2024年11月19日火曜日

『創るセンス 工作の思考』森 博嗣

『小説家という職業』には私は直接的な接点はありませんでした
それでも面白く読ませてもらいました

この本は私がやっているもの作りに直接関係があります
なので最初から興味を持って読み、共感することも多々ありました

 これほど面倒ならば、窓なんか作らないで、窓の代わりに液晶モニタを壁に取り付けておけば良いではないか。

 最初に作る人間は、必ずなんらかの問題に直面し、自分でばらつきを体験し、乗り越えなければならない。

 ものを作るとは、常に何かを探す行為だといってもよい。もっと良い工夫はないか、もっと適した作り方はないか、最適の材料はどれか、これを解決するアイディアはないか、と・・・。

 優れた技術者とは、知識が豊富なのではなく、ものの道理を知っている人のことだ。

 簡単にいえば、楽ができる近道的なものを「コツ」と呼ぶのである。

 本当の楽しさは、自分の中から湧き出るもの、自分で作るものである。

 大人がもの作りを楽しんでいれば、それを見た子供は自然に興味を持つ。

 もの作りのセンスというのは、そんな「考える工作」のプロセスでしか生まれないものなのだ。

 技術のセンスを育てるためには、いかなる支配からも隔絶された環境を作る必要性を示唆している。

 接する品減がどんな表情でいるかは問題ではない。作られるものの品質こそが評価の対象だ。

 実際に手を動かして、一つでも新しいものを作った方がいい。作れば、あなたは必ず何かを学ぶし、あなたの中できっと変化が起こるだろう。

 オリジナルのものを作る場合には、インプットとアウトプットとの間に、膨大な処理が必要であるし、そもそもインプットするものを探し、そして整理することから必要になる。これを処理する過程で、作り手のオリジナリティが表れ、つくられたものの価値が生まれる。そして、作り手のオリジナリティは、この処理体験の蓄積でさらに成長するのである。

 どんな工作であっても、大切なのは、それを「楽しむ」ことであり、そのプロセスで自分自身の変化を「喜ぶ」ことだと思う。できあがっていくものが素晴らしい自信作になりそうなときも、あるいは失敗作に近いぎりぎりのものであっても、楽しむことでは、自分自身が得るものでは、大差がないと考えるべきである。

 自分にとって価値があるのは、変化する自分を体感することである。もし、作り出したものが社会的価値を持ち、それがビジネスになりそうならば、そこで判断が必要になる。

 そういったもの(軽はずみな装飾)を極力排し、たとえばただ精確に作る、ただ好きなように作る、といった誠実な姿勢が、あるレベルに達すると、「見ただけで誰が作ったのかわかる」個性を醸し出すまでになる。

 人間はものをみているときに、自分の目で見ているわけだが、そのときに思考はもっと自由に働く。見ているものの裏側を想像したり、過去はどうなったか、未来はどうなるか、といった飛躍も可能だ。つまり、それが視点である。

 昔のような大当たりはもうない。マイナなものを沢山作り、どこまで個人のニーズの広がりに応えるか、ということが勝負になるはずだ。

 仕事が大事で、趣味は二の次、という考え方は、一面だけをとらえた物言いであって、観点によってはまったく反対になる。また、仕事も趣味も、つまりは生きていくための糧になるものを得る、ということでは同じ行為かもしれない。どのように考えても良い。お好みしだいだ。

 最終的に周囲の人に影響を与えるものは、技術の高い低い、上手い下手ではなくて、「凄さ」なのだと思われる。

 といわけで、結論としては、創作が産み出す価値とは、「人間の凄さ」である、ということになる。

 天性の凄さももちろんあるけれど、大部分の凄さは、日常生活の中で、こつこつと少しづつ作られたものであることに注目してほしい。それはきっと貴方にもできる。

 ものを作ることは、「凄さ」を見つけること、「凄さ」を形にすることである。





『小説家という職業』森 博嗣

著者は小説家です
小説家としてその職業をどのように営んできたかをこの本に書いています
それは小説家を目指す人にとって参考になるでしょう
私は小説家を目指していないけれどもこの本を読んでみました
それは森博嗣という人の生き方に共感する部分があるからです

この本を読んでみて小説家を目指していない自分にも援用できるような部分を発見しました
それらをここに書きとどめておき後々の参考にしようと思います

 大事なことは、「こうすれば」という具体的なノウハウの数々ではなく、ただ「自分はこれを仕事にする」という「姿勢」である。

 読者から、僕の作品に対して「感動した」というメールが届くと、僕はいつも「感動したのは、あなたの能力によるものです」と答えている。

 はっきりしている真実が一つある。どんなひどい作品でも、誰かは褒めてくれる。どんなに優れた作品でも、誰かは貶す。

 「人間というのは、自分が望んでいる以上のものには絶対にならない」

 マイナは、競争相手がいないという状況で、それを求めている消費者を確実に引きつける。むしろ、メジャな商品より安定して売れるだろう。

 よくある助言、格言というのは、たいていは「上手く立ち回るため」ための方策・・・

 小説というものは、文章しかない。音も映像も伴わない。この表現手段の不自由さは、現代では素晴らしく珍しい。

 僕は自著に対してデータを集計したことがある。すると、売れている本ほど、読者の祭典が低くなる傾向があることに気づいた。理屈は簡単である。採点が低いからよく売れるのではなく、よく売れるほど、その作品に合わない人へも本が行き渡るから、低い評価を受ける結果になる。逆に、ものすごくマイナで部数の少ない本は、コアなファンだけ買うので評価が高い。

 ようするに、褒められても貶されても、「真に受けるな」ということである。

 人は、結局は「人に感動する」ものである。それは、自然の中にあって、最も自分自身に近い存在だからだ。人間の行為、その行為の結果がもたらしたものを通して、その人間の存在を感じる。・・・その感じた自分を対面に置き、反響させて感動を増幅する。

 世の傑作というのは、たいてい、どうでもよい素材を集め、どうでもよい手法にこだわって作られたものである。