1988年5月31日火曜日

夜の仕事と遊山 1982年6月1日~1988年5月31日

夜の仕事
1982年6月から夜間勤務をすることになりました
夜間勤務といっても14時に始まり22時に終わる昼寄りの変則的な時間帯でした

この勤務時間は夜間学部の授業時間に合わせたためですが職員の生活には影響大でした
子育てや親の介護中であれば面倒を見るのが困難です
飲みに行ったりコンサートに出かけたりがするのも不便です
そのため夜間勤務の期間は最大で6年とされていました

そうまでしても職員の間で夜間勤務は不人気でした
夜間勤務の職場への異動が決まると本人はがっかりしまた周りはそれを気の毒がりました

わたしは自分が夜間勤務をそれほど不都合に感じませんでした

もともと夜間学部の出身でしたし夜に出歩く習慣もなかったからです

むしろこれを機会にこれまでとちがう生活をしようと思いました


新しい暮らし

勤務は午後からなので午前中は自分がやりたい何かをすることにしました


まず不安定になった体調をもとに戻すため週に数回トレーニングをしました

区立のスポーツセンターや公園でランニング、筋力トレーニング、ストレッチです

仕事で疲れる前にからだを動かすのは気持ちのいいことでした


調子が出てくるとさらにスキーやクライミングで必要な能力を高めるようにしました

スキー滑降のイメージで芝生の斜面を駆け下ったり石垣を登ってバランス感覚を高めたりです


体を鍛えるほかにもやりたいことがありました

それはフランス語を学ぶことでした


22歳の時にヨーロッパ・アルプスで山登りをするためにはじめて海の外に出ました

そこでは地域によってフランス語、ドイツ語、イタリア語のいずれかが使われていました

わたしたちがおもに滞在したのはフランス語圏でした


モンブラン山群の麓のシャモニーの街にスネル・スポーツという登山用具店がありました

滞在中にわたしは足りない登山用品を買いに何度かその店に行きました

そこで30代くらいの日本人の男性が店員として働いていました


彼は日本のどこかの地方(それがどこかはわかりませんでした)のなまりがありました

初めての海外だったせいかわたしは彼の語り口に親しみを感じました


その彼が現地の客と応対する時には一転して(当然ですが)フランス語を話すのでした

彼がここまでフランス語を話せるようになるのにどれくらいの勉強が必要だったのでしょうか


わたしと訥々と日本語で話していた彼が振り向きざまにフランス語を話しだす


その鮮やかさが帰国してからもわたしの頭の隅にずっとありました


いつかしっかり学びたいと思っていたフランス語をこの機会にはじめることにしました

お茶の水のアテネフランセで週数回フランス人教師の授業を受けることに決めました

その頃使っていた辞書
蔵書印の「頸雪」は拙者の号です

こうして週日の午前中は体か頭を動かすという生活がはじまりました

一日で一番生産的な時間を自分のために使えるとはなんてすてきなことだろうと思いました


そして自分が創立にかかわったスキークラブからは身を引くことにしました

かるくゲレンデスキーだけを楽しむだけでは物足りなかったからです


かわって東京スキー山岳会(TSMC)という社会人の会に入会しました

この会は国内外を問わず山岳スキーを中心に活動していました

ここで自分のやりたいような山登りやスキーをしようと思いました


岩と雪の休日
私はTSMCの同年代のメンバーと共により困難な山スキーや岩登りを目指しました
個々の会員の技量はともかくとしてTSMCが目指す方向性は自分の期待した通りのものでした
具体的には夏は岩壁登攀と沢登り、冬は山スキーのツアーと沢滑りでした
休日のほとんどを山に費やしていくつか印象深い山行をすることもできました
とりわけ思い出の深い山行は次のとおりです
北アルプス・黒部川上の廊下遡行 1982年7月
北アルプス・新穂高ー馬場島スキー縦走 1983年4月
ペルーアンデス・コパ峰登頂およびスキー滑降 1983年8月
奥羽山脈・八幡平ー秋田駒ヶ岳スキー縦走 1983年12月
南アルプス・甲斐駒ヶ岳赤石沢登攀 1985年7月
北アルプス・屏風岩登攀 1985年8月
北アルプス・槍ヶ岳登頂および槍沢スキー滑降 1985年12月
南アルプス・大井川赤石沢遡行 1986年8月
パミール・レーニン峰登頂およびスキー滑降 1987年8月
八幡平 1983年12月

