1971年1月15日金曜日

三人の担任 1962年4月1日~1968年3月31日

前から3列目、左から3人目が私

明るく眺めの良い小学校
その小学校は我が家から畑と民家のあいだの狭い道を10分ほど行った丘の上にありました

日当たりと眺めの良い明るい雰囲気の学校でした

木造校舎の二階から富士山や大山・丹沢の山々が西の方に見えました

東の方には校庭の向こうに横浜港のマリンタワーの展望台が覗いていました


二階建ての木造校舎が校庭の背後に3棟行儀よくならんでいました

学校の西側の道路にそってユーカリの木が並んでいました

表皮はたやすくはがれ、葉からは不思議なにおいがしました


やさしかったT先生

小学校へ入学する前は幼稚園へ行かずにずっと家で遊んでいました

入学してしばらくは緊張していましたがすぐに慣れました


クラスの受け持ちはT先生という若い女性教師でした

いつも観音様のような笑みをたたえた優しい人でした

上手にオルガンを弾き、高いきれいな声で歌を教えてくれました


T先生はいつもきちんとスーツを着ていました

その先生の家へ同級生と一緒に遊びに行ったことがあります

生徒が押しかけたのではなく先生が招いてくれたと記憶しています


先生の家は学校から帷子川をへだてた南側の丘にある閑静な住宅街にありました

いつもどおり靴下を履かないで行ったわたしには入るのがためらわれるような感じの家でした


おずおずと訪れたわたしたちをT先生は喜んで招き入れてくれました

お菓子と飲み物を出してくれ、たくさんの蝶のコレクションを見せてくれました

ガラス箱の中にピンでとめられた蝶はどれも色鮮やかでした

どれもこれまで見たことのない形をしていました


初恋

小学校の低学年の頃になんとなく心をひかれていたのは同じクラスのKさんでした

目がパッチリと大きくて、ゆっくり考えながらしゃべる女の子でした

彼女の家はわたしの家から歩いて10分ほどで、そこへ何度か遊びに行きました

お母さんはきれいな人でした

クラスの詩集に載ったわたしの詩を覚えていて、とってもいい詩だとほめてくれました


ある寒い冬の朝に布団の中でわたしは自分の二の腕に唇で触れてみました

そして口づけとはどういうものか想像してみました


Kさんとはクラスが別々になるとそのまま友達づきあいもしなくなりました


嫌いだったエンドウマメ

小学校3、4年の時のクラス担任はEという音楽が得意な男性教員でした

とても神経質で生徒をひどく依怙贔屓しました


生徒たちには人気が無く「エンドウマメ」と陰で呼ばれていました

贔屓されるのは、可愛い女の子、歌や楽器の演奏が上手な子、勉強ができる子でした


わたしはそのどれにも該当していませんでした

家が貧乏で、勉強ができず、楽器が弾けない小僧はまったく無視されました


それだけならまだましだったかも知れません

相手にされないどころか時々わたしは彼のヒステリーのはけ口にされたのです


エンドウマメは自分に気に入らないことが起こるとイライラし始めます

それが小学生のわたしにも手に取るように分かるような情けない男でした


その一方で入学式や卒業式などの時には、しゃしゃり出るのが好きでした

全校で合唱する際には朝礼台の上で芝居がかった身振りで指揮棒を振りました。

うっとりと自己陶酔しているエンドウマメの顔を見ると虫唾が走りました


T先生の時、つまり小学校の1、2年の時はわたしは算数が少々苦手な程度でした

それがクラス担任がエンドウマメになってから算数が大嫌いになりました

こんなことがあったからです


ある日の算数の授業で生徒は九九の掛け算を言わされました

指された生徒は「ニニンガシ」「ニサンガロク」「ニシガハチ」と立って答えるのです

指されたときにわたしは緊張で頭が混乱してちゃんと言えませんでした


エンドウマメは九九の答えが美しいリズムのように続くのを期待していたのでしょう

それが突然わたしのところでつっかえて中断してしまいました

気分を損ねたエンドウマメからわたしは悪し様に叱られたように記憶しています


こうして始まったわたしの算数嫌いはその後どんどんひどくなりました

