2022年4月21日木曜日

『読書と人生』三木 清

この本を読みつつ絶えず頭に浮かんだことがありました
三木清のような知性を逮捕拘禁して獄死せしめたことの罪深さです
読書についての綺羅星のような三木の文に接するとその思いが一入です

 先ず必要なことは、哲学に関する種々の知識を詰め込むことではなくて、哲学的精神に触れる ことである。これは概論書を読むよりももっと大切なことである。そしてそれにはどうしても第一流の哲学者の書いたものを読まなければならぬ。

そのためにあまり難解でなくて誰にも勧めたいものを一二挙げてみると、さしあたりブラトンの対話篇がある。そのいくつかは既に日本訳が出来ており、英語の読める人ならジョーエットの飜訳がある。プラトンの対話篇は文学としても最上級のものと認められている。近代のものでは何よりもデカルトの『方法叙説』を挙げたい。これもまた哲学的精神を摑むために繰返し読まるべきものであり、フランスの文学にも影響を与えた作品である。もし日本人の書いたものを挙げよといわれるなら、私はやはり西田先生の書物を挙げようと思う。

 もちろん古典であるなら、どのようなものでも、そこに哲学的精神に触れることができる。古 典を読む意味、解説書でなくて原典を読む意味は、何よりもこの哲学的精神に触れるところにある。精神とは純粋なもの、正銘のものということができるであろう。美術の鑑定家は、正銘のもの、真正のものを多く見ることによって眼を養い、直ちに作品の真偽、良否を識別することがで きるようになるのであるが、同じように書物の良否を判断する力を得るためには、絶えず古典即ち純粋なものに接してゆかなければならぬ。書物の良否の本来の基準はこのように、純粋である か否か、根源的であるか否か、精神があるか否かというところに存するのである。もしそれが単に役に立つか否かということであるとすれば、書物の良否というものは相対的であって、絶対に良いといい得るものもなく、絶対に悪いといい得るものもない。或る人にとっては良書であるものも、他の人にとっては悪書であり得る。全く役に立たぬように見える書物から、才能のある人なら、役に立つものを見出してくることができるであろう。読書の楽しみは、このように発見的であることによって高まるのである。P68


 哲学はもちろん科学と同じではない。しかし哲学は科学によって媒介されねばならぬ。科学を万能と考えるのではない。そのように考える人には哲学は不要であろう。無条件に科学を信じている者はすぐれた科学者になることもできないであろう。科学的知識を絶対的なもののように考えるのはむしろ素人のことであって、真の科学者は却ってつねに批判的であり、懐疑的でさえあるといわれるであろう。少くとも科学を疑うとか、その限界を考えるとかいうところから料学は出てくる。しかしながら懐疑というのは、物の外にいて、それを疑ってみたり、その限界を考えてみたりすることではない。かくの如きは真の懐疑でなくて、感傷というものである。懐疑と感傷とを区別しなければならぬ。感傷が物の外にあって眺めているのに反し、真の懐疑はどこまでも深く物の中に入ってゆくのである。これは学問においても人生においてもそうである。容易に科学の限界を口にする者はまた無造作に何等かの哲学を絶対化するものである。感傷は独断に陥り易い。哲学はむしろ懐疑から出立するのである。そのような懐疑が如何に感傷から遠いものであるかを知るために、既に記したデカルトの『方法叙説』を、或いはまた懐疑論者と称せられるヒュームの『人性論』を、或いは更にモンテーニュの『エセー(随想録)』を読んでみるのも、有益であろう。P76

 古来読書の法について書いた人は殆どすべて濫読を戒めている。多くの本を濫りに読むことをしないで、一冊の本を繰り返して読むようにしなければならぬと教えている。それは、疑いもなく真理である。けれどもそれは、ちょうど老人が自分の過去のあやまちを振り返りながら後に来る者が再び同じあやまちをしないようにと青年に対して与える教訓に似ている。かような教訓には善い意志と正しい智慧とが含まれているであろう。しかしながら老人の教訓を忠実に守るに止まるような青年は、進歩的な、独創的なところの乏しい青年である。昔からおなじ教訓が絶えず繰り返されてきたにも拘らず、人類は絶えず同じ誤謬を繰り返しているのである。例えば、恋愛の危険については古来幾度となく諭されている。けれども青年はつねにかように危険な恋愛に身を委ねることをやめないのであって、そのために身を滅す者も絶えないではないか。あやまちをなす ことを恐れている者は何も摑むことができぬ。人生は冒険である。恥ずべきことは、 誤謬を犯すということよりも寧ろ自分の犯した誤謬から何物をも学び取ることができないということである。力する限りひとはあやまつ。誤謬は人生にとって飛躍的な発展の契機ともなることができる。それ故に神もしくは自然は、老人の経験に基く多くの確かに有益な教訓が存するにも拘らず、青年が自分自身でつねに再び新たに始めるように仕組んでいるのである。だからといって、もちろん、先に行く者の与える教訓が後に来る者にとって決して無意味であるというのではない。そこに人生の不思議と面白さとがあるのである。読書における濫読も同様の関係にある。濫読を戒めるのは大切なことである。しかしひとは濫読の危険を通じて自分の気質に適した読書法に達することができる。一冊の本を精読せよと云われても、特に自分に必要な一冊が果たして何であるかは、多く読んでみなくては分らないではないか。古典を読めと云われても、すでにその 古典が東西古今に亙って数多く存在し、しかも新しいものを知っていなくては古典の新しい意味を発見することも不可能であろう。読書は先ず濫読から始まるのが普通である。しかしいつまでも濫読のうちに止まっていることは好くない。真の読書家は殆どみな濫読から始めている。 しかし濫読から抜け出すことのできない者は真の読書家になることができぬ。濫読はそれから脱却するための濫読であることによって意味を有するのである。P98


 一つの国語はその民族の精神の現れであり、その思想の蓄積であるということができる。P105

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