さらにどういうわけだったのか知りませんが我が家はまた引っ越しました
仲手原幼稚園というのが家から少し離れたところにありました
その幼稚園でのことを何も覚えていません
私は幼稚園に入園しなかったのだと思います
ある日幼稚園の裏のお寺で落ち葉掃きをしながら母の帰りを待っていたことを覚えています
幼稚園の近くで日が暮れるのも気づかず遊んでいてあわてて家に帰ったことも覚えています
でも幼稚園の中で過ごした記憶がありません
東横線の踏切近くに「✖✖ベーカリー」というパンの製造・販売をする店がありました
店先から漂ってくる焼きたてのパンの香りは、なんともいえずいい匂いでした
その店で時々コッペパンを買ってもらいました
いまでもマーガリンを塗ったコッペパンが好きです
この踏切で東横線の電車が行き来するのをよく眺めていました
緑色の通称「アマガエル」は特に印象深い車両です
踏切付近のカーブを走り抜けていく姿が好きでした
記憶が定かではないのですが確かこんなことがありました
ある日踏切の線路に小さな石を置きました
ちょっとした遊びのつもりです
通過する電車が勢いよく石を飛ばして走り去るのを期待していました
物陰から息をこらしてやって来る電車を見ていました
列車は石を置いたところを通り過ぎると急停止しました
これは大変なことになったと思い、後も見ずに走って家に帰りました
兄が通っていた小学校の運動会に家族で行ったことがありました
プログラムの中に学齢前の子供が自由参加できる「大玉転がし」がありました
父母から出るよう勧められたのですが、いやだいやだと駄々をこねて出ませんでした
きっと恥ずかしかったんです
Oさんと黒い自転車
ある日、妙蓮寺のアパートに年配の小柄な男性が黒い自転車で父を訪ねてきました
家には自転車がなかったので興味津々だったのです
知り合いの自転車なので触ってもきっと怒られないだろうと思いました
自転車はスタンドでまっすぐ立っていました
そのペダルを回すと、わたしのような小さな子供の力でもタイヤがくるくると回ります
早く回すと、タイヤもどんどん早く回ります
二人は年齢も離れているし、生き様も相当に違っていたでしょう
彼らがどのようなきっかけで知り合いになったのか想像もつきません
我が家の恩人、Oさん
Oさんは我が家にとって大の恩人です
一戸建てへ引っ越す
運転手は見たことのない男性でOさんの知り合いとのことでした
「霧さん」というのはすでに故人となったこの人の父親なのでした
私たちがこれから住む家の近くにその農園があります
その中型トラックに、少しばかりの我が家の家財は楽々と積みこまれました
わたしと兄が助手席に座り転居先へと向かいました
父母と姉は電車に乗って行きます
この運転手の人が時々わたしの足とクラッチとを一緒に踏みました
さらに狭い未舗装の坂道へと入り、上りきると周りに畑が出てきました
進んでいくわだちの間に生えている草がトラックの腹をこすります
道の両側が松林になっているところでトラックが止まりました
小学校3年の頃に妹夫婦が友人のアメリカ兵を数人引き連れてOさんの家に遊びに来ました
Oさんの家で開かれた宴会にわたしたち家族も呼ばれました
家に行くと座敷にテーブルが長く並べられ、楽しそうに宴会が始まっていました
カーキ色の軍服を着た体格の良いアメリカ人の間に入って座るのは少し勇気が必要でした
アメリカ人の人たちはほとんど日本語が分からないようでした
それでもわたしたちにとても優しかった印象があります
わたしは初めて外国人に接したので、何もかもがめずらしくてとても楽しく過ごしました
その宴会のちアメリカ兵の人たちは私たち兄弟を2度米軍の施設に招待してくれました
はじめは横須賀の米海軍基地で、停泊中の艦船を見学させてくれました
どういう船だったのかはよく覚えていません
大きな船の中には理髪所や歯の治療をするところまであるので驚きました。
見学して船を降り海兵クラブのようなところへ行って昼食をごちそうになりました
雰囲気のある大きな食堂で、どんなにすごいご馳走が出てくるのかと待っていました
出てきたのはハンバーガーだったのでちょっと気が抜けました
それでもその時初めて食べたピクルスの味が鮮烈でした
カモロジさんたちが飲んでいたバーボンの香りとともにくっきりと脳裏に刻まれました
そのつぎはクリスマスの時に本牧の米軍ハウスに泊りがけで招待されました
ちょっと心配だったのは兄弟三人が一人ずつ別の家に行くことでした
私たちは英語が全く分からないので、大丈夫かなという気持ちが少しありました
それにあちらの人たちは日本語が全く話せないのです
それでも怖いもの見たさが勝りました
芝生のスペースに建てられた白い家々の窓にはクリスマスツリーが飾られていました
そこに電飾が点滅してなんともいえない雰囲気を醸し出しています
アメリカの人たちは私たちをやさしく迎えてくれました
クリスマスのご馳走を食べたのですが、それが何だったのか覚えていません
そしてはじめてベッドで寝たました
やたらフワフワしていて身体が落ち着きません
おまけにスチーム暖房が暑すぎて寝られません
予想していたとはいえ何を尋ねられても理解ができませんでした
