1974年4月1日月曜日

大学受験浪人 1974年4月1日~1975年3月31日

大学へ行くことにする

高校3年生になってから、卒業後の進路を考えるようになりました


磯子工業高校(通称磯工)のような県立高校がいくつも作られたのには理由がありました

経済成長を続けていくためにブルーカラーを安定的に供給していくことが必要だったのです

わたしは磯工に入学した後そのように聞かされました

たしかに磯工生の多くは疑いをもたずに3年を過ごし京浜工業地帯に就職して行きました


中学3年の時に担任のA先生から工業高校行きを勧められました

「高校を出たらすぐ就職して親の経済的な負担を減らせるように」

その頃はまだ自分の将来について具体的に考えを及ばせることができませんでした

そして先生の言うとおりにするしかないのかなと漠然と思いました


磯工に入っていろいろな先生からいろいろな話を聞きました

自分の周りの人々を見渡し、わずかばかりの経験をし、自分に何ができるのか考えました

その結果わたしが希望したのは高校卒業後すぐに働きはじめることではありませんでした

高校の社会科教師になることでした


みんなと同じ無難な道を選ばなかったのはどうしてだったのでしょうか

なるにも、なった後も相当な困難が伴う高校教師という職業を目指したのはなぜでしょう

どうもわたしは人生の岐路でみんなとちがう道を選んでしまうようでした


高校卒業後の進路を決めるこの時だけではありませんでした

その後の人生でも、わざわざ人と違う、困難な道を選択してしまったことがありました

良かれ悪しかれそのような選択の積み重ねがわたしの人生なのだと思います


なぜ社会科の教師なのでしょうか

世の中には戦争、貧困、疫病といった深刻な問題があります

社会科の教師はそれらについて考えるきっかけを生徒に与えることができます

その答えを導き出すのに役立つような知識や考え方を身につけさせることができます

そのようにそのときは信じて社会科教師になろうと思ったのでした


手探りで受験勉強を始める

就職しないで大学へ進学すると決めたことを親に話しました

そして高校3年の8月に代々木学院という予備校の夏期講習へ行かせてもらいました

どうやって受験勉強をしたらよいのかわからなかったからです

予備校へ行けばきっとそれがわかるだろうと思ったのです


その予備校は代々木駅から5分ほど歩いた裏通りにありました

教室は窓が少なくがらんとしていて、冷やしすぎのクーラーの機械音が耳障りでした

出てくる講師はそれぞれの科目について淡々と講義しました

ひと月ほど通って講義を真剣に聞きました

その講義の内容もどのように勉強したらいいかも共によくわからないまま終わりました


その講習が終わりに近づいたある日の帰り道、夕方の小田急線に乗っていました

多摩川を渡る橋の上からすごい夕焼けが丹沢の方に見えました


就職組と進学組

磯工のクラスメートの多くは企業や役所への就職を希望していました


秋になるとつぎつぎに就職先が決まっていきました

誰かの就職先が決まるたびに、それがどこであれ、クラスのなかが沸き返りました

就職が決まった連中は、もう勉強などどうでもいい、とばかりに羽をのばしていました

授業中も休み時間もオイチョカブやポーカーなどをして遊んでいました


大学進学を目指す少数派は教室の前の方の席に一様に薄暗い顔をして座っていまし


歓声をあげて遊ぶ就職組を横目で見ながら授業を受けていました

受験組はだれもが受験についてわずかな知識しかありませんでした

また学力もなく、先の見通せない不安を抱えていました


暗中模索の大学受験

高校三年の最後の頃、わたしは毎日9時間ぐらい勉強しました

その時は「蛍雪時代」という受験のための月刊誌を唯一の頼りとしていました


自分の学力が希望する大学の合格レベルにはほど遠いということはよく分かっていました

加えて勉強方法や志望校選びについて自分があまりに無知であることも自覚していました

これらのことについて相談できる人は自分の回りに誰もいませんでした


