1980年3月31日月曜日

大学での勉学 1975年4月1日~1980年3月31日

 わたしは将来高校の社会科教師になりたいと思って大学への入学を目指した。大学受験に一度失敗して浪人生をしている間に高校教師になる夢は早くも冷めてきた。浪人生活を支えるために新聞配達をして、新聞をよく読むようになったことが影響して、むしろ新聞記者になりたいと考えるようになった。

 このように自分の将来像がぐらついてきたので、わたしの大学での勉学は腰の定まらないものになった。大学の授業科目はそれぞれがいろいろな方向を目指したものであって、どこかに焦点を絞るのはなかなか難しい。

 そのような中だったが、大学三年から専門演習、いわゆるゼミとして小林茂教授の「日本資本主義の農業問題」に決めることができた。小林先生は整然とした授業をしていた。板書が、図表も含めて、きれいで説明が分かりやすかった。こういう教師のゼミであればさぞ楽しく学べるのではないかと思った。

 ゼミを選択する基準は学生によりさまざまである。学生に人気のあるゼミは、勉学の負担が軽く、いい就職先が見つかりやすいゼミである。その点からいうと小林先生のゼミは学生に人気のないゼミだった。わたしにはそのようなことはあまり関係なかった。

 わたしが5年間の学生生活でもっとも集中して勉強したのはこのゼミでだった。小林先生が認めたテーマについて、400字詰め原稿用紙50枚の論文を3年生と4年生の終わりにそれぞれ提出することになっていた。それまでそんなに長い論文を書いたことがなかったので、それを書き上げるのはきついことだった。



トヨタ・クラウン

 わたしは大学3年の夏休みに自動車の運転免許をとった。そうすると自動車を運転したくなった。そんな時、職場のOさんが、中古のトヨタ・クラウンを20万円で買わないか、と持ちかけてきた。その車の走行距離が何万キロだったかは忘れてしまったが、もういい加減使い古した黒塗りのセダンだった。その頃はまだ珍しいオートマチックの変速機がついていた。

トヨタ・クラウン from wikipedia

 ふつう学生はこういうクルマは買わないものだと思うが、わたしはどうしてもクルマを運転したかった。車検の有効期間がまだあるし、駐車場は職場のを使えばいいし、返済は半年ほどかけて、というOさんの話につられてその車を買ってしまった。


 このクルマに乗って友人と野沢温泉にスキーに出かけたことがある。帰り道でガス欠になり、ガソリンを買うためにスタンドまで雪道を徒歩で往復した。あっという間に雪の中で立ち往生してしまい同乗していた友人たちはただただ呆気にとられていた。なにせ燃費が悪くてリッターあたり5キロくらいしか走らなかった。


 姉が結婚した時に、親族が披露宴に出席するために宮城県から大挙して出てきた。その時に、わたしはこのクルマで叔父さん叔母さんたちの何人かを泊まり先の綱島から東京は霞ヶ関の結婚式場まで往復送り迎えした。知らない道をどんな気持ちで運転したのか、今となって思い出せない。


 このクラウンは、出かけるたびにあちらをぶつけ、こちらをこすりして、1年たつと無残な状況になってきた。洗車もせずに職場の駐車場に放りっぱなしにしておいたので、ボディーはほこりだらけで、秋になるとボンネットやトランクルームの上には落ち葉がいっぱいたまった。バッテリーも上がってしまっているだろうが、すでに車検が切れているので公道を走らすこともできない。大学の卒業も目前にせまり、この評価額0円のクルマの処分をどうするか、見るはおろか考えるだけで頭が痛くなった。


 そんな時に知恵をつけてくれた人がいた。このクルマを大学の自動車部に寄付するのである。自動車部というのはれっきとした大学の体育会のひとつで、毎年夏に軽井沢で「自動車」という体育実技の授業をサポートしている。自動車部にクルマを寄付すると、自動車部がクルマを取りに来て、名義変更もやってくれ、あげくは総長名の感謝状がもらえるという。感謝状はともかく一切合切自動車部がやってくれるなら手間が省けるので寄付することにした。そのクルマはタカクラ号と名付けられた。おそらく早大生の運転技術向上に貢献したことだろう。