それに、自分の思っていることは身振り手振りでしか伝えられませんでした
私はこの思いもかけなかった体験を心の中にそっとしまいました
建てられてから20年も経っていないにもかかわらずあちらこちらに不具合が発生していました
まず、土留めをしていない擁壁の上に建てられたため、東側の部屋の床が傾いてきました
引っ越した当初は全く気になりませんでした
しばらくしても、ちょっと傾いているかな、という程度でした
それが数年たつと床に置いたビー玉が転がっていく程になりました
さらに10年経つと西向きに座われないほどの傾きになってしまいました
ほかにも、観音開きのガラス窓が歪んできちんと閉まらなかったし、
汲み取り式の便所が居室に隣接していて夏場は臭かったし、
下水は擁壁の下に垂れ流していたので不衛生でした。
このような家の不具合について、父は全く頓着していないように見えました
母は不便を感じていたに違いありませんでしたが、口には出しませんでした
そして家主であるOさんは、これをどうにかしようという考えは全くないようでした
このような大人たちの態度は私にとってとても不可解なことでした
それでも私はそれをどうにかして欲しいとは言い出せませんでした
引っ越したころ、家のまわりは畑と林の間に人家がぱらぱらとある程度でした
Oさんの家に行く近道は、ひと一人が歩ける幅の山道でした
その道の両側には夏には背丈以上の雑草がうっそうと繁茂しました
私はよく拾った棒切れでその雑草を思い切りなぎ倒しながら歩きました
茂みから蛇が出てくるのが怖かったのと、なんか気分がせいせいするからでした
Oさんの家の隣には借家が2軒ありました
1軒はTさんという小柄な家族で、その家には2人子供がいました
上の女の子の名前は忘れてしまいましたが、下の男の子はマアちゃんといいました
私たちがここへ引っ越してきたのは、マアちゃんが生まれて間もないときでした
もう1軒はSさんといって、そこのおじさんは船乗りでした
おばさんは喜怒哀楽の激しい人で、うちの母よりももっと気の強い人でした
私の母は気が強い反面、慎ましさところもあったように思います
Sさんのおばさんは強気の一点張りのように私には見えました
それでも私はSさんのおばさんが嫌いではありませんでした
というのも、おばさんは自分の子供と他家の子供とをわけへだてしなかったからです
良いことは良い、悪いことは悪いとはっきり言いました
Sさんの家に遊びに行くと、おばさんはいつもおいしいおやつを出してくれました
おやつについては、私の母親は少しがめついところがありました
おやつどきに他家の子供が遊びに来るとそれがわかりました
他家の子たちにおやつを分け与えたがらないのです
そのことで母を責める気にはなりません
それは母が貧しいの中で子供に食べ物を充分与えるのに苦労してきたからだと思うからです
Sさんのうちにはわたしの姉と同い年のゆき子ちゃんというおとなしい女の子がいました
おばさんと違っていつもちょっと元気がない感じでした
ある冬の日に、道端に張った氷で滑って転び、頭を切るけがをしました
小さな頭に包帯をぐるぐる巻きにされて、余計しょんぼりしているように見えました
家の南側に「霧さん」の畑がありました
その南側の縁に立つと、帷子川の谷を隔てた丘陵のはるか向こうに山並みがきれいに望めた
冬の空気がよく澄んだ朝には、富士山の山頂から上がる雪煙が見えました
ぐっと冷え込んだ朝には、丹沢の稜線に降った雪が朝日に銀色に光っていました
その荘厳な景色を見るたびに心が何とも躍りました
ある日母がいきなり「クリームパンをあげるから遊びに行っておいで。」と私に言いました
私は言われるままあてもなくOさんの家のほうにクリームパンを食べながら歩いて行きました
私はそんなことを面白おかしそうに言うOさんに腹がたちました
気が動転して何が何だかわからなくなり泣きながら家に帰りました
Oさんの言ったことは本当でした
二間続きの家のあちらとこちらに父と母が座っていて、何か途切れ途切れに口論しています
お互いが投げあった瀬戸物などが部屋の中のあちこちにちらかっていました
私は隠れるようにして聞いていましたが、何のことを言い合っているのか分かりませんでした
それから一日二日たち宮城の父方の実家から祖母がやってきました
私は小さい時にその家を離れたのでこのとき祖母の顔を初めて見ました
祖母はとても物腰のやさしいひとでした
「お前が✖✖か」と私たち兄弟の頭を一人ずつ丁寧になでてくれました
このとき祖母は孫の顔を見に東北から出て来たのではありませんでした
夫婦げんかの仲裁のためにわざわざ横浜までやってきたのでした
父母と祖母とのあいだでどのような話がなされたのかは知りません
ともかくもそれはどうにかこうにか収まったようでした
ひどい夫婦げんかを見たのはそれが最初で最後でした
父は年に二度ほどどういう風の吹き回しかとてつもなく機嫌が悪くなることがありました
そういう時はあらゆる悪口雑言をならべたてて母をののしりました
そして母はむっと口を閉じて斜め下を向いて黙っているのが常でした