中学で最悪となり、高校に入ってM先生と出会うまでそれは続きました


はじめての帰省

小学4年生の夏休みに初めて自分の生まれ故郷である宮城県古川市へ行きました

上京してきたM伯父さんに連れられて兄弟3人で出かけました

これが生まれて初めての長旅でもあったので今でもはっきりと覚えています


上野駅からきれいな車両の急行列車(特急だったかもしれません)に乗りました

普段乗っている相模鉄道の電車とは比べ物にならない快適さです

車窓の景色を楽しみ、駅弁を食べ、おやつに車内販売のアイスクリームを買ってもらいました

姉は列車に酔ってしまい、食べたものを車内でみんな吐いてしまいました


仙台駅で列車を降りてにぎやかで暑い西口の駅前に出ました


駅前の「丸光」という大きな百貨店の前から古川行きのバスに乗りました

バスは丘陵地帯の国道をどんどん北上し、やがて広い田んぼの中をまっすぐ行きます

軒の低い家の間を走るようになるとそこが古川でした


父の実家である諏訪町の家に着いた時にはもう暗くなっていました

初めて会う祖父、伯父の連れ合い、従兄兄弟が喜んで迎えてくれました


わたしたち兄弟三人はみんな古川で生まれました

物心つかないうちに一家で横浜へ引っ越したので誰も古川での記憶はありません

迎えてくれた古川の人たちはみなわたしたちのことを覚えているのでした


翌日から従兄に近所のいろいろなところへ連れて行ってもらいました


2人が所属するバスケットボール部の練習を中学校の体育館へ見に行きました

コートの脇で遊んでいると女子部員に取り囲まれました

「どこからきたのや?」、とか興味津々でいろいろ聞かれました


彼女たちが発する東北弁のイントネーションは母のそれとそっくりでした

わたしはまずそれに驚き、そしてそれ以上に喜びまし

そっくりなのは母のうまれ故郷の女の子たちの語り口だからです

見知らぬこの土地が自分の生まれた場所であることをそのことが確かに教えてくれたのです


ある夜に古川の中心街へ七夕祭りを見に行きました

商店の軒先の大きな七夕飾りの下を人並みがゆっくりと流れていました

垂れ下がっている折り紙や金糸銀糸を気持ちよく頬で受けながらそぞろ歩きました


従兄たちに連れられるままに町家づくりの食堂の座敷に上がりました

そこには中学校の体育館で会った女子部員たちが色とりどりの浴衣を着て座っていました

店先を歩いて行く人々を眺めながら明るい電灯のもとでかき氷を食べました


ある日には列車に乗って松島の見物や海水浴にも連れて行ってもらいました


この頃には父の家はすでに菓子屋を廃業していました

店を改築して伯母が中華ソバ店を営んでいましたがあまり流行っていないようでした


伯母は「何でも好きなものを好きなだけ食べさせてあげる」と言いました

そこで昼は大好きなラーメンや冷し中華を食べ、かき氷を1日に何回も食べました

それでついに腹をこわしてしまいました


あまりの生活の激変に疲れが出てだんだん横浜の家が恋しくなってきました

それまで外泊などめったにしたことがなかったのでホームシックになったのでしょう


姉は毎晩のようにおねしょをして祖母と伯母を困らせました

私は祖父が兄ばかりを可愛がるように思えてすねました

そこで姉とわたしはどこかへ隠れこんでしまうことしました


雨の降る晩に家を出て近くの倉庫の軒先に隠れました

次第に雨脚が強まってきて2人とも濡れてしまいました

ついには心細くなって家に戻りました

ずいぶん長いあいだ隠れていた気がしましたが実際には数時間のことだったでしょう


そんなこともあって伯父は横浜の両親と電話連絡をとっていました

そしてわたしたちは予定よりも早く横浜へ帰ることになりました

来た時と同じように伯父に連れられて帰りました

今度は夜行列車に長々とゆられて行きました

途中に何度も目が覚めては通り過ぎる景色に目をやりました


トラウマになった夏の宿題

この年の夏休みの終わりは小学校の時の最も嫌な思い出のひとつです

夏休みに父の実家に長いこと滞在したあいだわたしはほとんど宿題をやりませんでした