ペルーアンデスのスキー滑降

TSMCでは会員の誰かが毎週末のようにどこかの山に行っていました

わたしもそのような人たちと行きたい山へ行くようになりました

山スキーだけでなく岩登りや沢登りもしました

自分の技術や体力の限界に近いレベルの山行は大きな充実感をわたしにもたらしました


TSMCには国内の山だけでなく海外の高峰へ出かけるメンバーもいました

その中に南米のペルーアンデスで6000m峰に登った人がいました

その人の経験談は興味深いものでした

ペルーアンデスでもスキーができるとその人が言っていたからです


雪さえあれば世界のどこでもスキーはできる

わたしはペルーアンデスへ行きスキー滑降がしたいと思いました


6000m峰からスキー滑降は2年前にインドヒマラヤで頓挫した見果てぬ夢でした

そのことを同年輩の会員のKに話すと「一緒に行こうか」ということになりました


そういう訳で1983年夏にペルーアンデスへ忘れ物を取りに行きました

そして6000峰からスキー滑降することができました

下山したあとにこれまで感じたことがないような満ち足りた気持ちになりました

コパ峰(6188m)からのスキー滑降
1983年8月8日
この経験を人に話すとなぜそんなに長い休暇がとれたのかよく不思議がられました
大学の職員がどういった職業なのかあまり知られていなかったことも理由だと思います

わたしがペルーアンデスへスキー滑降しに行くのに要した期間は33日でした
このから週末やお盆の休みを差し引いた20日間ほどに自分の休暇をあてました
そうしてその年度末まで欠勤することもなく翌年度を迎えることができたのです

わたしは職員の休暇制度の枠組みの中でインドヒマラヤへもペルーアンデスにも行きました
職場の人だれもが持っている権利をやや集合的に計画的に使っただけでした

まず4月の年度始まりから風邪や二日酔いなどでも仕事を休まないようにします
半面誰かが何かの必要で休む時は快く受け入れてその人の仕事を率先してカバーします
また休日に職員が出勤しなければならない場合は喜んでこれを引き受けます

こうしていると夏が近づくにつれて手持ちの休暇日数は減らずにかえって増えています
日数だけでなく職場の人々に少々の恩を売った実績も積み重なっています
そして夏の長期休暇を宣言する頃には職場の雰囲気も「仕方ないか」となっているのです

同じ権利を持っていてもいろんな事情でそれを行使できない人もいます
そういう人がいたこともあってわたしは自分の権利を目いっぱい行使できたのです
そのことを忘れてはいけないと思いました

結婚する
1984年にTSMCの女性会員と結婚しました
彼女とはTSMCの山行で数回いっしょに山へ行く機会がありました
困難な山へ数日行くと同行者の性格が良く分かります
わたしは彼女の屈託のない人柄に惹かれこの人と結婚したいと思いました

プロポーズした場所はその年の冬の雑司ヶ谷霊園(東京都文京区)でした
雪の残る墓地でなぜそのようなになったのか覚えていません
ともかく間もなく彼女は応諾してくれました

11月に文京区の新江戸川公園内にある松声閣で手作りの披露宴をしました
参加人数ははじめは40名ほどを予定していました
それが準備を進めていくうちにどんどん増えて最終的に60名を超えてしまいました
会場に全員入りきらず一部の人には控えの部屋に入ってもらうありさまでした

職場は私の方が彼女より休日を取りやすい状況でした

彼女とは5月の連休に剣立山へ行き平蔵谷や真砂沢などの沢筋を何本も滑りました
剣御前の山小屋をベースに滑った後はミクリガ池で温泉に入り黒部湖畔に滑り降りました
また年末年始に新穂高から槍ヶ岳の直下までスキーで登って登頂したこともありました

パミールのスキー滑降
結婚してからも暮らし方に大きな変化はありませんでした
彼女も働きながら山登りを続けました

山行のレベルは徐々に上がっていきました
印象深いスキー縦走や沢登り、岩壁登攀を日本のあちこちですることができました

そうこうしているうちにいまの職場での夜間勤務もあと一年余りとなりました
結婚し30歳にもなって自分の今後をこれまで以上に意識するようになってきました
山登りだけでなく家庭や仕事も含めた全体のことです

次の職場では留学生にかかわる仕事がしたいと考えるようになりました
これまで4度の海外経験を通じて留学の大切さを意識するようになったからだと思います
そこに職員としての自分のやりがいを見出したいと思い始めました

自分の山登りやスキーにはひと区切りつける時期だと感じていました
6000mの次は7000mのピークからスキーで滑り降りたいと考えていました

その頃にTSMCの会員でパミールのレーニン峰(7134m)に登った人がいました
スキーは使わずピークに登ることだけを目的にした彼らの話を聞き写真も見せてもらいました
わたしはこの山はスキーで滑り降りるのにうってつけだと感じました

そしてわたしの妻とTSMCの会員のTの三人で1987年夏にレーニン峰へ行きました
好天のチャンスをつかんで登頂し山頂直下からベースキャンプまでスキー滑降しました
妻とTはあと少しのところで登頂を逃してしまいました
わたしは二人に申し訳なく思いました
レーニン峰(7134m)山頂にて
1987年8月12日
ベースキャンプにはフランスからの登山チームもいました
わたしは登山が終わった気安さでそのチームの人たちとあれこれ話をしました
自分にもフランス語をこうして使うことはできるのだと思いました

学部事務所での手作業

経理課ではソロバンで計算して万年筆で帳簿をつけるという手作業を二年間しました

学部の事務所に異動しても仕事は基本的に手作業でやることに変わりありませんでした

創造的でない単調な手作業はどうしても苦手でした


そのため労働は楽しめませんでしたが職場環境には経理課よりもなじむことができました
社会科学部は早稲田大学では最も新しい学部で職員の人事異動も頻繁に行われていました

