わたしは自分が夜間勤務をそれほど不都合に感じませんでした
もともと夜間学部の出身でしたし夜に出歩く習慣もなかったからです
むしろこれを機会にこれまでとちがう生活をしようと思いました
新しい暮らし
勤務は午後からなので午前中は自分がやりたい何かをすることにしました
まず不安定になった体調をもとに戻すため週に数回トレーニングをしました
区立のスポーツセンターや公園でランニング、筋力トレーニング、ストレッチです
仕事で疲れる前にからだを動かすのは気持ちのいいことでした
調子が出てくるとさらにスキーやクライミングで必要な能力を高めるようにしました
スキー滑降のイメージで芝生の斜面を駆け下ったり石垣を登ってバランス感覚を高めたりです
体を鍛えるほかにもやりたいことがありました
それはフランス語を学ぶことでした
22歳の時にヨーロッパ・アルプスで山登りをするためにはじめて海の外に出ました
そこでは地域によってフランス語、ドイツ語、イタリア語のいずれかが使われていました
わたしたちがおもに滞在したのはフランス語圏でした
モンブラン山群の麓のシャモニーの街にスネル・スポーツという登山用具店がありました
滞在中にわたしは足りない登山用品を買いに何度かその店に行きました
そこで30代くらいの日本人の男性が店員として働いていました
彼は日本のどこかの地方(それがどこかはわかりませんでした)のなまりがありました
初めての海外だったせいかわたしは彼の語り口に親しみを感じました
その彼が現地の客と応対する時には一転して(当然ですが)フランス語を話すのでした
彼がここまでフランス語を話せるようになるのにどれくらいの勉強が必要だったのでしょうか
わたしと訥々と日本語で話していた彼が振り向きざまにフランス語を話しだす
その鮮やかさが帰国してからもわたしの頭の隅にずっとありました
いつかしっかり学びたいと思っていたフランス語をこの機会にはじめることにしました
お茶の水のアテネフランセで週数回フランス人教師の授業を受けることに決めました
その頃使っていた辞書 蔵書印の「頸雪」は拙者の号です |
こうして週日の午前中は体か頭を動かすという生活がはじまりました
一日で一番生産的な時間を自分のために使えるとはなんてすてきなことだろうと思いました
そして自分が創立にかかわったスキークラブからは身を引くことにしました
かるくゲレンデスキーだけを楽しむだけでは物足りなかったからです
かわって東京スキー山岳会(TSMC)という社会人の会に入会しました
この会は国内外を問わず山岳スキーを中心に活動していました
ここで自分のやりたいような山登りやスキーをしようと思いました
ペルーアンデスのスキー滑降
TSMCでは会員の誰かが毎週末のようにどこかの山に行っていました
わたしもそのような人たちと行きたい山へ行くようになりました
山スキーだけでなく岩登りや沢登りもしました
自分の技術や体力の限界に近いレベルの山行は大きな充実感をわたしにもたらしました
TSMCには国内の山だけでなく海外の高峰へ出かけるメンバーもいました
その中に南米のペルーアンデスで6000m峰に登った人がいました
その人の経験談は興味深いものでした
ペルーアンデスでもスキーができるとその人が言っていたからです
雪さえあれば世界のどこでもスキーはできる
わたしはペルーアンデスへ行きスキー滑降がしたいと思いました
6000m峰からスキー滑降は2年前にインドヒマラヤで頓挫した見果てぬ夢でした
そのことを同年輩の会員のKに話すと「一緒に行こうか」ということになりました
そういう訳で1983年夏にペルーアンデスへ忘れ物を取りに行きました
そして6000峰からスキー滑降することができました
下山したあとにこれまで感じたことがないような満ち足りた気持ちになりました
コパ峰(6188m)からのスキー滑降 1983年8月8日 |
彼女とは5月の連休に剣立山へ行き平蔵谷や真砂沢などの沢筋を何本も滑りました
レーニン峰(7134m)山頂にて 1987年8月12日 |