横浜へ帰ってからも、しばらくぼんやりしていて、全く宿題をやる気が起こりませんでした

たまりにたまった宿題に手をつけたのは夏休みがあと一週間で終わるころでした


一番の難題は九九の暗唱でした

いろいろな宿題を同時に始めたので疲れて集中力が落ち九九を容易に覚えられませんでした

見かねた母が相手をしてくれましたが最後は泣き泣き覚えるありさまでした


夏休みの日記というやっかいなものもありました

日記には毎日の天気を書く欄がありました

古い新聞はとおの昔に風呂の焚き付けやら、父の弁当を包むのに使われてしました

もはや調べようがありませんでした


また、日本列島の地形図を紙模型で作るという課題もありました

わたしは社会科が好きだったので本来このような課題は心楽しいものになるはずでした

しかしその時は気ばかりあせって楽しむ余裕はありませんでした

自分らしくない乱雑な出来あがりを見ると情けなくなりました


この夏休みの終わりの焦燥は後々までトラウマになりました


I「ウマ」先生

小学5年になる時にクラス替えがありました

生徒が入れ替わるとともにI先生がクラス担任になりました

I先生は生徒に人気があると兄や姉がいっていました

わたしはそんな先生のクラスに入れたことをうれしく思いました


岩手県出身のI先生のあだ名は「ウマ先生」でした

面長なうえに足が速かったからです

運動会で教員が走る種目でウマ先生はトラックをニコニコと疾風のごとく駆け抜けました

生徒たちはその颯爽とした姿に「いいぞウマー」とかやんやの喝采を浴びせました


I先生は冬場の体育の授業で良く「マラソン」をやりました

長い距離を走ることを「マラソン」といっていました

「マラソン」は苦しいことでしたがわたしは楽しみにしていました

なぜならわたしは「マラソン」がクラスの誰よりも速かったからです

勉強ではうだつのあがらないわたしでした

しかし「マラソン」ならクラスの誰にも負けない自信がありました


I先生の「マラソン」は校庭からスタートする1.5キロメートルほどのコースでした

常盤公園の先を反時計回りに1周してまた校庭に戻ってきます

途中かなりのアップダウンがあるきついコースでした


いつもI先生を先頭にしてクラス全員でスタートします

はじめは平坦な道ですが常盤公園を過ぎると下り坂になります

この辺まではまだ集団で走っています


坂を下りきってしばらくすると今度は長くて急な上り坂になります

集団がどんどんばらけてくるとわたしは生徒の先頭に出ます

先を行くI先生の姿はもう見えません


弾む息をおさえこむようにして坂道を駆け上がります

校庭に着くと待っていたI先生は笑顔で「速いな」とほめてくれました

これがわたしが小学校でほめられた数少ないことの一つでした


I先生が生徒に人気があったのは生徒に公平に接する先生だったからでした


良くないことをした生徒には猛烈に怒りました

ある生徒が貧乏な家庭の生徒の身なりを馬鹿にしたことがありました

心無い生徒の頭にI先生のげんこつが飛びました


クラスには有名中学への進学をめざす秀才が5、6人いて放課後に指導を受けてました

わたしのような鈍才たちが彼らを「いつもご苦労さん」などとひやかしたことがありました

それを聞いたI先生は青筋をたててわたしたちを怒りました


小学生は心も体も発達途上の半人前です

それでも良い先生かそうでないかは瞬時に見抜くことができます

わたしはI先生を良い先生だと思いました

だからI先生に怒られると反省したし、ほめられると心から嬉しかったのです


I先生が担任になるまでわたしは勉強が好きでありませんでした

ことにエンドウマメに痛い目にあわされた算数が嫌いでした

I先生が担任になってから国語や社会科が好きになりました


国語の授業で「立山に登る」というすてきな文章に出会いました

この文章の朗読が宿題になったので心を込めて読みました

何度も何度も暗記してしまうほど繰り返し読みました

すると今まで見たこともない情景が自分の心に浮かんできました

夏の雪渓、高山植物や鳥たち、温泉の噴気孔...