それでも表情には決して自分は承知していないという意志が表れていました
よっぽどひどいことを言われない限り口答えはしませんでした
母は当初家でお産するつもりだったらしく、二間続きの奥の四畳半で寝ていました
ある夜産気づいて産婆さんが来たのですが、母はうんうんと苦しそうにうなるばかりでした
父は心配して子供たちに静かにするよう厳命しました
私たちはしばらく声をひそめていましたが、やがて大人しくしていられなくなりました
キャッキャッと騒ぎ出すと父はいつになくきつい調子で怒りました
私たちはゲンコツをもらい泣いてしまいました
父が子供に手を挙げたのは後にも先にもこのときだけでした
その翌朝、まだ雪が融け残る中を救急車がやって来ました
母は浦舟町の横浜市立大学病院に入院することになったのです
父が母に付き添うため、私たち三人はSさんの家に預けられました
私は当分Sさんのところに居るのかと嬉しい気持ちでした
それから間もなく無事に弟が生まれ、すぐに家に戻ることになりました
早く弟の顔を見たいのと、もっとSさんの家にいたいのと、入り混じった気分でした
弟はとても順調に成長し、しばらくすると声を良く出すようになった
抱くとずっしりとして、それでいて頭の毛が少なくて可愛かった
父はとても弟を可愛がったので、自然に弟が我が家の中心になりました
家のまん中にブランコをつるし弟を乗せみんな交互に遊んでやりました
こどもの日には父が庭に高い丸太を立てて大きな鯉のぼりを泳がせました
正月は言うに及ばず、2月は豆まきに弟と私の誕生祝いです
3月の桃の節句、5月5日の子供の日、10月の兄の誕生日、
12月の姉の誕生祝いとクリスマス。
子供の誕生日には母は部屋を片付けて、ご馳走を沢山作りました
父はケーキやプレゼントを買ってきてくれました
お祝いの日は誰もが上機嫌でした
隣り近所の人もやってきて父が歌をうたい皆が手拍子を取って盛大になるのが常でした
父は仕事帰りに毎日といって良いほどちょっとしたお土産をぶらさげて帰ってきました
暑い頃はアイスキャンデー、寒い時はタイ焼きなどだでした
私たち兄弟は父の足音が聞こえると今日は何のお土産だろうと我さきに飛び出していきました
小学校に入って間もなく何人か友達ができました
同級生のM君は、私の家から小学校へ向かって200mほど歩いたところに住んでいました
彼の家は農家でしたが、大橋さんと違い裕福でした
この畑や林にアパートを建てて、その経営がうまくいっているようでした
彼は遊びが上手でした
それでも彼は私たちの遊び仲間でリーダーになることはありませんでした
性格が大人しかったのと、小遣いを沢山持っていることを自慢することがあったのです
つまりちょっと頼りなかったのです
彼の他にあと1人、O君というわたしより1級下の遊び友達が近所にいました
彼は横須賀から引っ越してきて、M君の家の近くのアパートの2階に住んでいました
彼の家には何か他人が預かり知らぬ事情があるようでした
遊びに行くたびに少なからず驚くようなことに出くわしました
彼の母はとても気の荒い人で、思ったことを何でも歯に衣を着せないで言う人でした
時々優しくされたりすると、あとで何かあるのではないかとかえって気になりました
彼は激越なところがあって、生き物を殺したり、人に暴力をふるうまねが好きでした
兄のボクシングのグローブで、彼とアパートの前の空き地でボクシングのまねごとをしました
私はこういう遊びが嫌いでした
こういう近所の友達と「すみか」を作りました
「すみか」は「基地」ともいいます
近くの大きな病院の敷地境界にめぐらされたコンクリート塀の外側に面して作りました
まず塀に沿ってそこいら辺から拾い集めてきた木材を立てかけます
屋根はススキで葺いて、壁には段ボールを張りました
「すみか」を作った場所自体背の高いススキの原で、人目を気にする必要はありませんでした
そのの中で菓子を食べたり、大人向けの週刊誌を読んだり、タバコを吸ったりしました
わたしはタバコが好きになれませんでした
タバコを吸っていると胸がドキドキしてきて、早く家に帰りたいと思いました
我が家が羽沢町に引っ越した頃、Oさんははまだ畑仕事をしていました
Oさんの畑は二か所ありました
我が家とOさんの家の間と、Oさんの家から歩いて10分ほどの和田山というところです
家の近くの畑では蔬菜や麦を作り、遠くの畑ではもっぱら麦だけを作っていました
Oさんが和田山へは行くときに、時々ついて行きました
Oさんの家から谷地沿いに付けられた道を行くのです
ピクニックへ行くような気分でした
時折母は弁当持参で和田山に畑仕事を手伝いに行きました
それについて行く時は余計に楽しく感じました
和田山の一番上に立つと、麦の穂がさわさわとそよいでいました
谷地のずっと向こうに自分の家のあたりが見えました
高度経済成長期は我が家のまわりも急速に開発が進みました
その第一段階は宅地化でした
家の周りの田畑や林が次々とブルドーザでならされあっという間に宅地になりました
ある日突然、我が家の東隣りの松林が切り倒され始めました
その窪地に港湾か河川を浚渫してきたような土砂がダンプカーで大量に運び込まれました
