2022年4月29日金曜日

海外旅のロジ 出発1か月前

海外第一夜の宿泊先を予約する

空港から近くて安い
空港からシャトルバスで行ける
宿で自転車の組み立てを気兼ねなくできる
当日まで宿泊をキャンセルできる
友人宅で第一夜を迎えられれば最高です



2022年4月27日水曜日

差し茅 二日目

 昨日からの雨がまだ降り続いています

茅場の茅はびしょ濡れなので今日は茅拵えはできません
昨年の残りの茅を使って差し茅をすることにしました

まずは屋根に掛けたシートを足場まで引き寄せて雨に濡れないで作業できるようにしました
つぎに茅を足場に担ぎ上げて差し茅を始めました

まず古い茅を引き出します
軒端の茅は全力で引かないと出てきません
茅を引き出していた右手の指先に痛みが走りました
茅の間で冬眠していた蜂に刺されたのです
針を吸い出すと間もなく痛みは鎮まりました
すぐに左手も刺されたので薄い手袋からゴム引きの厚いものに替えました

上の方にいくにつれ茅は楽に引き出せるようになりました
とりあえず軒端から150㎝ほどの高さまで引き出しました
午前中で7束の茅を差しました
午後は8束で今日一日で15束を差しました
最後にもう一度引き出して長さをそろえ始めたところで今日の作業は終了です


2022年4月26日火曜日

差し茅 一日目つづき

一入亭から最も近いアメダス観測地点の小出の積雪が4月12日に0㎝になりました

例年それから2週間ほどで一入亭の周りの雪も消えます

そうすると一入亭の差し茅修理の始まりです
今年は正面の左半分に差し茅することにしました

差し茅をするにはまず茅拵えと足場建てをします
茅拵えには2日、足場建てには半日かかります

今日は午後から雨が降る予報なので午前中にまず足場を建てることにしました
修理する箇所が濡れないようシートを掛けてあります
足場を建てるのもこれで6回目になりました
要領をすっかり覚え材料も道具も揃っているので3時間で出来上がりました

今回は足場の外側に茅置き場も作りました
昼過ぎから雨が降ってきたので家の周りの雪囲い板を撤収しました
裏の鯉の池からは終日カエルの歌が聞こえてきます

差し茅 一日目

一入亭から最も近いアメダス観測地点の小出の積雪が4月12日に0㎝になりました
例年それから2週間ほどで一入亭の周りの雪も消えます

そうすると一入亭の差し茅修理の始まりです
今年は正面の左半分に差し茅することにしました

差し茅をするにはまず茅拵えと足場建てをします
茅拵えには2日、足場建てには半日かかります

今日は午後から雨が降る予報なので午前中にまず足場を建てることにしました
修理する箇所が濡れないようシートを掛けてあります
足場を建てるのもこれで6回目になりました
要領をすっかり覚え材料も道具も揃っているので3時間で出来上がりました

今回は足場の外側に茅置き場も作りました
昼過ぎから雨が降ってきたので家の周りの雪囲い板を撤収しました
裏の鯉の池からは終日カエルの歌が聞こえてきます

 

2022年4月21日木曜日

『読書と人生』三木 清

この本を読みつつ絶えず頭に浮かんだことがありました
三木清のような知性を逮捕拘禁して獄死せしめたことの罪深さです
読書についての綺羅星のような三木の文に接するとその思いが一入です

 先ず必要なことは、哲学に関する種々の知識を詰め込むことではなくて、哲学的精神に触れる ことである。これは概論書を読むよりももっと大切なことである。そしてそれにはどうしても第一流の哲学者の書いたものを読まなければならぬ。

そのためにあまり難解でなくて誰にも勧めたいものを一二挙げてみると、さしあたりブラトンの対話篇がある。そのいくつかは既に日本訳が出来ており、英語の読める人ならジョーエットの飜訳がある。プラトンの対話篇は文学としても最上級のものと認められている。近代のものでは何よりもデカルトの『方法叙説』を挙げたい。これもまた哲学的精神を摑むために繰返し読まるべきものであり、フランスの文学にも影響を与えた作品である。もし日本人の書いたものを挙げよといわれるなら、私はやはり西田先生の書物を挙げようと思う。