結局、横浜市立大学の文理学部を受験することにしました

横浜市内にあり、受験料や授業料が安く、数Ⅲが受験科目に含まれていないからです


そのことを磯工山岳部の顧問だったA先生に電話で話しました

すると「どうして1校しか受けないのか」と問い詰められました

そして横浜国立大学の教育学部も受験することになりました

理由は「うちのカミさんだって入学できたんだから」とA先生が勧めたからです


初の大学受験とその結果

初めての横浜市立大学の受験はとても緊張してしまいました

休憩時間に小用に行ったのですがアサガオの前に立ってもなかなか用がたせませんでした

わたしの後ろには大勢の受験生が列を作っていて背中を冷汗が流れました


横浜国立大学では「数Ⅲ」や「生物」という磯工で学ばなかった受験科目がありました

これらの科目では白紙に近い答案を裏返してただ呆然と試験時間が過ぎるのを待ちました


結果は残念ながらというより当然ながら二校とも不合格でした

これで受験前から想定していたとおり浪人をすることが確定しました


浪人のための費用工面

受験勉強はただひたすら勉強しているだけではだめです

予備校で自分の目指す大学の情報を集め、受験のノウハウを蓄える必要があります

これが初の大学受験(の失敗)からわたしが学んだことでした


その先が問題でした

家にはわたしを1年間も予備校に通わせる経済的余裕はありません

受験浪人する間の費用は生活費も含めて自分でどうにかするしかないのです


多くの同級生のように卒業と同時に就職すれば親も安心だったかもしれません

それをせずに大学進学を選んだのはわたしが決めたことです

だからそのために必要な資金は当然自分自身でなんとかしなければならないと思いました


新聞奨学生になると決める

わたしは自活しながら受験勉強すると決めました

しかしどうやって収入を得たらいいのか考えは浮かびませんでした

かすかなのぞみは朝日新聞の配達奨学生になることでした


受験勉強で使っていた旺文社の「蛍雪時代」に朝日新聞奨学生の広告が出ていました

専売所に住み込み、朝夕の新聞配達をすると、昼は予備校へ通って受験勉強ができます

生活費や大学受験料の補助が受けられ、進学できた際には学費の補助もしてくれるのです


わたしは小学生の時から小遣い稼ぎのために何度か新聞配達をしたことがありました

新聞配達ならなんとかやれそうだと思い朝日新聞の奨学会に申し込みの電話をしました


2月のある日に採用面接を受けるため磯工の制服を着て有楽町駅前の朝日新聞社へ行きました

街並みを見下ろす一室で数人の男性からいくつかあまり興味深くない質問を受けました

そして受験浪人か大学入学かいずれにしても決まったら採用してもらえることになりました

こうして向こう1年働いて勉強して志望校への合格をめざす準備ができました

滑り込みで奨学生になる

その後友人たちに電話をしたり直接会ったりして自分は受験浪人すると話しました

浪人の間は新聞配達をするので1年間は旅行もできないだろうなどとも話しました

すると浪人になる前に旅行へ行っておきたくなり級友のNと3月26日から信州に出かけました


旅行から3月29日に帰ってきました

そして朝日新聞奨学会に「受験浪人しますので、採用をお願いします」と電話しました

するとなんと「今年度の奨学生の採用はすべて終わりました」とのことです

言われてみれば間もなく新年度です

これから採用の手続きをしていたのではあれこれ間に合うはずがありません


これはまずい

わたしは「なんとかお願いします」と自分の経済状況を改めて話して必死に頼みこみました

係の人は窮して誰かと相談している様子でした

再び電話に出ると「受け入れ先があるか分かりませんが探してまた連絡します」といいました


どうなることかとドキドキして待っていると係の人から電話がありました

「調布市国領の専売所の所長がご厚意で受け入れてくれることになりました」とのことです

