2018年10月9日火曜日

『ピダハン』 ダニエル・エヴェレット


ピダハンの文化にやっぱりそうなのかと共感を覚えました
この6月にフランスを自転車旅行した際にオヤッと思ったことが何回かありました
自転車道の標識がうまく目に入らなかったことが何度もありました
一緒に旅したフランス人にはそれが苦も無く見つけられたのです
それがなぜなのか分かりませんでした
この本を読んでこれがその理由なのかと思いました

「わたしたちは、自分たちの文化のタペストリーを織りなす、さまざまな仮定を前提としてしゃべっている。たとえば友人がわたしに、交差点で左に曲がれ、と言ったとする。友人は、『白い線のところで止まって信号が青になるまで待つこと』とわざわざ付け加えることはない。わたしが自分たちの文化の一員であることを承知しているからだ。同様に、ピダハンの父親が息子に、川で魚を射るように指示する場合、何時間もカヌーに座ってじっとしていろとか、光の屈折があるから上から見て魚の少し下あたりを狙うんだぞ、などと事細かに注意を与えたりはしない。じっと待つことも、屈折を修正することも、文化的に伝わる知恵で、ピダハンたちに代々暗黙のうちに伝わっているものだから、あえて口に出すまでもないのだ。
 ピダハンにとって、そしてそれはわたしたち全員にとっても同じだが、知識とは、経験が文化と個々人の精神を鏡にして解釈されるものだ。」

わたしが旅に出るのは自分の目で世の中を見たいからです
目にしたことを考え、必要であればそのことを書いたり話したりして人に伝えたいのです
この点でもピダハンの文化に類似点を見つけてすこし驚きました。
ピダハンは自分が実際に目にしたものしか信じないのです

「何がわたしの使命を難しくしているのか、わたしにも少しずつ明らかになりかけていた。キリスト教の信仰についてはおおむね正しく伝えられていた。私の話に耳を傾けた者たちは、ヒソー(イエス)という名の男がいて、彼はほかの者たちに、自分が言ったとおりにふるまわせたがっていると理解していた。
 次にピダハンが訊いてくるのは、『おい、ダン。イエスはどんな容貌だ?おれたちのように肌が黒いのか、おまえたちのように白いのか」
 わたしは答える。『いや実際に見たことはないんだ。ずっと昔に生きていた人なんだ。でも彼の言葉はもっている』
 『なあダン、そんな男を見たことも聞いたこともないのなら、どうしてそいつの言葉をもっているんだ?』
 次にみんなは、もしその男を実際に見たことがないのなら、その男についてわたしが語るどんな話にも興味はない、と宣言する」

現代人の多くは不安にとらわれて日々を暮らしています
昔よりも格段に物質的に恵まれた生活をしているにもかかわらずです

「西洋人であるわれわれが抱えているようなさまざまな不安こそ、じつは文化を原始的にしているとはいえないだろうか。そういう不安のない文化こそ、洗練の極みにあるとは言えないだろうか。こちらの見方が正しいとすれば、ピダハンこそ洗練された人々だ。どうか考えてみてほしい。畏れ、気をもみながら宇宙を見上げ、自分たちは宇宙のすべてを理解できると信じることと、人生をあるがままに楽しみ、神や真実を探求する虚しさを理解していることと、どちらが理知をきわめているかを。
 ピダハンは、自分たちの生存にとって有用なものを選び取り、文化を築いてきた。自分たちが知らないことは心配しないし、心配できるとも考えず、あるいは未知のことをすべて知り得るとも思わない。その延長で、彼らは他者の知識や回答を欲しがらない」