早大派遣留学生のオリエンテーション 1990年8月 コー・カレッジ |
あたらしい仕事と英語
1988年6月の人事異動で国際部事務所の所属になりました
国際部職員の業務内容は学部事務と大きく変わるところはありませんでした
違うのは業務を全て英語で行う点でした
窓口の対応や電話、書類の作成、会議もすべて英語が使われていました
事務所には7名の職員がいて皆さん英語が上手でした
窓口に来た留学生や外国人の教員にも臆することなく英語で対応していました
英語での電話にも流れるように(と私には聞こえました)こたえていました
わたしは英会話は得意ではありませんでしたがなんとかなるだろうと思っていました
これまで何度も海外の山へ出かけた際に英語で不自由したことがなかったからです
ヨーロッパでもペルーでもパミールでも現地での交渉は英語を使いました
その自信は国際部へ異動してすぐに粉々に砕けました
英語力の足りない点はいくつもありました
会話のスピードが速くて聞き取れない
使われている単語が分からない
文の組み立てや発音が正しくできない
・・・
予想していた以上の英語の壁の厚さにハタと立ち往生しました
国際部へ異動してわずか三週間たった時が一学年間のプログラムが終わる時でした
大隈会館での国際部修了式は和やかな雰囲気でした
学生が余興でドジョウすくいを披露したり日本語での感謝のスピーチがありました
そのあと留学生たちは自分たちの大学へと帰って行きました
針の筵の上に座らせられたような期間が過ぎてほっとました
3か月後に始まる新学年からはこのようなわけにはいきません
事務所の戦力になるように英語力をアップしないとここにいる意味がありません
国際部のU事務長からも早く英語力を高めなさいと言われてしまいました
国際部というのは早稲田大学の学部レベルの交換留学を担当している箇所でした
交換留学は学部生が一学年間の協定大学へ留学する制度です
その学生と交換で協定大学からの留学生が国際部で一学年間学びます
国際部には主に米国の大学から毎年100名ほどの学生が来日していました
その学生たちは9月から翌年の6月まで10か月国際部で授業を受けます
期間中は日本人家庭にホームステイしながら日本語と日本の文化について学ぶのです
早稲田大学の学部生については国際部を通じて毎年40名を協定大学に派遣していました
国際部では派遣学生の選抜や派遣学生へのオリエンテーションなどを行っていました
国際部の授業の特色はアメリカの学部教育をモデルとして英語で授業を行う点でした
授業は海外の大学で研究した経験のある教員が行っていました
クラスの定員は20名から多くても80名ほどで早稲田の学部に比べると一桁少ない規模でした
愚考の上かつてフランス語を学んだアテネフランセで英会話を学ぶことにしました
フランス語をマスターするまではいきませんでしたが楽しく学べた思い出があったからです
あそこであれば二匹目のどじょうも釣れるのではないかと思いました
問題はその授業時間でした
午後の終わりから受講するためには職場を終業時刻より少し早く退出する必要がありました
U事務長に相談すると「もっと遅い時間帯の授業は無いんですか」と言われました
遅い時間帯の授業もありましたが当然帰宅が遅くなってしまいます
そこで「毎日一時間早く出勤しますので一時間早く退出させてください」とお願いしました
するとU事務長はしぶしぶこれを認めてくれました
休日は山へも行かないで自宅でラジオ英語講座などの勉強をしました
それでも三か月間では目立った効果は上がりませんでした
そうこうするうちに早くも新しい学生たちが来日してきました
長男の誕生
そんな折に長男が誕生しました
仕事や自己研鑽でてんてこまいしていた時に気持ちの改まる出来事でした
自分の子供を持つというのは新しい生命に責任を持つということなのだと思いました
とはいえ家事と育児のほとんどは妻に任せきりでした