貝殻がたくさん混じったどろりとした土砂は生臭いにおいがしました
おじさんと並んで運転台に座ると、あたりを見下ろすような高さでした
おじさんは何本ものハンドルを巧みに操作しました
一本のハンドルをぐいっと引っ張ると力強く泥をかき分けて前進しました
違うハンドルを引くと今度はぐんぐん後退します
前後左右に思いがけない動きをするたびに体が振られました
ブルドーザはいろんな動きを繰り返し、大きな土山を苦も無く平らにしてしまいました
おじさんは見かけによらず優しく、ブルドーザを思いどおりに操っていてすごいと思いました
ブルドーザで造成されたところに次々と建物が建ちました
ほとんどは木造の平屋、2階家、アパートなどでした
大工のおじさんが、それら建てていく様子を、ぼんやりと見ているのが好きでした
家を建てるには、まずコンクリートで基礎を作ります
基礎とは家の土台や柱をのせる高さ30センチ幅10センチほどの枠です
基礎にする部分に石を敷き、それをランマという機械で強く突き固めます
その上にコンクリートパネルの形枠を組建てて、そこにコンクリートを流し込みます
コンクリートが固まったらパネルをはずし、そのうえに木の土台と柱を組み上げていきます
ある日、家の近くの工事現場でコンクリートの基礎が出来上がりました
夕方であたりに人影がなかったので、基礎のうえを歩いて回りました
基礎が分岐したり合流したりしているところをバランスを取りながら歩くのは楽しい
まるで鉄道の線路の上を走っているようでした
いい調子で歩いていたところ、足を踏み外してしまいました
コンクリートの角に左足のすねの内側を削るように打ちつけてしまったのです
すぐにたくさん血が出てきて痛みが襲ってきたので足を引きずりながら家に帰りました
その時の傷跡は私の足にまだくっきりと残っています
基礎ができあがると、いよいよ楽しみな「建て前」です
建て前の日には大勢の大工さんが来ます
そして、穴や出っ張りが刻まれているたくさんの柱を一斉に基礎の上に組み立てていきます
それらの柱には、いろは文字と漢数字を組み合わせた符号が墨で書かれています
それを目印に大工さんたちは大声をかけ合いながら組み立てます
一日がかりで家の骨格を組み上がります
そしてここからがお楽しみです
組み上げた家の中に板を並べてテーブルとイスをしつらえお祝いの宴会です
その様子を集まってきた近所の大人子供が遠巻きに見ています
頃あいを見て施主はそれらの人々に向かって二階から挨拶します
そしてそこからたくさんの小銭や餅や菓子などをまくのです
すると集まった人々が血相を変えてそれらを取ったり拾ったりします
男の子は野球帽、おばさんは割烹着などを使って少しでも多く取ろうと大騒動になります
小銭はせいぜい十円、五十円玉で、百円玉はめったに入っていません
それでも子供にとってはまたとない機会なので必死になって拾ったものです
建て前が終わったあともお目当てのことがあります
大工さんが現場で出す材木の切れ端です
大工さんは鋸で材木を切り、切れ端を地面にぽとんと落とします
それが地面に落ちると私はそれを拾い、落とした大工さんに貰っていいか尋ねます
「いいよ」と言われたらそれを喜んで家に持ち帰ります
その切れ端を集めて、船や飛行機など自分の好きなものを作りました
家にある大工道具は良く切れない鋸と頭のがくがくする金槌だけです
鋸で手を切ったり、金槌で手をたたいたりして声が出ないほどの痛い思いを何度もしました
それでも大工仕事が楽しくてやめられませんでした
友達の中には野球をしに自転車でくる子がいました
その自転車を見て、どうしても乗ってみたくなりました
あのOさんの黒い自転車以来、自転車に乗ることに憧れていました
持ち主の友達に媚びるようにして乗せてもらいました
もちろん最初はうまく乗れません
友達に後ろ支えてもらい、こわごわペダルを漕ぎます
何回目かに短い距離でした自力で走ることができました
さらに繰り返すともうすいすいと心地よい速さで前に進むことができるようになりました
軽いペダルの回転で、自転車は思いもかけないほどの速さで進みます
そのとき風が頬をなでていく感覚はかつて味わったことのない感動でした
そして、自分もいつかは自転車を買ってもらえたらいいな、と憧れをさらに強化しました
しかし、我が家の当時の経済状況では、それは無理だと小学生の私にもわかっていました
だから、自転車を買ってもらいたい、などとはとても言い出せませんでした
私が子供の時は、いろいろな面で二つ年うえの兄の影響が大きかったようです
そのひとつにアルバイトがります
家計が苦しかったので、私たち兄弟は決まった小遣いは貰えませんでした
ちょっとしたおもちゃを買ったり、買い食いをするのでも、どうしてもお金が必要です
お年玉と年に何度か、何かの風の吹き回しでもらえる小遣いでは、とても足りませんでした
一足先に中学生になった兄が新聞配達のアルバイトを始めることになりました
中学生の友達から聞きつけ新聞配達店に行ったところ、やらせてもらえることになったのです
私はまだ小学生でしたが、自分も兄と同じように新聞配達をやりたいと思いました