若手の職員も多くいたのでそれほど重苦しい雰囲気はありませんでした

学部での職員業務は毎年同じように繰り返されていました

それは入学式、科目登録、定期試験、入学試験、成績処理、卒業式などです

入学式や卒業式以外は集計、転記、判定といった機械的な作業が中心です


わたしが学部の事務所へ異動した頃はこれらの業務がまだ手作業で行われていました

集計には電卓(さすがにソロバンは使わなかった)を使いました

転記には(またもや)万年筆、判定は暗算という具合でした


「原簿」と呼ばれる縦30センチ、横80センチほど帳簿がありました

原簿一冊には100枚つまり100名分の厚紙が綴じられていてたいへんな重さでした


その厚紙一枚が学生一人分でそこにすべての科目名が印刷されています

年度の初めに学生が登録した科目のところに「ポツ」という小さい〇印を押します

そして年度末には学生がとった点数をそこに万年筆で書き込みます


年度初めの「ポツ押し」にはたいして時間はかかりませんでした

それに比べて年度末に成績を書き込みにはとても時間がかかりました

間違いを防ぐために二人一組になって何度もチェックしながらやるためです

単調な作業に飽き飽きしては冗談の言い合いなどしてなんとか気をまぎらしながらやりました


一人の学生は卒業までに40科目以上を取ります

そのため学生一人につき最低100回ぐらいは原簿を広げることになります

原簿一冊で100名なので卒業までには100回×100名=1万回ほどめくりまたとじられます

そのため最初はパリッとしていた「原簿」は年を追う毎に手垢にまみれボロボロになりました


またもシステム開発

このような手作業を電算化するシステム開発がわたしが学部へ異動した翌年から始まりました

システム開発は経理課でわたしを悩ませた三つのくびきのうちの一つのでした


そのような切迫感は学部事務所の職員には感じられませんでした

それはシステム開発がどんなことなのか分からないからのように思われました


システム開発と併行して学部の職員全員がワープロを使えるよう研修会が開催されました

老若男女合わせて10人ほどが数台の新しいワープロ機を囲んで操作法を習いました


その頃のワープロの入力方法はローマ字ではなくひらがらが主でした

キーボードにはひらがなが一見バラバラに表記されていているのです


研修会の講師がわたしたちになんでも思い浮かんだ言葉を入れてみるようにいいました

みな順に思い浮かべた言葉をひらがなでポツポツと打ち込みました

そして大方は「ひらがながすぐに見つからない」などと感想をもらしていました


すると初老の職員Kさんが「そんなことないよ」といって颯爽とやってみせました

「ほら見てごらん、す、い、か、す、い、か、ね!」


たしかに「す」「い」「か」は隣り合うようにキーボードに配列されていて入力が簡単です


みんな一瞬Kさんに感心したあと顔を見合わせて苦笑しました

わたしたちは毎日「すいか」とだけ書くわけではないですから


研修ではひらがなを漢字に変換する方法も習いました

ひらがなで言葉を入力し変換キー押すといくつかの候補が画面にパッと表示されます

その中から該当するものを選ぶのです


そして自分の苗字を漢字に変換する練習を交代でしました

ひと通り終わったあと先ほどのKさんが「オレこのコンピューター嫌い」といっています

なんでも漢字に変換したら最上位の候補が「下等」だったのだそうです


経理課ではわたしはシステム開発の最後までは立ち合わずに異動してしまいました

社会科学部では最初から最後までやることになりました

パラメータの作成やデータ処理の作業を手作業と並行して行うのはかなりの負担でした


社会科学部でのシステム開発は3年ほど続きましたが今度はやりきりました

それができたのはひとつには自分が好きなことも併行してできていたからだと思います


国際部への異動
経理課での2年間の苦い経験を経て社会科学部では遊山を楽しむことができました
ざんねんながら労働まで楽しむことはできませんでした
つぎの職場ではぜひ労働も楽しみたいと思いました

異動前に人事部に提出する自己申告書に希望する異動先を「国際部」と書きました
国際部では一年間のプログラムで留学生の受入れと送出しをしていました
留学生の世話をする仕事であればきっと楽しいだろうと想像したのです

それに国際部には学部のような入学試験がありませんでした
学部ではスキーシーズンが入学試験で繁忙な時期と重なっていました
そのため良い雪で滑ることがほとんどできなかったのです
国際部へ異動したら雪山で思い切り滑れるだろうという下心もありました

それにしても自分が国際部に異動できるとはにわかに考えられませんでした
英語力も国際交流の仕事の経験もなかったからです
わたしはあくまで自分の希望をストレートに申告したまででした

意外なことにわたしの希望は受け入れられ国際部へ異動することになりました
国際部事務長のUさんが社会科学部事務長のIさんからいろいろ聞いたうえで決めたようでした
二人の間でどのような話がされたのかは知りません
ともかくわたしは大学に就職して初めて自分の希望する部署で働けることになったのでした

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