 もちろん古典であるなら、どのようなものでも、そこに哲学的精神に触れることができる。古 典を読む意味、解説書でなくて原典を読む意味は、何よりもこの哲学的精神に触れるところにある。精神とは純粋なもの、正銘のものということができるであろう。美術の鑑定家は、正銘のもの、真正のものを多く見ることによって眼を養い、直ちに作品の真偽、良否を識別することがで きるようになるのであるが、同じように書物の良否を判断する力を得るためには、絶えず古典即ち純粋なものに接してゆかなければならぬ。書物の良否の本来の基準はこのように、純粋である か否か、根源的であるか否か、精神があるか否かというところに存するのである。もしそれが単に役に立つか否かということであるとすれば、書物の良否というものは相対的であって、絶対に良いといい得るものもなく、絶対に悪いといい得るものもない。或る人にとっては良書であるものも、他の人にとっては悪書であり得る。全く役に立たぬように見える書物から、才能のある人なら、役に立つものを見出してくることができるであろう。読書の楽しみは、このように発見的であることによって高まるのである。P68


 哲学はもちろん科学と同じではない。しかし哲学は科学によって媒介されねばならぬ。科学を万能と考えるのではない。そのように考える人には哲学は不要であろう。無条件に科学を信じている者はすぐれた科学者になることもできないであろう。科学的知識を絶対的なもののように考えるのはむしろ素人のことであって、真の科学者は却ってつねに批判的であり、懐疑的でさえあるといわれるであろう。少くとも科学を疑うとか、その限界を考えるとかいうところから料学は出てくる。しかしながら懐疑というのは、物の外にいて、それを疑ってみたり、その限界を考えてみたりすることではない。かくの如きは真の懐疑でなくて、感傷というものである。懐疑と感傷とを区別しなければならぬ。感傷が物の外にあって眺めているのに反し、真の懐疑はどこまでも深く物の中に入ってゆくのである。これは学問においても人生においてもそうである。容易に科学の限界を口にする者はまた無造作に何等かの哲学を絶対化するものである。感傷は独断に陥り易い。哲学はむしろ懐疑から出立するのである。そのような懐疑が如何に感傷から遠いものであるかを知るために、既に記したデカルトの『方法叙説』を、或いはまた懐疑論者と称せられるヒュームの『人性論』を、或いは更にモンテーニュの『エセー(随想録)』を読んでみるのも、有益であろう。P76

 古来読書の法について書いた人は殆どすべて濫読を戒めている。多くの本を濫りに読むことをしないで、一冊の本を繰り返して読むようにしなければならぬと教えている。それは、疑いもなく真理である。けれどもそれは、ちょうど老人が自分の過去のあやまちを振り返りながら後に来る者が再び同じあやまちをしないようにと青年に対して与える教訓に似ている。かような教訓には善い意志と正しい智慧とが含まれているであろう。しかしながら老人の教訓を忠実に守るに止まるような青年は、進歩的な、独創的なところの乏しい青年である。昔からおなじ教訓が絶えず繰り返されてきたにも拘らず、人類は絶えず同じ誤謬を繰り返しているのである。例えば、恋愛の危険については古来幾度となく諭されている。けれども青年はつねにかように危険な恋愛に身を委ねることをやめないのであって、そのために身を滅す者も絶えないではないか。あやまちをなす ことを恐れている者は何も摑むことができぬ。人生は冒険である。恥ずべきことは、 誤謬を犯すということよりも寧ろ自分の犯した誤謬から何物をも学び取ることができないということである。力する限りひとはあやまつ。誤謬は人生にとって飛躍的な発展の契機ともなることができる。それ故に神もしくは自然は、老人の経験に基く多くの確かに有益な教訓が存するにも拘らず、青年が自分自身でつねに再び新たに始めるように仕組んでいるのである。だからといって、もちろん、先に行く者の与える教訓が後に来る者にとって決して無意味であるというのではない。そこに人生の不思議と面白さとがあるのである。読書における濫読も同様の関係にある。濫読を戒めるのは大切なことである。しかしひとは濫読の危険を通じて自分の気質に適した読書法に達することができる。一冊の本を精読せよと云われても、特に自分に必要な一冊が果たして何であるかは、多く読んでみなくては分らないではないか。古典を読めと云われても、すでにその 古典が東西古今に亙って数多く存在し、しかも新しいものを知っていなくては古典の新しい意味を発見することも不可能であろう。読書は先ず濫読から始まるのが普通である。しかしいつまでも濫読のうちに止まっていることは好くない。真の読書家は殆どみな濫読から始めている。 しかし濫読から抜け出すことのできない者は真の読書家になることができぬ。濫読はそれから脱却するための濫読であることによって意味を有するのである。P98


 一つの国語はその民族の精神の現れであり、その思想の蓄積であるということができる。P105

2022年4月15日金曜日

『石垣りん詩集』 伊藤比呂美 編

表札


自分の住むところには 

自分で表札を出すにかぎる。


自分の寝泊りする場所に 

他人がかけてくれる表札は 

いつもろくなことはない。


病院へ入院したら

病室の名札には石垣りん様と 

様が付いた。


旅館に泊っても 

部屋の外に名前は出ないが 

やがて焼場の罐にはいると 

とじた扉の上に 

石垣りん殿と札が下がるだろう 

そのとき私がこばめるか?