わたしは胸をなでおろし翌日その所長に会いに有楽町の奨学会事務所へ行きました


住み込みのため家を出る

下宿先は専売所ではなく専売所から自転車で5分ほど行った住宅地の古い木造家屋でした

普通の民家を改造して学生に間借ししているようでした


家の1階の入口に一番近い4畳半がわたしの部屋でした

一間幅の窓の外に木製の狭いベランダがあって洗濯ものが干せるようになっています

貸間とはいえ生まれてはじめて自分だけの部屋を持つことになりました


引越荷物は父が横浜の家からライトバンで運んでくれました

着替え、布団、白黒テレビ、勉強机、食器、それと10冊ほどの参考書が荷物の全てでした


新聞専売所の所長さん

専売所の所長のKさんは関西弁のなまりのある50代ぐらいのにこやかな人でした


若いときに早稲田大学を受験したとのことでした

その受験前夜に郷里の先輩からたらふくご馳走になったそうです

翌日は二日酔いでまともに答案が書けず不合格になったといいます


K所長は大阪の大学を卒業したあと有馬温泉にある中学校の教員になりました

温泉宿の子供達が生意気で可愛げないのに愛想をつかして教員を辞めてしまったといいます


その後どのような職業を経て新聞専売所の所長になったのかは知りません

新聞広告に関しては相当詳しい様子で専売所の2階の所長室でよく関連の本を読んでいました


新聞配達の仕事

毎朝4時に起きて自転車で専売所に出勤することから一日が始まります


本社から刷りたての新聞を積んだトラックが専売所の前に到着します

新聞の束がトラックの荷台からどんどん路上に投げ落とされます

これを配達員全員で店の中に放り込みます

ひと束に朝刊が何部入っていたか忘れましたが相当な重さでした

雨の日には新聞が濡れないようにこれを一層てきぱきとやらなければなりませんでした


次にその新聞の束を自分の配達区に必要な個数だけ取り開封します

そして見出しを見る間もなく新聞1部ごとに折り込み広告の束を挟み込みます

これには要領があってベテランはあっという間につぎつぎ挟み込んでしまいます

新米はもたもたして時間を食ってしまい先輩たちの見事な手さばきを横に見つつあせります


折り込みが終わったら配達する順番に新聞をそろえます

「本紙」と呼ぶ朝日新聞とそれ以外の「諸紙」を自分の配達区の配達順路順に重ねるのです

諸紙で一番多いのは日本経済新聞でした

それ以外にスポーツ新聞やら業界紙など全部で10種類ぐらいありました


ここまでできたら配達区の前半分を自転車に載せます

専売所を出発するときは前カゴと後の荷台に載せた新聞がてんこ盛りの状態です

順路の後半分の新聞は専売所の番頭さんが配達区の中間地点にバイクで運んでくれました


わたしの配達区は調布市国領町の甲州街道の北側で自分の下宿周辺の160軒ほどでした

朝刊の配達は専売所を5時前に出発して6時半ごろに終わりました

夕刊の配達も朝刊と同じくらいの時間がかかります

それでも夕刊には折り込みが無く諸紙も少ないため朝刊より楽でした


気が重い「不着」と「誤配」

配達順路を覚えるには専用の順路帖を見ながら自転車で配達区を回ります

覚えるのは大して難しいことではありませんでした

しかし配達の際にぼんやりしてしくじることがよくありました


朝刊のときは家を飛ばして配達しても新聞の種類がずれるので早く気が付くとこができます

飛ばしてしまった家まで新聞を回収しながら戻り改めて正しく入れ直すことになります

 

面倒なのは夕刊のときでした

夕刊は軒数分ちょうどの部数の本紙と日経新聞を自転車に乗せて配ります

ところが配達が終ったあとにまだ自転車に新聞が残っていることがあるのです

それはどこかの家を飛ばしてしまったたからです

この場合は飛ばした家が見つかるまでどこまでも戻りながらたしかめることにります


こうした配達のしくじりに気がつくとわたしはいつもドキッとしました

というのも配達を間違えた家から専売所に電話がかかってくるからです


「新聞が届いていない」(不着)

「間違った新聞が届いている」(誤配)