好きを仕事に
始業式が終わると科目登録がありすぐに授業が始まりました
休み時間になると事務所には学生や授業科目の担当教員が来て大賑わいです
学期の途中にはいろいろな行事もその準備や実施の手伝いもあります
あれやこれやに引きずられて英語の勉強も十分にできません
そんな中でこの9月にオレゴン州から来た留学生の中に山好きが居ることが分かりました
ジョーという日本語がまだ初級の学生でした
休み時間に彼と立ち話しました
東京周辺にも日帰りで楽しい山登りができるところがあること
山登りだけでなくスキーや岩登りができることなどを英語で話してあげました
するとジョーは「僕も行きたい!」と目を輝かせました
じゃあ折角だからとまず奥多摩の岩登りのゲレンデに一緒に行きました
その岩場は彼には難し過ぎてほとんど登れませんでした
それでも東京とは全く違う山の雰囲気を楽しんでくれたようでした
このことに気を良くして今度はジョーとスキーに出かけました
場所は谷川岳の天神平スキー場です
このスキー場は関東周辺で最も早くオープンするスキー場のひとつです
天神平スキー場へはふつうは麓からロープウエーを使って行き帰りします
それ以外にもロープウエーを使わずに沢筋を滑り降りることができます
ジョーのスキーの足前は確かでしたのでその新雪の斜面を何度も一緒に滑降しました
ジョーのほかにもカリフォルニアからの学生と木曽御岳へ山スキーへ行ったりしました
このように山登りを通して学生と接したことで分かったことがありました
常々職場で感じていた英語力のハンデを山では感じないのでした
自分な好きなことのために英語を使うのは少しも苦になりませんでした
状況に応じて必要な言い回しとか単語が無理なく頭に浮かんでくるのです
山登りなら英語を使うのが苦にならないとすればこうは考えられないだろうかと思いました
「仕事の内容自体に興味や関心があればその仕事を英語でするのは苦にならない」
つまり自分が興味や関心を持った仕事をすることが英語上達への近道ということです
ジョーとはとても親しくなりました
翌1989年の6月にジョーは10か月間のプログラムを修了してオレゴン州へ帰りました
その時ジョーとこの夏にオレゴンで再会する約束をしました
アメリカ西部へドライブに行く
国際部で仕事をして分かったことがもう一つありました
それは大学の教育システムが日本とアメリカではずいぶん違うということでした
授業は日本では1年間か半年単位ですがアメリカでは数か月と短期集中的に行われます
授業では大量の参考文献を読み何度もレポートを提出するが普通です
成績を決める基準はあらかじめ学生に伝えておくことになっています
国際部の業務に最初戸惑ったのは英語力だけの問題ではありませんでした
日米の教育システムの違いを理解していなかったことにも原因があったのです
この頃ボイヤーという人が書いた『アメリカの大学・カレッジ』を読みました
そしてアメリカの大学の教育システムの背景には大学評価制度があることを知りました
アメリカへ行っていくつか大学を訪問しこの目で実際に教育現場を見てみようと思いました
そこでこの夏にジョーに会いに行った際にアメリカ西部の大学も訪れることにしました
それだけでなくロッククライミングや国立公園でのキャンプもしようと思いました
アメリカ西部をレンタカーで周ると走行距離は何千㎞にもなるでしょう
そう考えるととてもワクワクしてきました
こうして1989年7月10日から7月28日までアメリカ西部のドライブにでかけました
結局訪問した大学は南カリフォルニア大学一校だけでした
それもキャンパスツアーのグループに加わって見ただけのことです
あとは国立公園をいくつも訪れました
ザイオン、ロッキーマウンテン、グランドティトン、イエローストーン、
クレーターレーク、ヨセミテ、レッドウッド
もちろんジョーとも再会しキャンピングとロッククライミングを共にしました!
