2025年11月20日木曜日

つぶやきのクリーム 森博嗣

森博嗣はこのように書いています
本当のプライドを持っている人は、プライドを懸けたりしない。
プライドという言葉は、かなり幅広い意味に使われている。多くの場合、それは単なる負けず嫌いだったり、騙りだったりして、僕としては、そういうのは「自信のなさによる防御」としてしか認識できない。プライドというものとは違うように感じる。でも、表向きは同じように捉えられている。たとえば、「お高くとまっている」のを、プライドとして表現する場合も多い。それは違うだろう、と思うのだが。
プライドというのは、自身に対して誇りを持つことだ。しかし、それを表に出すことではない。つまり、周囲に自分を誇ること(自慢)ではない。日本語では、自尊、自負という言葉がたぶん近いだろう。ようするに、誇る相手は他者ではなく自分なのである。
となると、よく聞かれる「プライドを懸けて」という表現が成り立たない。プライドが外向であれば、「もし失敗したときには、世間からの尊敬が得られなくなる」という結果を想定して、それを懸けることになる。しかし、プライドが内向であるなら、そもそも成功しょうが失敗しようが、自分の中の問題である。自分自身に対して懸ける必要などない。失敗すれば自信は小さくなるが、それは懸けても懸けなくても同じである。
また、「プライドが傷つけられた」という言葉も、どうもしっくりこない。どうやったらプライドが傷つくのか。たとえば、悪口を言われて傷つくようなものでは本来ないはずだ。もし、そんなことで傷つくとしたら、そんなものはプライドではない。その程度のものをプライドだと認識しているとしたら、どうかしていると思う。
プライドは持っていた方が良い。というか、自分に忠実に生きていれば、自ずとプライドは築かれる。生きていること自体が、プライドを構築するといっても良い。極端な話をすれば、プライドがなければ、人間は死んでしまうのではないか、とも思える。自分を騙し続けることはけっこう難しく、いずれ破綻するだろう。
プライドというのは、能力とは無関係である。それぞれの能力に見合った道や目標がある。それらを自分で選び、自力で歩くことで築かれるわけで、他者との比較や、他者の評価も無関係だ。
人間にとって、もっとも嬉しいのは、自分で自分を褒められる状況に至ることだろう。他者に褒められても嬉しいが、それは、他者に褒められる自分を目指していたからであって、やはり最終的には自分が自分を褒める。目標はそこにある。

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