いつか自分も立山のようなところへ行ってみたいと憧れました


「立山に登る」

「小学校国語五年上 11 学図 国語 5025」より


 午前8時半、弥陀ヶ原の、一面やわらかいくまざさの草原に立った。標高1900メートル、平地では真夏だというのに、中部山岳国立公園立山の中ふくに広がるこの高原には、今ようやく、春がおとずれたという感じである。


 美しい、じつにすばらしい。ただそれだけしか、今のぼくには言い表せない。


 気温18度、両うでからせなかにかけて、ひんやりとした冷たさが伝わってくる。天気は上々。案内役は、わたしと兄をさそってくれた、立山生まれの民夫さんだ。そのうえ、立山の名ガイドといわれる、民夫さんのおとうさんがつきそってくれるというから心強い。「9時だ。さあ出発しよう。」


 おじさんは、ぼくらのリュックから、重そうなものを、そっくり自分のリュックにつめかえると、50キロもあるかと思われるような大きな荷物を、太い右うでにかけて、軽々と、せなかにほうり上げた。とたんに、いままでにこにこしていたおじさんの、ほおのきんにくがぴりっと動いた。


 「民夫、おまえは先頭に行け。天狗平が10時半、地獄谷から室堂平をつっきって、山崎カール、雷鳥沢の見えるあたりで昼食にしろ。午後3時には、雄山のちょうじょうだ。さあ、出発。」


 びいんとひびく命令口調である。山男のはき出すようなはげしいことばに、思わず、こしがしゃんとする。


 つま先上がりの高原の道を15分、さらに、雨の日は谷川になるという、急な石ころだらけの道を、20分ほど登る。


 道のまん中にころがり出ている大きな岩に手をかけて、そっとこしをのばしたら、すぐ頭の上で、「ゴワッ、ゴワッ。」と、ほしがらすが鳴いた。わらわれているような気がしたので、歩きだそうとしたら、先頭の民夫さんが、ちらりとふり向いて、

「だいじょうぶかい。少し休もうか。はじめての山だからたいへんだろう。」と言う。ほっとした気もちである。じつは、さっきから、ひざががくがくしていたのだ。両足をふんばるようにして、岩によりかかったら、山の岩はだのにおいが、鼻のおくにしみ通った。


「あせをふいたら。」

と兄が、こしにつけていた手ぬぐいを取って、ぽんと投げてくれる。


 目の前に開けている弥陀ヶ原高原は、見わたす限り、緑のじゅうたんをしきつめたように、明るく美しい。追分から天狗平にかけて、ゆるやかなきふくの間を、登山バスの道路は、生きもののようにうねっている。


 高原のはしにそびえる大日岳の、ふもとの辺りが白くなって見えるのは、落差日本一といわれる称名の滝の水けむりでできたガスであろうか。


 あたりの雑木林の中で、鳴きなれない、わかいうぐいすが、しゃっくりをするように鳴く。


「さあ、行くぞ。」

おじさんの気あいがかかる。この気あいがかかると、ぼくらのこしが、すくっと上がるのがふしぎだ。


 こきゅうが苦しくなる。リュックが、かたにくいこんでくる。ときどき、上からおりてくる人たちに会うと、

「ご苦労さん。よく来たね。」

「がんばれよ。」

などと、はげましてくれるが、

「はい、こんにちは。」

と返事をするのが、せいいっぱいである。


 とつぜん、兄が、

「わあ、すばらしい、雪けいだ、雪けいだ。」

と大声をあげる。天狗平に出たのだ。右手からのしかかるようにつき出ている浄土山は、行く手に、白いシーツのように、雪けいをしいている。もう見あげるほどになった雄山も別山も、それぞれ、思い思いの形の雪けいを、だいじそうにだいている。


 「どんな日照りの年でも、あの雪けいは、消えたことがないそうだよ。だから、きっと、あの雪は、何百年も前の古い立山のことを、よく知っているにちがいない。それから、そのとなりのおかを見てごらん。きれいな花がさいているだろう。せの高いほうが『こばいけいそう』、小さくてかわいいほうが『ちんぐるま』だ。これらの高山植物は、雪がとけ、夏がくると、新しい芽をふき、美しい花をつけるのだよ。何百年もの昔から変わらない雪けいと、年が変わるごとに新しく生まれる小さい花、ずいぶんとおもしろい対照だね。」

 民夫さんが、健康そのものの顔をかがやかせて言う。


 登山ぼうが、じっとりとあせばんだひたいにくっついているのに、くつの底からは、雪けいの冷たさが、両足を伝わってはい上がってくる。


 緑のもうせんの上に花あられをこぼしたような、高山植物の高原をつっきると、急に、左側の谷から、ゴーッという地鳴りが聞こえてきた。地獄谷である。


 勢いよくふき出してくる黄色いけむり、異様な声でさけび続けるりゅうきこう(いおうのガスをふき出すあな)、すさまじい勢いでふきあげている熱湯、ほんとうに、生きて動いている感じである。立山がこきゅうをしているのではないかとさえ思われる。