それでその新聞配達店に自分をアルバイトとして使ってくれるようお願いに行きました
応対に出てきた人は、小学生としても小柄な私の体つきを見て、ちょっと逡巡した様子でした
それでも余程人手が足りないのか、「使ってやる」と言ってくれました
私の配達区は新聞配達店からすぐのところで、夕刊だけを50軒ほど配りました
いかに小柄な私でも、薄い夕刊の束は軽く、これで毎月500円もらえるのはラッキーでした
新聞配達で得た収入で、太宰治の「走れメロス」の文庫本を買ったのを覚えています
学校の教科書に「走れメロス」の冒頭部分だけが載っていました
この小説を全部読んでみたので近くの本屋で買いました
これが初めて自分で買った本ですが、その後の実家の火災で焼失してしまいました
小遣いと趣味
雨の降った日曜日は家で時間を持て余しました
すると、せいぜい50円か多くて100円でした小遣いを親がくれることがありました
そんな時は家から歩いて10分ほどの小島という駄菓子屋へ傘を差して行きました
この駄菓子屋のおばさんは風変わりでした
子供が店先から「ちょうだいなー」と呼んでも1回で出てきたためしがありませんでした
最低でも5回、多い時には10回呼んでも店に出てきませんでした
私が買ったのはクジのチョコレート、ガム、スモモ、ゼリーなどの食べ物です
ときどき10円のプラスチックモデルも買いました
何を買うか決めるのにいつもとても時間がかかりました
あれにしようか、これにしようかと迷うのが楽しみでもあったのです
駄菓子屋のおばさんはその間待たされるのが嫌でなかなか出てこなかったかもしれません
この駄菓子屋が、私が中学校を卒業する頃に、突然寿司屋に転業したので驚きました
開店から間もなくであたりで一番繁盛した寿司屋になりました
中学生になると駄菓子には興味がなくなりました
成長期に入り、安くてお腹にたまるおやつに金を使うようになりましたタコせんべいとかちびっこラーメンなどです
私は子供の頃から物欲が強かったと思います
小学生の頃、サーキットカーというのが男の子の間ではやりました
その遊び方は、まず自分で気に入った模型のレーシングカーを作るところから始まります
そして作ったものを繁華街の屋内サーキット場へ持って行って走らせるのです
サーキット場でレーシングカーを時間貸しで借りて走らせることもできました
私はサーキットコースへたびたび足を運びました
すごいスピードでコースを周回するレーシングカーにただ見とれていました
見るのはただでしたから
私にはサーキットカーを買うどころか、サーキットカーを借りて走らせる金もなかったのです
サーキットカーの流行は意外に早く下火になりました
その次にはH0ゲージという鉄道模型が私の心をとらえました
H0ゲージの模型は、本物はダイキャスト製でたいへん高価でした
私のような貧乏人の子だけでなく、普通の子にも手が出ないくらいの値段でした
私の組でH0ゲージを走らせるセットを持っているのは、T君1人だった
本物を買えない私にも遊び方はありました
ボール紙に印刷された電車や客車の紙模型を買って組み立てるのです
台車だけはかろうじて金属製をつけて、そして、自分の想像力を最大限に動員するのです
するとそれが本物の模型に勝るとも劣らない、かどうか。。。
丁寧に作ったので紙模型としての出来には満足していました
それでもT君が持っているずっしりとした汽車や特急列車とはくらべものになりません
悲しいかな紙模型はいかにも平面的で、軽く、安っぽかった
ある日T君の家で自分が作った紙模型の列車を走らせてもらいました
それがいとも簡単に何度も脱線してしまうのを見るはつらいことでした
私はこのH0ゲージのことばかり毎日考えている時期がありました
鉄道雑誌に気に入った機関車の写真が載っていると、その側面図を何枚も何枚も書きました
そして、家から片道1時間の東海道線の線路まで行き、通過する列車を飽きずに眺めました
小学校も卒業に近づく頃、今度はモデルガンに興味を持ちました
これも友人が持っているのを見せてもらったのがきっかけでした
重厚な金属製でできていて本物そっくりです
これに火薬を詰めた弾丸を装填し、引き金を引くと、バーンと音がします
そして薬きょうが本体からポンと飛び出てきます
いつかモデルガンを手に入れたいと思っていましたが、それきりになってしまいました
高校生の時に、モデルガンはもう買えないようになる、という報道がありました
モデルガンを使った犯罪が多発したからです
これからは着色し、銃口も埋めたものしか販売できないようになるということでした
これはたいへんだということで、ついにワルサーP38というモデルを手に入れました
結婚したときに、連れ合いが同じモデルを持っていたのでとても驚きました
彼女はスパイ映画の影響を強く受けてモデルガンが欲しくなったようです
これは趣味の話しではありませんが、こんなことがありました
小学校は、学研の「科学」や「学習」という月刊の学習雑誌を希望者に販売していました
値段は1冊三百円ぐらいでしたが、買いたくても買えない子が多数いました
当然ながら私も買えない派でした
「科学」には毎号工作の付録が付いていました
