宇宙は盲目的で目的のないプロセスであり、響きと怒りに満ちているが、何一つ意味はない。芥子粒のように小さい惑星で無限小の時を送る間、私たちはあれこれ頭を悩ませ、あちこち歩き回り、そして、やがてそれきりとなる。
現代の生活は、実際的なレベルでは、意味を持たない世界の中での力の追求から成る。現代文化は史上最強で、絶え間なく研究や発明、発見、成長を続けている。同時に、これまでどの文化も直面したことのないほど大きな実存的不安にさいなまれている。
現代における力の追求は、科学の進歩と経済の成長の間の提携を原動力としている。これまでほとんどの時代で科学はカタツムリが這うようにゆっくりと進歩し、経済は完全な凍結状態にあった。人口が徐々に増えていたので、生産もそれに比例して増え、散発的な発見が一人当たりの生産量の増大につながることさえときどきあったが、それはじつに緩慢な過程だった。
近代に入り、人々がしだいに将来を信頼するようになり、その結果、信用に基づく経済活動の奇跡が起こったおかげで、この悪循環がようやく断ち切られた。信用(クレジット)とは、信頼の経済的な表れだ。
人々が何千年にもわたって将来の成長をほとんど信じなかったのは、愚かだったからではなく、成長が私たちの直感や、人間が進歩の過程で受け継いできたものや、この世界の仕組みに反しているからだ。自然界の系の大半は平衡状態を保ちながら存在していて、ほとんどの生存競争はゼロサムゲームであり、他者を犠牲にしなければ繁栄はない。
人類は何百万年もかかって進化する間、チスイコウモリやキツネやウサギなどと同じような状況にあった。だから、人間も成長を信じるのが苦手なのだ。
現代は、経済成長は可能であるばかりか絶対に不可欠であるという固い信念に基づいている。祈りや善行や瞑想は慰めや励みとなるかもしれないが、飢饉や疫病や戦争といった問題は成長を通してしか解決できない。この根本的な心情は、一つの単純な考え方に要約できる。「もし何か問題が起こったら、おそらくより多くのものが必要なのだ。そして、より多くのものを手にするには、より多くを生産しなければならない」
「より多くのもの」という信条は、社会の平等を維持したり、生態の調和を守ったり、親を敬ったりといった、経済成長を妨げかねないことはすべて無視するように個人や企業や政府に強いる。
資本主義は、人間が経済を、あなたの得は私の損というゼロサムゲームと見なすのをやめて、あなたの得は私の得でもあるという、誰もが満足する状況と見るように促すことで、全世界の平和に重要な貢献をしたことに疑念の余地はない。
世界は決まった大きさのパイであるという伝統的な見方は、世界には原材料とエネルギーという2種類の資源しかないことを前提にしている。だがじつは、資源には3種類ある。原材料とエネルギーと知識だ。原材料とエネルギーには量に限りがあり、使えば使うほど残りが少なくなる。それに対して、知識は増え続ける資源で、使えば使うほど多くなる。実際、手持ちの知識が増えると、より多くの原材料とエネルギーも手に入る。
したがって私たちには、資源の欠乏という問題を克服する可能性は十分ある。現代の経済にとっての真の強敵は、生態環境の崩壊だ。科学の進歩と経済の成長はともに、脆弱な生物圏の中で起こる。そして、進歩と成長の勢いが増すにつれて、その衝撃波が生態環境を不安定にする。
経済が成長さえしていれば、科学者と技術者がいつも世界の破滅から私たちを救ってくれると信じている政治家や有権者があまりに多すぎる。
資本主義の世界では、貧しい人々の暮らしは経済が成長しているときにしか改善しない。したがって彼らは、今日の経済成長を減速させることによって将来の生態環境への脅威を減らす措置は、どんなものも支持しそうにない。
現代の世界は成長を至高の価値として掲げ、成長のためにはあらゆる犠牲を払い、あらゆる危険を冒すべきであると説く。集団のレベルでは、各国の政府や企業や組織は、自らの成功を成長という物差しで測り、平衡状態は悪魔であるかのように恐れることを奨励される。個人のレベルでは、私たちは絶えず収入を増やし、生活水準を高めるように仕向けられる。たとえ現状に十分満足しているときでさえ、さらに上を目指して奮闘するべきなのだ。
現代社会を崩壊から救ったのはだれか? 人類を救出したのは需要と供給の法則ではなく、革命的な新宗教、すなわち人間至上主義の台頭だった。
伝統的には宇宙の構想が人間の人生に意味を与えていたが、人間至上主義は役割を逆転させ、人間の経験が宇宙に意味を与えて当然だと考える。人間至上主義によれば、人間は内なる経験から、自分の人生の意味だけでなく森羅万象の意味も引き出さなくてはならないという。意味のない世界に意味を生み出せーこれこそ人間至上主義が私たちに与えた最も重要な戒律なのだ。
