わたしの知り合いに昨年の春に都内から高知へ引っ越していった人がいます
そこにあるユニークな学校に子どもを通わせるためです
この本を読んでいてその人のことが何度も頭に浮かびました
彼女にはこの本を読んでもらいたいなと思いました
なぜって五味太郎の学校教育に対する批判的なスタンスがじつに痛快だからです
この本を読むと彼女も幾分すっきりするのではないかと思います
あるいはもう読んだことがあるかもしれません
旦那さんは古書店を営んでいて彼女も本のことは詳しいので
わたしの友人に都内の私立高校で校長をしている人がいます
おない年で20代の頃からの付き合いがあります
この本を読んでいて絶えずその人のことも頭を過ぎりました
彼にこの本は読ませたいような読ませたくないような気がしました
なぜって五味太郎はいまの学校教育を痛烈に批判しているからです
この本を読んだ友人の感想を聞くのが楽しみなような怖いようなそんな気分です
この本を読んだら彼はどう思うだろうか
あるいはもう読んだことがあるかもしれません
たいへんな読書家なので
この本を読んだわたしはこう思います
五味太郎は絵本作家として日本の学校教育のあり様を問題にしています
その問題とは学校教育を運営している大人自身の問題であると指摘しています
いまの大人のあり様にこそ問題の核心があるということです
であれば問題は学校教育だけでなく大人が運営に関わっているあらゆる組織にあるはずです
というかあらゆる組織は問題をかかえているとそのようにわたしは思います
例えば馴染みのないところでは「国会」で身近なところではわたし自身の「家族」です
ほかにもたくさんの問題な組織があります
さてどうしましょう
「自分の耳で質問を聞いて、自分の鼻で煙のにおいを嗅いで、自分の頭でちょっとまとめて、そして自分の口でしゃべるガキがいる」
「「実験精神」というものがほんとうに少ない社会です。ちょっと試してみる、少し変えてみる程度の実験も、なんとなく遠慮しがちの社会、個人です」
「この国は「努力」というものを過大評価する国です。人様のために働いてきた歴史が長いからだろうと思われます」
「どうやら、大人の普通の暮らしが、朝から晩までがんばっているらしい。がんばって駅行って、がんばって電車乗って、がんばって会社行って、がんばって挨拶する。そして「がんばり料」という感じで給料をいただいているらしいのです」
「教師は馬鹿の一つ覚えみたいに、髪の乱れは心の乱れ、服装の乱れは心の乱れ、なんていいますが、その「心の乱れ」がポイントです。ぼくは、心は乱れるためにあると思います。「乱れない心」なんて、心ではない」
「この世からもし「いじめ」というものをなくしたいと思うなら、まず今の学校システムをなくせばいいと思っています。つまり、学校にいじめがあるのではなくて、学校という構造がそもそもいじめなのだと思います」
「この歳になってつくづく、人生というのは自分の居場所を探すことなんだなあと思います。・・・居場所はどんなことをしてでも自分で見出すしかありません。そして子どもたちが自分の居場所をみつけだすことについて、大人が必要なときにどれだけ手を貸してやれるかが勝負なんだろうと思います」
「現代人は言葉だけでなく、すべてにわたって原始人の実力を過小評価したがります。自分たちが立派になってきたことをなんとか証明したいからです」
「大人は感動が好きです。比較的感動が少ない人生を歩んでいる人に、なぜか「感動好き」が多い。そしてその類の人、「子どもに感動を与える」ことを好みます」
「しかし、その「感動」というもの、少し人生を丁寧に味わってみるなら、そう類型的に扱えるものでないということがすぐにわかります」
「・・・そのときにいちばん必要なのは「わかっている」人ではなくて、現役でやっている人、つまり今でも「わかろうとしている人」です。「人生、そこらあたりが問題なんだよね」と問題を世代を超えて共有できる人」
「学校というものがこんなにたくさんあって、学びというものがほんとうに少ないというのが現状のようです。学校というものに学びの形を代表させて安心しきっていたツケが回っているのです」
「社会のために学ぶということと、個人が学ぶということを、明快に分けてとらえる必要があります。そこがゴチャゴチャになってしまっていると思います」
「日本語学校の校長を永いこと務められたN校長から、いろいろな風土の人々に一つのスタイルで日本語を教えるのはほとんど不可能です、というお話を伺ったことがあります。
なにしろその日本語学校には世界のあらゆるところから人が集まっているわけですが、ヨーロッパ、アメリカ系の人は、ならったらすぐに実践的に使ってみる学習法を好むそうです。そうしないと学んでいるような気がしないらしい。
かたや、イスラーム圏の人々はひたすら唱えるのが好みらしい。N先生に言わせると「コーランの影響かしら・・・」ということになるのですが、何はともかく「キョウハ イイ テンキ デス キョウハ イイ テンキ デス」と唱えると学んだ感じが出るらしいのです。
そして、とにかく書き写す文化圏の人がいます。書いて、読んで、ちょっと発音して、また書いてというスタイル。中国、韓国、そしてどうやら我々のスタイルです。
これはもう良い悪いの問題ではない。なにしろ風土的なクセなのだということをN先生はややあきらめ顔でおっしゃっていました」
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