自分には手に入らないものなので、私にはそれがなおさら楽しそうなものに見えました
ある月、わたしは親にだまって「科学」を申し込みました
その号の付録は、ゴム動力で水の上を走らすことができる真っ白いプラスチックの船でした
クラスで先生から受け取り、家に持ち帰えりました
工作は簡単で、すぐに完成しました
その船体に黒マジックでゼブラ模様を描くといかにもかっこいい感じがしました
それを湯舟に浮かべて遊んでいると、母からその船をどうしたのかと尋ねられました
学校に申し込んで買ったので、何月何日にお金を払わなければならないと言いました
すると母はなぜ親に黙って買ったのかと烈火のごとく怒りました
私は、どうしても欲しかったのだ、と言えば分かってくれるだろうと思っていました
しかし母の怒りはぜんぜん収まりませんでした
私はゼブラ模様の船を見つめたまま母の叱責に耐えるしかありませんでした
かっこいいと思っていた船が、急に安っぽく、何の価値もないもののように見えました
クジラのステーキも好きでした
しばらくしょう油につけておき、それを熱いフライパンにのせて焼きます
その時のジューッという音と食欲をそそる香りは、旺盛な食欲をさらに高めました
母は縁が赤く着色されたクジラのベーコンが好きでしたが、これはどうも舌に合いませんでした
季節ごとの食材で作るかわりご飯も好物でした
寒い時期のカキごはん、
3月のタケノコごはん、
夏場にインゲンやシイタケや干瓢をふんだんに入れて作る五目ずし、
秋には栗ごはん。
こうやって母が作ったものを、私たち兄弟は競って食べました
その頃私は自分が食べるものだけに気をとられていました
母の顔色など見る余裕はありませんでした
こんな時の母はどんな表情をしていたのかなと今思います
「霧さん」のおばさんは、その父親の連れ合いです
おばさんは畑仕事で上の畑に来ると、日に2回は我が家に立ち寄りました
母もおばさんが来るのを当たり前のことのようにして待っていました
そして30分か時には1時間以上も茶飲み話に花を咲かせていました
この中でも私はとりわけミョウガに目がありませんでした
天ぷら、汁物、そば・うどんの薬味、漬け物と、ミョウガを使った料理は好きでした
Oさんも野菜を作っていましたが、おばさんの物に較べると質・量ともに見劣りしました
Oさん自身もその奥さんも畑仕事に熱心ではありませんでした
2人の子供が畑仕事を手伝っている様子を見たこともありませんでした
今でも忘れられないのは、Oさんの家の庭での暮れの餅つきです
我が家は総出で手伝いに行きました
Oさんの家と我が家だけでなく、SさんやTさんの家の分もまとめてつきました
朝から庭でドラム缶を半分に切った中に火をおこし、大釜でぐらぐらと湯を沸かしました
その上にセイロを何段も重ねて、もち米をふかします
ふけたものから順々に木の臼と杵で、みんなで交代交代につきます
母やOの奥さんが臼の中の餅をタイミングよく返します
つき上がった餅を木枠に入れて片栗粉をまぶし、のします
この作業を10人ぐらいの流れ作業でやるものだから、ものすごい活気です
はたで見ていても心が躍るようでした
集まった子供たちは、あっちこっちと作業のあんばいを飛んで見て回るのが仕事でした
こうして予定した分が全部つき終ると、こんどはつきたての餅を食べるように調理します
あんこ餅、きなこ餅、からみ餅などにして、みんなでほうばりました
つきたての餅はとても柔らかく、喉につかえさせながらたらふく食べました
Oさんのおじさんは、子供の目から見ても普段の物腰は粗野と言わざるを得ませんでした
それでもとても気前がいいひとでした
自分が気に入った子供には、かなりの額の小遣いをくれました
私たち兄弟はおじさんを、親以外でお年玉をあてにできる人としてメインに考えていました
しかし、おじさんから小遣いを貰うにはひとつだけ耐えなければならないことがありました
おじさんは黙ってぽんと小遣いやお年玉をくれるわけではありませんでした
あげる前にその子をたっぷりとじらしたのです
おじさんは我が家で、「今年お前にお年玉は××円しかあげない」とかいうのでした
「お前は良く手伝ってくれたから△△円あげる」というようなことをそれぞれに言いました
子供がその金額の多寡によって、喜んだり、あるいはすねたりするのを見て、喜ぶのでした
私たちは親から値踏みされることなどまったくありませんでした
なのでおじさんの振る舞いはとても悔しいことでした
それでも小遣いを貰いたいばかりに不躾なもの言いに耐えていたのです
それが小学校も高学年になってくるとそんな屈辱を我慢できなくなりました
おじさんが私たちに非難がましいことを言うとそれに対して反論するようになりました
馬鹿、とんま、百姓、原始人などなど、思いつく限りの悪口をならべました
おじさんはおそらく学校で教育を受けたことがない人でした
何かの書類をしばしば母が代筆していました
字が読めず、書くこともできなかったのです
おじさんは戦後の農地改革の恩恵をこうむって、若干の土地を手に入れることができました
やがて高度経済成長による急速な宅地化の波が横浜の丘陵地帯にも及んできました