客からの苦情電話を受けた番頭さんから後でわたしがきっちり怒られるのです


「誤配があったよ。注意してくれ」

「また不着があった。駄目じゃないか」


このように叱られるのが何ともやりきれませんでした

自分では気を入れて配達しているつもりでもどうしても配達間違いしてしまいました

予備校通い

朝刊の配達が終わると一旦下宿へ戻り勉強道具を持って再び専売所へ行き朝食を食べました

朝食と夕食はK所長の奥さんが作ってくれました


朝食を終えると京王線に乗って代々木駅前の代々木ゼミナールという予備校へ行きました

この予備校に朝日新聞の配達奨学生だけを対象にしたクラスがあったのです


そのクラスは春の開講の時は定員二百人ほどの教室が立ち見の盛況でした

ゴールデンウィークが過ぎると早くも席に余裕が出来始めました

さらに夏が過ぎると出席者はもう教室の半分にも満たないほどになりました

どうしてこんなに受講生が減っていくのか理由は分かりませんでした

予備校に来ないで下宿で勉強しているのか、あるいは奨学生自体を辞めてしまったのか

どちらかであろうと想像しました


わたしはいつもその教室の前のほうに座って講師の話を聞き逃さないように耳を傾けました

たいがいの講師は教えるのが上手でユーモアもあり聞くのが楽しみでした


ことに面白かった講義は英語と古文でした

磯工ではこれらの科目の授業時間数が少なかったのでよく理解できていませんでした

これらの講義で扱われていた文の内容に惹かれました

サマセット・モームや吉田兼好など、印象深い文章にいくつも出会うことができました


講義の合間に人生訓のようなものを挟み込む英語教師がいました


Don't speak ill of others behind his back.


この教師は自分の頭に邪念が生じたときは莫妄想(ばくもうぞう)と唱えると言っていました


また室生犀星の望郷詩を涙ながらに朗読する老齢の国語教師がいました


ふるさとは遠きにありて思ふもの

そして悲しくうたふもの

よしや

うらぶれて異土の乞食になるとても

帰るところにあるまじや

...