浮気について現代人の意見はさまざまだが、彼らはたとえどんな立場を取ろうと、聖典や神の戒律ではなく人間の感情の名において、その立場を正当化する傾向にある。物事は、そのせいで誰かが嫌な思いをするときだけ悪いものになりうることを、人間至上主義は私たちに教えた。
仮に私が神を信じていたら、そうするのは私の選択だ。私の内なる自己が神を信じるように命じるのなら、私はそうする。私が信じるのは、神の存在を感じるからで、神はそこに存在すると私の心が言うからだ。だが、神の存在をもう感じなければ、そして、神は存在しないと突然自分の心が言い始めたら、私は信じるのをやめる。どちらにしても、権威の本当の源泉は自分自身の感情だ。だから、神の存在を信じるといっているときにさえも、じつは私は、自分の内なる声のほうを、はるかに強く信じているのだ。
人間たちが自分に自信を持つようになると、倫理にまつわる知識を得るための新しい公式が登場した。知識=経験×感性だ。倫理にまつわるどんな疑問に対しても答えを知りたければ、自分の内なる経験と接触し、この上ないほどの感性をもってそれを観察する必要がある。そんなわけで、私たちは経験を積み重ねるために何年も過ごし、その経験を正しく理解できるように自分の感性を磨くことで、知識を探し求める。
人間至上主義においてはこのように、経験を通して無知から啓もうへと続く、内なる変化の過程の漸進的な過程として人生を捉える。人間至上主義の人生における最高の目的は、多種多様な知的経験や情動的経験や身体的経験を通じて知識を目いっぱい深めることだ。
じつは「自由」という神聖な単語は、まさに「魂」と同じく、具体的な意味などまったく含まない空虚な言葉だったのだ。自由意志は私たち人間が捜索した様々な想像上の物語の中だけに存在している。
私は自分の欲望を選ぶことはない。私は欲望を感じ、それに従って行動するにすぎない。それにもかかわらず、人が自由意思について論じ続けるのは、科学者までもが時代遅れの神学的な概念を相変わらず使っていることがあまりに多いからだ。
なぜこの考えを思いついたのか?一瞬前にこのことを思いつくことにして、それからようやく思いついたのか?それともこの考えは、私の指示も許可もまったくなしに、自然に湧いてきたものか?もし私が本当に自分の考えや決定の主人公なら、これから1分間、何も考えないことにできるだろうか?
矛盾するようだが、私たちは空想の物語のために犠牲を払えば払うほど執拗にその物語にしがみつく。その犠牲と自分が引き起こした苦しみに、ぜがひでも意味を与えたいからだ。
私たちのそれぞれが手の込んだシステムを持っており、自分の経験の大半を捨てて少数のより抜きのサンプルだけを取って置き、自分の見た映画や、読んだ小説、耳にした演説、ふけった白昼夢と混ぜ合わせ、その寄せ集めの中から、自分が何者で、どこから来て、どこへ行くのかにまつわる筋の通った物語を織り上げる。この物語が私に、何を好み、誰を憎み、自分をどうするかを命じる。私が自分の命を犠牲にすることを物語の筋が求めるなら、それさえこの物語は私にやらせる。
21世紀の経済にとって最も重要な疑問はおそらく、膨大な数の余剰人員を一体どうするのか、だろう。ほとんどなんでも人間より上手にこなす、知識が高くて意識を持たないアルゴリズムが登場したら、意識のある人間たちはどうすればいいのか?
太古の狩猟採集民は、生き延びるために実に様々な技能を身につけた。だから、ろぼっとの狩猟採集民を設計するのは途方もなく難しいだろう。そのロボットは、火打石から槍の穂先を作ったり、森で食べられるキノコを見つけたり、マンモスを追い詰めたり、10人余りの仲間と連携して攻撃を仕掛けたり、そのあとで薬草を使って傷の手当てをしたりする方法を知っている必要がある。
アルゴリズムが人間を求人市場から押しのけていけば、富と権力は全能のアルゴリズムを所有する、ほんのわずかなエリート層の手に集中して、空前の社会的、政治的不平等を生み出すかもしれない。
21世紀には、私たちは新しい巨大な非労働者階級の誕生を目の当たりにするかもしれない。経済的価値や政治的価値、さらには芸術的価値さえ持たない人々、社会の繁栄と力の華々しさに何の貢献もしない人々だ。この「無用者階級」は失業しているだけではない。雇用不能なのだ。
人はたいてい、不運な祖先とではなく、もっと幸運な同時代人と自分を比較する。
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