するとおじさんは自分の畑を切り売りしてこれまで手にできなかった金を得たのでした
これはおじさんにだけでなくあちらこちらのにわか地主に起こったことでした
私の家(といっても借家だったが)のまわりはこのあたり特有の地形をしていました
窪地には田んぼがあり、その上は林で、丘陵の上は畑になっているところが多いのです
その中で最初に開発が進んだのは、宅地に転用しやすい畑でした
Oさんの家とわたしの家の間の畑がまずつぶされて宅地になりました
さらに、かなり急な斜面だった和田山の麦畑も、切り崩されてひな壇型の宅地になりました
土地を手に入れたいと思っている人が多いので、すぐに売り切れると予想されていました
身内の面倒を良く見る母は、自分の妹夫婦と弟のKさんに和田山の土地を買うことを勧めました
母の熱心な勧めに従い、双方とも買うことに決めました
ひな壇の一番下の公道に面した区画を妹夫婦が、そのすぐ上の区画をKさんが買いました
妹夫婦は土地を買ってから間もなく家を建てました
区画が公道に面していたのでインフラをすぐに引き込めたのです
一方Kさんのほうは公道に面していない区画なので水道がなかなか敷設されませんでした
まだ若く単身の彼はそこにとりあえず小さなプレハブを建てて住み始めました自費で水道を引き込むことも可能でしたが結構な費用がかかるので踏み切れませんでした
生活用水を隣の姉夫婦の所へ行って分けて貰うしかありませんでした
Kさんはこのことがとても気づまりだったらしく、よく「水が無いから」とぼやいていました
母はKさんに、「しばらくの我慢だよ」、と諭していました
しかしKさんは間もなくこの土地を手放してしまいました
Oさんのバブル
Oさんが私たちに気前よく小遣いをくれたのは、土地を売って大金を得たからでした
Oさん自身も、テレビや冷蔵庫、ステレオなど、いろいろな家電品を買い込みました
自分の息子に軽自動車を買い与えたりもしました
我が家とOさんの家までは直線距離で100メートルほど離れていました
Oさんが家でレコードを聴き始めると音が我が家まで聞こえました
大音量で流す音がボォーン、ボォーンと鳴り響いてくるのです
Oさんはその双眼鏡で何かを見たり、ラジオで何かを聞いたりはしません
ただ自分はこんな物を持っていると見せて歩いているだけなのです
Oさんは土地を売って得たお金をどう使うか考えていたようでした
そして自分の土地にアパートを建てることにしました
農家がアパート経営をすること自体は珍しいことではありません
土地を売って金がありさらに土地がまだあるのですから
Oさんの場合はアパートの建て方がちょっと変わっていました
ある日小学校から帰ってくると、我が家の近くの道路が大変なことになっていました
道幅いっぱいの大型トラックが何台も、大量の材木を積んでやってきたのです
トラックは何度もハンドルを切り返してOさんの家のほうへ降りて行きました
そして畑を更地にしたアパートの建設予定地に材木を積み下ろして帰って行きました
この材木はOさんが秋田の建材店から買ったものでした
その頃父の勤めていた運送会社に、秋田からKさんという人が出稼ぎに来ていました
父はKさんと懇意になり、正月に私は兄とKさんの家に遊びに行きました
それが建材のこととどのように関係していたのかは知りません
ともかくOさんはKさんのつてで秋田から大量の杉材をかったのです
運んできたトラックの台数分くらいの材木の山にそれぞれ黒いシートがかけられました
材料は来ましたが、いつまでたってもなぜかアパートの建設は始まりませんでした
普通は建築会社と契約して建築を依頼します
すると建築会社は施主の意向にそって設計し、材料を調達して、大工が建てます
ところがOさんはまず材料の材木を大量に買い、それから建築会社を探そうとしたのです
それがOさんのアパート建築を困難なものにしてしまいました
なぜ困難になったのでしょうか
自分が食べる分の食材を持ち込んできた客に値引きをする食堂は稀でしょう
持ち込んだ材木でアパートを建ててくれる建築会社などそうあるものではありません
さて材木にかけられた黒いシートの下には子供が通り抜けられるほどの隙間がありました
こっそりそこにと入ると秋田杉のいい香りがしました
間もなくそこは子供たちが隠れん坊などをして遊ぶ格好の場所になりました
Oさんのアパートを建てる会社はなかなか決まりませんでした
積まれたままの材木はフレッシュな香りを失っていきました
梅雨や台風の時には積んだ材木の下に雨が流れ込みました
夏の熱気でシートの中には猛烈な湿気がこもりました
黒いシートの下はとてもカビ臭くなったので子供たちはそこで遊ばなくなりました
材木が運ばれてきてから1年以上たち、ようやくシートが外されることになりましました
アパートを建て始めることになったのです
Oさんのアパート建築にはいろんな人が加わりました
父はもともと土建の経験があったので基礎づくりから手伝いました
それに、近所の在日のKさんや農家のIさんも声をかけられて手伝うことになりました
この頃、私たちの従兄のTが我が家に居候をしていました