 「こっちを向いてごらん。みくりが池が見えるよ。鏡のようにすみきっているだろう。小さな波さえたてないんだよ。ほら、池に、あんなにきれいに、浄土の雪けいが写っている。立山のあのはげしさと、となりあっているのも、ぼくはおもしろいと思うんだ。」

 説明する民夫さんのことばには、中学生と思えない力がこもっていた。


 室堂平のとったんにこしをおろして、おじさんから、百年も前の氷河時代の話、そのつめあとである山崎カールの話、らいちょうの住むという雷鳥沢の話などを聞いた。昼食をとり、雪けいをもれて流れる冷たい小川の水を飲んだら、また腹の底から元気がわいてきた。

いよいよこれから、ちょうじょうに登るのだ。


 一ノ越から二ノ越へ、おせばくずれ落ちそうな積み重なった岩と岩の間をたどる。ほんとうにたどるのである。何百トンとも知れぬ大岩の周囲を、ぐるっと回ると、またつぎの岩にぶつかる。長い間に多くの人が登ったであろう不規則な岩のかいだんを、あえぎあえぎ登るのである。休む時間のほうが長い。「がんばれ、がんばれ。」と、ひと足ごとに、じぶんでじぶんをはげます。


 民夫さんのペースは、少しもみだれていない。ときどきふりかえっては、

「あわてるな。」

と声をかける。兄は、

「空気がうすいんだね。しんぞうがあわててる。」と言って、顔をゆがめる。じぶんでは、わらったつもりなのだろう。


 やっとちょうじょうに着いた。午後3時5分、投げすてるように、リュックをおろす。

「とうとう登ったな。よくがんばったね。」

 おじさんが、はじめてほめてくれる。もう、こわい顔ではない。


 前からは民夫さんに、後ろからはおじさんに、元気づけられ、はげまされて、やっと登った立山ではあるが、ほんとうに、登ってよかったと思う。よくがんばったと思う。


 今ぼくらの立っているこの岩が、立山の主ほう、雄山のちょうじょうなのだ。

 とべばこせそうなみねみねが、深い谷をへだてて、左に大汝・別山・剣と続き、右には浄土・龍王・獅子と、頭をつらねている。はるか日本アルプスの上には、遠く、富士山のすがたも見える。


 雄山沢からふきあげる冷たい風の中で、ぼくは今まで経験したことのない喜びに、むねをふくらませて、無言のまま、しばらく立っていた。


卒業間近の社会科の授業で

小学校の卒業が近づいたある日に社会科の授業がありました

I先生はわたしたちにとても難しい質問をしました

教科書の題材に関連して、社会に実際に存在する問題を解決する方法を問うたのです


クラスの秀才も鈍才も確たる答えはできませんでした

それを確かめたうえでI先生自身も正解を示すことはありませんでした

I先生は誰もが簡単に答えられない問いをあえて卒業間近のわたしたちに投げかけたのでした


わたしは社会科の授業が好きでした

それは自分が人よりもあれこれの知識をたくさん持っているという他愛ない自負からでした

県庁所在地の市名とか、何々山脈はどこにあるかとか、そういうことです

この日の授業まで知識を多く蓄えるのが社会科という教科だと思っていました


I先生の難しい質問を浴びて目が覚めるような気がしました

こういう問題を考えるのが社会科なのかと初めて気がつきました

I先生はこれからしっかり勉強しなさいというメッセージを卒業する私たちにくれたのです


I先生はいつも古びた背広を着ていました

照れて頭をかくとフケが肩にぼろぼろ落ちました

時々自分の話に自分で吹き出しては唾を飛ばしました


I先生があの日の社会科の授業で具体的にどんな質問をしたのかは覚えていません

私たちに問いかけていた姿だけがまぶたに残っています


横浜市立常盤台小学校校歌

作詞:井上秀雄 作曲:西島万雄


緑さやけき常盤台

若い希望のみなぎるところ

勉めよ常に健やかに

勇み学ばん

常盤台小学校


仰ぐはるけき富士の嶺

高い文化を究めるところ

励めよ常に和やかに

楽しみ学ばん

常盤台小学校


心のどけき丘の上

芽生え正しく育むところ

磨けよ常に麗らかに

喜び学ばん

常盤台小学校




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