない。好きなレッドに塗装されたこのバイクを横浜市保土ヶ谷区和田町の谷川商会というバイク店で買った。その際に、そこの店主といろいろな話をしたのだが、「あなたは年の割に落ち着きすぎている。もっと元気をだしたほうが良い。」と言われ、わたしは他人からそのように見られるのかと意外だった。
残念ながらCJ250Tは、荒々しかったハスラー400から乗り換えてみると、いかにもパワー不足でマイルドで優等生的で物足りなく、早々にまた人に安く譲渡してしまった。
ホンダ・CJ250T |
スズキ・イントルーダー750
それ以降しばらくバイクから遠のいていたが、ついにナナハンを自分のものにする日が来た。1986年にスズキがアメリカンVツインのバイクを出した。スタイルがシンプルで、これこそわたしが求めていたバイクだと思って購入した。
乗り味は思ったよりマイルドで、映画「イージーライダー」で憧れたワイルドさはあとかたもなかった。間もなく、わたし自身のバイクに寄せる情熱は失せた。アメリカ留学を機会に、イントルーダーは職場の同僚にただであげてしまった。それ以来、わたしはバイクに乗っていない。
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