東北での生活が面白くなくて、家を飛び出してきたのです
毎日ヒマにしていたので、このアパート作りを手伝うことになりました
兄は中学の夏休みに手伝うことになりましたが、小学生の私は員数外でした
私はまだ体が小さいので本格的な手伝いは無理と判断されたのです
最初の仕事は、アパートの建設地の中央に積まれた材木を移動させることでした
一年以上も積みっぱなしにしていた材木が相当に傷んでいることは分かっていました
覚悟のうえで黒いシートをはがしてみると、その傷み方は想像以上でした
地面の湿気をまともに吸い上げた下の部分はとくにひどい状況です
板が腐って原型をとどめていなかったり、柱全体が虫に食われたりしています
そこまでいかなくても黒いカビが出てしまい使い物にならない材木がたくさんありました
これらの材木は廃棄する以外にありませんでした
ここに運ばれてきた材木の3分の1は使われることなく土に還ったのではないかと思います
私は作業要員には加われなかったものの、その様子はよく見ていました
離れたところから作業現場を眺めていると作業する人の動きがよくわかります
そして廃材の処理作業が終わるころには人によって働き方が違うことが分かりました
Tと兄は何か競い合うように力を惜しまず懸命に働いていました
父とIさんはマイペースで、Kさんは口数が多い割には体があまり動いていませんでした
廃材の処理が終わっていよいよ本格的にアパートの建築が始まりました
夏休みなので私は毎日のように現場へ行って作業を見ていました
10時と3時の休憩には冷えたスイカなどがどっさり出るので楽しみでした
作業はしていなくともおやつは当然のように食べました
秋になりアパートの基礎ができてきました
その様子を時々見に来ていたOさんの様子が変でした
お便所にしゃがむようにして、たばこを吸いながら、力のない目で現場を見ています
それからしばらくして、Oさんに胃がんが見つかったと父母が話していました
建て前の頃、Oさんはとうとう床についてしまいました
ほどなく近くの入院しなければならないほどの重体になりました
一度母と見舞いに行くとげっそりと痩せ、言葉少なにベットに寝ていました
Oさんのアパートの建て前はにぎやかに行われました
紅白の餅や小銭が沢山ばらまかれました
近所の人たちが我先にそれを取ろうと押し合いへし合いしました
いつもの建て前と同じ大騒ぎでしたが、そこに施主であるOさんの姿はありませんでした
もしここにOさんがいてこの騒ぎを見たら、きっと大得意になったでしょう
Oさんのことを知る近所の人たちはきっと皆そう思ったにちがいありません
おじさんはアパートの完成を見ることなく、間もなく他界してしまいました
お椀の中には見たことのない細長い魚のブツ切りのようなものが入っていました
これはなんだろうと見ているとKさんが「食え」と言うので仕方なく食べてみました
なんだかニワトリの首のように骨ばっていてあまり食べるところがありませんでした
それが青大将だということを食べ終わった後にKさんから知らされました
気味悪がる私を見てKさんは大笑いし、「万上」という焼酎をあおりました
それからギターをかきならし、へんてこな英語の歌を大声で歌い始めました
新聞の折り込みに映画館の割引券が入っていると、よくそれを使って見に行きました
一番近い映画館は、歩いて1時間、電車を使うと30分の、天王町にあるライオン座でした
そこでは主に怪獣映画や若大将シリーズなどを3本立てや4本立てで上映していました
割引の子供料金で100円ぐらいだったので、とても人気がありました
学校が休みに入った時は特に盛況で、入場待ちの列が映画館をぐるりと囲んでしまうほどでした
どんなに混んでも入場制限などありませんでした
映画館は入場券を買いたい人すべてに売りました
券を買った人は混んでいてもなんとか入場しようとしました
人気の映画を上映する時も、館内は通路も身動きが取れないほどのすし詰め状態になりました
立ち見の時は背が低い私はスクリーンさえ見えません
しばらくするともうぐったり疲れてしまい、姉とともに先に家に帰りました
こんな時でも兄はしぶとく最後までねばって見て帰ってきました
プールへ行く
夏休みのあいだは、あちこちの公営プールへ行くのが楽しみでした
一般家庭には冷房の無い時代でしたから、涼むには水遊びをするしかありません
川の水はひどく汚染されているので、涼みに行く対象にはなりませんでした
公営プールはいずれも家から歩いて30分ほどかかりました
暑い日照りの道を歩いて行くのです
プールにつく頃には汗だくになって、朦朧としてしまうようなことが良くありました。
プールの入り口わきの道端に並んでいる屋台でおでんや焼きそばを買い食いするのです
少しばかりお腹を満たしてから、また暑い太陽のもとを歩いて家まで帰るのです
家に着く頃にはまた汗でぐっしょりになって、へとへとにくたびれいるのが常でした
このようにして夏休みの間は足繁くプールに通いました
そして夏の終わりにプール病になってしまう年もありました
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