講師の教え方が上手いので教科の苦手意識はすぐに吹き飛んでしまいました

受験勉強でありながらも科目の中身に興味をもって取り組むことができました

模擬テストを受けるたびに偏差値がどんどん上がって行きました

それが嬉しくて次のテストを受けるのが楽しみになりました


昼飯を予備校の立食い(たいていキツネソバでした)で済ませ午後は1科目で授業は終わりです

新宿から国領駅まで座って帰るのですがいつもこの車中でひどく眠くなりました

少し参考書でも読もうとするのですがあっという間にウトウトしてしいます

眠気を振り払うようにしてなんとか国領駅で下りて下宿へ戻りました


夕刊の配達

下宿へ戻って少し休憩するともう夕刊の配達でした


夕刊は朝刊に比べれば楽です

新聞自体が薄いところにもってきて折り込みチラシがないので軽いからです

また、配達時間が秋冬以外はまだ明るくて、人通りもあって街に活気があります


夕刊の配達が終るとその足で専売所へ行って店長の奥さんが作った夕食を食べました

献立はカレーライス、焼き魚など簡単なものでしたが美味しくいただきました


夕食の最中にラジオから「小沢昭一の小沢昭一的こころ」が流れてきました

気楽なイントロと、切れのいいのユーモアと、ちょっとしたお色気が心地くしみました


夕食のあとは他の配達員と世間話をしながら翌朝分の折り込み広告をセットしました

こうして1日の仕事を終えると下宿の近くの銭湯へ行って汗を流しました


ラジオを買う

6月10日に夏のボーナスを15,000円いただきました

さっそくラジオを買いに秋葉原の電気街に出かけました

買いたい機種はもう決まっていました

ソニーのスカイセンサー5600(ICF-5600)です

短波、中波、長波の3バンドでスピーカーが大きいやつです

18,000円もしましたが貯めていた小遣いも足して思い切って買いました

その頃のわたしにとってはもっとも高価な買い物でした

スカイセンサー5600はまだ健在です

懐に余裕はありませんでしたがいい音で音楽を聴きたかったのです

またその頃はエアチェック(録音すること)と、海外短波放送を聴くのが流行していました

わたしはFM放送番組の雑誌をときどき買いました

FM人気を反映して「FMファン」、「週間FM」、「FMレコパル」と3誌もありました

その3誌とも今はすべて廃刊になっています


新聞配達員の人たち

配達員には配達と集金を専業にしている人と大学や予備校に通っている奨学生がいました


専業の人にはいろいろな人がいました

競馬や競輪をこよなく愛している人、サラリーマンのような人、何をしたいのか分からない人


共通しているのは皆がここの専売所のK所長に一目置いている様子があることでした

それがどんな理由によるのか分かりませんでした

おそらくK所長がインテリでありながら不遇でかつ人柄がいいからなのかと想像しました


ある時、何かの用事で番頭さんの住んでいるアパートに行ったことがあります

「せっかくだからあがんなさい」というので狭い玄関から室内に入りました

すると家具らしきものがほとんどない部屋の真ん中に大きな座卓が置かれていました

上には六法全書と司法試験の本が何冊か積んであり、傍らにはノートが広げられていました

いつも無精ひげを生やした40代後半に見えるこの人は司法試験の受験浪人なのでした


奨学生はわたし以外の3人は現役の大学生でした

そのうちの2人の男性はどちらも私立大学の法学部に通っていました


二人の性格は正反対でした

一人はきちんと授業に出ていて卒業後は公務員になることを目指していました

もう一人は連日連夜繁華街を飲み歩くような生活をしていました

とうぜん授業には出られません


ひとりのふくよかな女性は地方出身のおとなしい人でした

このひともたしか法学部生だったと思います


10月の末に専修大学1年生のMが奨学生として専売所に加わわりました

隠岐島の出身でいつもニコニコしていました

気持ちと時間に余裕があるようでよく先輩の配達員と遊びに出かけていました


新聞配達の悲喜こもごも

わたしが担当していた配達区のはじめあたりに平屋の木造アパートが何軒かありました

そのうちの1軒から毎朝ポータブル・ラジオを片手に出勤する初老の男性がいました

そのラジオからはいつも弦楽器を一つだけ使ったような同じ音楽が流れていました

それがNHKラジオの放送開始前の音楽だと知ったのはずいぶん後のことでした


ラジオの開始音楽・インターバルシグナル

作曲:熊田 為宏

演奏:三石 精一

楽器:チェレスタ


ある雨の朝、ラジオのおじさんの家の先のぬかるんだ路地に自転車を立たせました

そして近くの家のポストに新聞を入れに行きました

戻ると自転車がぬかるみに横倒しになっていました

泥水のうえに投げだされ新聞はグシャグシャになっていました

しばし呆然としたあと自転車をおこしひきずるようにして専売所にもどりました

番頭さんに事情を話して汚れた新聞をきれいなものに交換してもらいました


その路地のすぐ先に空き地がありました

広さは大きめの家を一軒取り壊したくらいありました

背の低い雑草に一面おおわれた中にやせた灌木がまばらに生えていました

夏の朝、その空き地の一面にもやが漂っていました

