2022年3月5日土曜日

『さよなら、男社会』 尹 雄大


「社会と聞けば、歪みはあるかもしれないけれど、社会という無色の空間が広がっていると何気なしに思っていしまう。彼女たちにとって社会とはそんな透明性の高いものではなく、目前に感じているのはいつだって『男社会』に他ならない。なのに男にはそれが『社会』としてしか見えていない」018

「マジョリティであることを疑いもせずにすくすく育ってきたのならば、自分の感性を育てた環境が当たり前に過ぎて、目を凝らさない限り『(男)社会』の(男)の部分が見えない。だから『(男)社会=社会』と思えるわけだ」025

「けれども、その挑戦とは何かといえば、本当に新しい未知の事柄に向けてではなく、あくまで与えられた課題や試練に対してだった。・・・自分には現状のやり方が合わないから、違う方法で行おうとすれば『普通はそんなことはしない』と独自の判断に基づく行為はワガママだと退けられた。僕らは物事を『正しく』理解することを求められるだけだった。独自の判断は逸脱だとみなされる中で、次第に自分の感性を粉砕するように努力していた」053

「隣人と対等に付き合う関係においては、いたわりやケアは欠かせない。一方的に察してもらったりするのではなく、自分を開示する必要があるからだ。『僕はこう思っているのだが、あなたはどのように感じているのか』と率直に尋ねるとすれば、肩書などの属性の持つ力を誇示しない、飾り立てない自分として相手の前にいる必要がある。その上で落ち着いて話そうとすれば、互いのいまの自分の気持ちや感情、感覚を素直に伝えることから始めなくてはならないだろう」066

「自分とは全く違う生き方に出会ったとする。自分はその人ではないし、同じような人生を歩むことはできないから、当人の経験の意義は他人にはわからない。だとしてもその人の来し方、考えをジャッジすることなく、異なる立場に触れて沸き起こる感覚を味わうという体験はできるはずだ。マジョリティには、そういう感覚的体験が不足している」067

「家族というものが、親の抱く葛藤のストーリーに子供を巻き込む仕掛けでしか成り立たないのなら、何のために家族という形態を続けるのだろう。子供は親を選んで生まれたわけではなく、与えられた環境の中で生きるしかない。ある意味では子供は誰もがサバイバーなのかもしれない」095

「戦後のドラマやコミックは『頑固一徹』という非常に類型的な父親像を繰り返し描いた。感情表現が苦手。寡黙であったかと思うと激昂してすぐに殴る。怒鳴る。あれは不器用なのではなく、PTSD(心的外傷後ストレス障害)なのではないか。平和の訪れた時代であっても息子たちはPTSDを起因とする暴力を帯同した振る舞いを男性性として受け取ってしまったのではないか。その男性性には戦争という癒えることのない、圧倒的な暴力の記憶が刻み付けられているのではなかったろうか」097

「戦争を領導したエネルギーは、戦後の経済活動においても脈々と保たれていた。高度経済成長期には組織に忠誠を誓い、滅私奉公で働く社員を『モーレツ社員』と呼んだ。八十年代のバブル期において、栄養ドリンクのCMは『二十四時間戦えますか』と呼びかけた。まるで動員であった。過労死は今般の玉砕だ。すべてが戦いのアナロジーであったことに男たちは気づいていたのだろうか。
 娯楽であるはずのスポーツにおいても、かつての戦争と同じく、勝利を度外視した根性と忍耐の精神主義が幅を利かせた」102

「僕たちは強化することで一人前のふりをして格好つけてきた。それは男社会を遊泳するには役立ったかもしれない。だが、その有用性は個人として彼女たちと向き合ったとき、いまや何かと足りていないし、物の役に立たない。社会をより良くするというスケールの話をする以前の問題だ。目の前の人が『何を思っているのか』に思いを致すのではなく、『自分の知りたいことを聞き出す』をまず優先させるような、人と関わる上でのでたらめを自らに許す配慮のなさを知的好奇心だと思えてしまう、それくらいの拙劣さが等身大なのだとはっきり認めなくてはいけない」178

「たとえば異文化の人間と出会えば、僕らはどういうふうに接するだろうか。共通の言葉がない状態では、ともにマイノリティだ。身振り手振りを交え時間をかけて互いにわかろうと努めるしかない。そこで痛感するのは、普段当たり前だと思っている言葉を用いた理解は、他者を知る上でほんの一部に過ぎないということだ。言葉以外の理解で迫らないとコミュニケーションはできない」188


小中学生の時は社会科が得意科目でした
山や川だけでなく街も田舎も好きだったからです
暗記すれば試験でいい点数が取れるのも性に合っていました

高校を卒業したあと大学へ行くことにしました
志望分野は社会学部とか社会学科とかともかく「社会」が付くところでした
それほど社会という言葉が好きだったのです

早稲田大学の社会科学部社会科学科というところに入学しました
入ってから自分がやりたかった学問分野とちょっと違うかなと思いました
それでもいまさら仕方がないので勉強して卒業しました

卒業後は早稲田大学の職員になりました
子どもの頃にあれほど好きだった『社会』の一員になったわけです
ところがそこはあまり居心地の良くないところでした

それがいったいなぜだったのか
何が原因でそのように気づまりであったのかずっと分かりませんでした
分からないままにつまずいたり転んだりしながら40年ほど『社会』人をしました

その七転八倒の多くは『男社会』に居たことと自分が男であることに起因していたのでした
遠ざかりたいと思っても『男社会』はまとわりついてきたのです
自らも男であることを前提に『社会』人をしていたのです
組織に属している限り『男社会』とは縁が切れなかったのでした

いまから6年前にその組織を退職しました
もう「男社会」から永遠におさらばしようと思いました

退職後はいちどもそこへは行っていません
けれどもそので働いている自分がいまでも夢に出てきます
けっしていい気持ちはしません

「男社会」を離れてからはそこに自分を合わせよなくて良くなりました
経済生活は倹約的になりつつ身体と精神はずっと健康になりました

家族関係はこころの痛いことばかりです

いまはまたドミニクとヨーロッパを自転車旅するのを楽しみにしています


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