学部事務所での手作業
経理課ではソロバンで計算して万年筆で帳簿をつけるという手作業を二年間しました
学部の事務所に異動しても仕事は基本的に手作業でやることに変わりありませんでした
創造的でない単調な手作業はどうしても苦手でした
学部での職員業務は毎年同じように繰り返されていました
それは入学式、科目登録、定期試験、入学試験、成績処理、卒業式などです
入学式や卒業式以外は集計、転記、判定といった機械的な作業が中心です
わたしが学部の事務所へ異動した頃はこれらの業務がまだ手作業で行われていました
集計には電卓(さすがにソロバンは使わなかった)を使いました
転記には(またもや)万年筆、判定は暗算という具合でした
「原簿」と呼ばれる縦30センチ、横80センチほど帳簿がありました
原簿一冊には100枚つまり100名分の厚紙が綴じられていてたいへんな重さでした
その厚紙一枚が学生一人分でそこにすべての科目名が印刷されています
年度の初めに学生が登録した科目のところに「ポツ」という小さい〇印を押します
そして年度末には学生がとった点数をそこに万年筆で書き込みます
年度初めの「ポツ押し」にはたいして時間はかかりませんでした
それに比べて年度末に成績を書き込みにはとても時間がかかりました
間違いを防ぐために二人一組になって何度もチェックしながらやるためです
単調な作業に飽き飽きしては冗談の言い合いなどしてなんとか気をまぎらしながらやりました
一人の学生は卒業までに40科目以上を取ります
そのため学生一人につき最低100回ぐらいは原簿を広げることになります
原簿一冊で100名なので卒業までには100回×100名=1万回ほどめくりまたとじられます
そのため最初はパリッとしていた「原簿」は年を追う毎に手垢にまみれボロボロになりました
このような手作業を電算化するシステム開発がわたしが学部へ異動した翌年から始まりました
システム開発は経理課でわたしを悩ませた三つのくびきのうちの一つのでした
そのような切迫感は学部事務所の職員には感じられませんでした
それはシステム開発がどんなことなのか分からないからのように思われました
システム開発と併行して学部の職員全員がワープロを使えるよう研修会が開催されました
老若男女合わせて10人ほどが数台の新しいワープロ機を囲んで操作法を習いました
その頃のワープロの入力方法はローマ字ではなくひらがらが主でした
キーボードにはひらがなが一見バラバラに表記されていているのです
研修会の講師がわたしたちになんでも思い浮かんだ言葉を入れてみるようにいいました
みな順に思い浮かべた言葉をひらがなでポツポツと打ち込みました
そして大方は「ひらがながすぐに見つからない」などと感想をもらしていました
すると初老の職員Kさんが「そんなことないよ」といって颯爽とやってみせました
「ほら見てごらん、す、い、か、す、い、か、ね!」
たしかに「す」「い」「か」は隣り合うようにキーボードに配列されていて入力が簡単です
みんな一瞬Kさんに感心したあと顔を見合わせて苦笑しました
わたしたちは毎日「すいか」とだけ書くわけではないですから
研修ではひらがなを漢字に変換する方法も習いました
ひらがなで言葉を入力し変換キー押すといくつかの候補が画面にパッと表示されます
その中から該当するものを選ぶのです
そして自分の苗字を漢字に変換する練習を交代でしました
ひと通り終わったあと先ほどのKさんが「オレこのコンピューター嫌い」といっています
なんでも漢字に変換したら最上位の候補が「下等」だったのだそうです
経理課ではわたしはシステム開発の最後までは立ち合わずに異動してしまいました
社会科学部では最初から最後までやることになりました
パラメータの作成やデータ処理の作業を手作業と並行して行うのはかなりの負担でした
社会科学部でのシステム開発は3年ほど続きましたが今度はやりきりました
それができたのはひとつには自分が好きなことも併行してできていたからだと思います