そのもやに浮かぶようにして木々がポツンと立っています

わたしはその景色を自転車を止めてしばらく眺めました


それからその空き地の前を通るのが楽しみになりました

雨や雪の朝でも、あの空き地は今日はどんな表情だろうと思いました


配達先のひとからねぎらいのことばをかけられるのは嬉しいことでした

「ご苦労さん」とか「大変だね」とか言われるとホッとした気持ちになりました

秋が深まった夕方におばあさんが蜜柑をいくつかくれたこともありました


1日のスケジュール

受験浪人をしていた時、わたしは1日24時間の過ごし方についてたびたび考えました

1974年11月18日は次のようなスケジュールで動いていたようです


4:00     起床

4:15~6:30 朝刊配達

6:30~7:00 朝食

7:00~7:40 朝刊読み

8:00~9:00 予習

9:00~10:30 授業

10:40~12:10 授業

12:30~13:00 復習

13:30~14:00 昼食

14:00~15:30 世界史

15:30~17:30 夕刊配達

17:30~18:00 夕食

18:30~19:00 夕刊読み

19:00~20:00 読書

20:00 就寝


予備校への行き帰りの時間が組み込まれていないので自宅学習の日だったのでしょう

こんなふうに睡眠と食事以外の時間はほとんど新聞配達と受験勉強に費やしていました


心身の不調

秋の空気が冷え込んできたある日に軽い風邪をひきました

寝込むことも無く普段どおりに生活しました


咳がいつまでたっても止まりませんでした

夜も止まらずに寝苦しい日が幾日かありました

頭から布団をかぶって寝ていると不安の虫が頭をもたげてきました

こうして不調のまま希望の大学に合格できなかったどうしよう、と


秋が深まって日がどんどん短くなり夕刊の配達途中にまっ暗になってしまうようになりました

咳はあいかわらず止まらず不安がつのり誰かにこの気持ちを伝えたくなりました

磯工山岳部の顧問だったA先生に手紙を書きました

すると間もなく先生から励ましの手紙が届きました


早稲田大学への入学を志す

10月に早稲田大学を第一志望にすることに決めました

私立大学の文系ではいちばんの難関で1年前のわたしには考えられないことでした

いまの調子で偏差値が上昇していけば自分は早稲田大学に合格できるはずだと思いました

同じ難関でもなぜか慶応大学へ行きたいとは少しも思いませんでした


年が明けてから早稲田大学の第一文学部、教育学部、社会科学部に出願書類を送りました

受験勉強は最後の仕上げの時期になりました

わたしは試験当日に実力が発揮できればかならず早稲田大学に合格できると信じていました


夜間学部に合格する

3回の受験日の前夜にはサンドイッチ弁当を作りました

当日は朝の配達のあと、魔法瓶に紅茶をたっぷり詰めて、弁当と一緒に持って出かけました

浪人した1年間の成果が試される大事な試験です

それでも不安や緊張感はなく、ただ自分の力を出し切ってやる、という気持ちでした


3つの学部の受験を終えて、第一文学部の試験問題は少し難しいと感じました

教育学部と社会科学部については合格した、という手応えがありました

実際に合格できたのは夜間学部である社会科学部だけでした

わたしは社会科学部に入学することに決めました


当時社会科学部は早稲田大学で最も新しい学部でした

1960年代まで早稲田大学の全学部には昼間部(一部)と夜間部(二部)がありました

団塊の世代が就業年齢に達すると昼間働いて夜学ぶ学生の数が全国的に急減しました

早稲田でも二部の入学者数が定員割れするまでになりました

そこで早稲田大学は政治経済学部、法学部、商学部の二部を1つの学部にすることにしましたこうして1968年に生まれたのが社会科学部なのでした


新聞奨学生をやめる

1つだけ問題がありました

社会科学部は最初の授業が午後3時50分から始まり最後は10時10分に終わります

授業時間帯と夕刊の配達時間が重なってしまうのです


所長に「夜学へ行くので4月以降は新聞奨学生を続けられません」と申し出ました

すると「必ず最初の授業に出なければ卒業できないのか?」と問われてしまいました

たしかに5時30分以降の授業を取るだけでも4年間での卒業は可能です

しかし夕刊の配達が終わってから大学へ行ったのでは7時過ぎの授業しか取れません

これでは卒業まで何年かかるかわからず取れる授業科目も大幅に制限されてしまいます

そのようにK所長に説明したのですが最後まで納得がいかないようでした


わたしは申し訳ない思いのまま1年暮らした国領をあとにして横浜の実家へ戻りました


大学を卒業して10年以上たった頃にふらりと国領へ行ってみたことがあります

わたしの配達区域だったあたりを見て歩きました

街の感じが変わったのと自分の記憶がはっきりしなくなったのとおそらく両方でしょう

ラジオのおじさんの家もあの空き地もどこだったのか判然としませんでした


日が傾き始めたころ駅前の専売所にK所長を訪ねました

あいにく所長は不在でした

居合わせた所長の奥さんと立ち話をしました

奥さんは1年間しかいなかったわたしのことはもう覚えていないようでした

 


0 件のコメント:

コメントを投稿