様も

殿も

付いてはいけない、

自分の住むところには

自分の手で表札をかけるに限る。


精神の在り場所も

ハタから表札をかけられてはならない

石垣りん

それでよい。



貧しい町


一日働いて帰ってくる、

 家の近くのお惣菜屋の店先きは 

客もとだえて

売れ残りのてんぷらなどが 

棚の上にまばらに残っている。


そのように

私の手もとにも

自分の時間、が少しばかり 

残されている。 

疲れた 元気のない時間、 

熱のさめたてんぷらのような時間。


お惣菜屋の家族は 

今日も店の売れ残りで 

夕食の膳をかこむ。 

私もくたぶれた時間を食べて

自分の糧にする。


それにしても、 

私の売り渡した

一日のうち最も良い部分、 

生きのいい時間、 

それらを買って行った昼間の客は 

今頃どうしているだろう。 

町はすっかり夜である。



定年


ある日 

会社がいった。 

「あしたからこなくていいよ」


人間は黙っていた。 

人間には人間のことばしかなかったから。


会社の耳には 

会社のことばしか通じなかったから。


人間はつぶやいた。

「そんなこといって! 

もう四十年も働いて来たんですよ」


人間の耳は

会社のことばをよく聞き分けてきたから。

会社が次にいうことばを知っていたから。


「あきらめるしかないな」 

人間はボソボソつぶやいた。


たしかに 

はいった時から

相手は会社、だった。 

人間なんていやしなかった。



花のことば


昔々 立身出世という言葉がありました。


それはどういうことですか


意味はさっぱりわかりません 

咲いている花が 尚その上にお化粧することを考えた 

そんな時代の言葉です。


しあわせなことに私たち 

唯 咲くことに一生懸命 

いのちかたむけて ひらくばかりの私たち。



いくさの季節


爆弾が炸裂して 

人間の顔や手足がちぎれ飛び 

血がどろどろと流れ出るような 

そんな報道から

鼻をつまみたくなるような 

臭気が発散しはじめると 

わきが病みが 

夏、自分のからだに 

香水をふりかけるように 

あわてて天使だの 

勇士、だのと書きたてる、 

ああ あの安香水の

ふんぷんたる季節が

すぐ、そこに来た。




シロや 

シロや 

私はお前が好きだ。 

この隣家の犬 

責任のない愛の身軽さよ 

その身軽さが飛びついてくるようだ。


シロ、

お前のよごれた足をかかえ 

おお

愛はこんなのでよい 

こんなのでたくさんだ、と思う


家は重すぎる 

いかにも重すぎる。


2022年4月4日月曜日

『真説 日本左翼史』池上 彰 佐藤 優

現代日本の政治舞台で左翼はすっかり低調になっています
わたしが育った時代は左翼とのつながりは切っても切れないものでした

小学校高学年の時のクラス担任は背広に日本社会党のバッチを付けて授業をしていました
矢印が上を向いたようなデザインのものです
今でもそんなことを覚えているのはそのバッチが何か先生に尋ねたからでしょう

高校の時の部活の顧問は共産党を支持していました
もちろん生徒にそのことを話したりはしませんでしたがそれは分かりました

これらの教員は教育に熱心でしたのでそれに触発された生徒も多くいました
わたしもその一人だと思います

行った大学は新左翼の拠点校でほとんどの学生自治会の実権を握っていました
語学の授業中にドヤドヤと教室に押しかけてきては自分たちの意見を主張しました
学生運動への勧誘もしつこく受けましたが拒否しました

このようなことがあったので日本の左翼の歴史を確かめたいと思いこの本を読みました
その結果いちばん心に残ったのは左翼のことではなくロシアのことでした
ウクライナへの侵略がなぜ起こったのか佐藤優さんが明快に述べています

「ロシア人は国境を「線」ではなく「面」でとらえており、地図上に引かれた線が自分たちと他国を物理的に隔てているとは全く思っていません。そういう観点からしてみれば他国との間に線的な国境が引かれていようと安心できないので、国境の外側で「何か」が起きた際に軍事展開ができる緩衝地帯(バッファー)を欲しがるのですね」