1989年7月 ジョーとクレーター・レークのキャンプ場で |
レンタカーで7,000㎞以上走りました
ドライブしたところ |
1989年7月 ジョーの家族や友人と |
また思いもよらずこの旅は30年後のヨーロッパ自転車旅の原型にもなりました
国際部での仕事
前の職場では事務作業のコンピュータ化を担当しました
完全な手作業だった科目登録や成績や学籍の管理を機械化したのです
この経験は国際部の事務作業を半分機械化するのに役立ちました
また事務所の業務の能率化だけでなく私自身の仕事への理解も深まりました
国際部ではアメリカの教育システムをもとに英語で授業が行わています
なので職員はその教育システムを理解しそれを英語で扱えなければ一人前といえません
1989年の秋頃からアメリカの高等教育に関する本を読みはじめました
国際部での仕事も2年目に入りだいぶ様子が分かってきました
そうすると英語の方も徐々に口から出てくるようになりました
まだ思うことすべてをよどみなくというわけにはいきません
それでも垣根は徐々に低くなってきている感じはありました
試しに派遣する留学生が受けるTOEFLという英語の検定試験を受けてみました
すると派遣の最低基準である480点はクリアできました
この調子で勉強していけば仕事も英語もなんとかなる気がようやくしてきました
職場の昼休みに皆さんが職員の海外研修プログラムについて話していたことがありました
海外で生活しながら自分の設定したテーマについて最長1年間勉強できるプログラムです
皆さんが話題にしていたのは今年そのプログラムに選ばれた人とテーマでした
そういうチャンスもあるのかとその時はまだ他人事のように聞いていました
初めての海外出張
たしか1990年の国際部プログラムも終わりに近づいた6月頃だったと思います
U事務長からこの夏に一人で三週間ほどアメリカに海外出張するように言われました
行先は中西部、南部、東部のいくつかの協定大学です
交換留学生には中西部コー・カレッジでのオリエンテーションへの参加を課していました
まずそのプログラムに学生と共に参加して実体験してくるようにとのことです
またコー・カレッジのある中西部には他にも個性的なカレッジがたくさんあります
それらをなるべくたくさん訪問してくるようにも言われました
もうひとつは協定校の中でもとりわけ重要な三つの大学を訪問することです
アーラム大学、ミズーリ州のワシントン大学、そしてジョージタウン大学です
国際部プログラムの担当者として相手方大学の担当者と面識を得ておくようにとのことでした
国際部へ異動して2年過ぎたばかりでこのような機会を与えられるとは思っていませんでした
昨年の今頃はまだ仕事も英語もおぼつかなかったことを思うと夢のようです
精一杯の準備をしてぜひこの出張を実りあるものにしようと思いました
業務で海外に出張するのは初めてでしたので手続きは分からないことばかりでした
飛行機や宿泊先や面会の予約を先輩に教えられながらひとつひとつ自分でやりました
こうして1990年7月30日から8月20日までアメリカに出張しました
コー・カレッジでのプログラムではいろんなことを知ることができました
まず留学生が協定校で学び始める前の語学と文化についての学習内容が理解できました
またアメリカでの大学教育がどのように行われているかも垣間見ることができました
アメリカのカレッジの学生は専門に捕らわれず幅広い科目=リベラルアーツを勉強します
学生数は1,000から1,500名程度と小規模で全寮制が一般的です
大抵は辺鄙な田舎町にありますがレベルは高く卒業後に大学院へ進学する学生が大半です
コー・カレッジでの勉強の合間にレンタカーでそれらのカレッジを訪問しました
訪れたカレッジの人は親切に学内を案内してくれました
それぞれがユニークで手厚い教育をしていることが印象的でした
その教育システムは大学評価制度によって質が保証されているのでした
1989年7月 グリンネル・カレッジで |
コー・カレッジでの滞在はあっという間に過ぎました
学生たちとはソフトボールやサッカーをしたりホームステイやピクニックにも行きました
学生の引率というよりは自分も学生に戻った気分でプログラムを楽しんでしまいました
コー・カレッジを離れる時には幾人かの女子学生が目を赤くして見送ってくれました
Field of Dreams のロケ地で 1990年8月 |
そのための宿泊や交通機関には問題ありませんでした
気になっていたのは訪問した際の面談でした
各校を訪問した際にシニア(上級)の教職員と面会する予定なのです
今の英語力と知識だけでは面談で立ち往生することが目に見えていました
こちらからいくつも質問をしてなんとか切り抜けようと思いました
質問に答えてもらっている間はあいづちを打っていればいいですからね
面談に備えて質問事項をあれこれ考えているうちに一つ尋ねてみたいことを思いつきました
その大学がわたしをインターンとして一年間受け入れてくれる可能性があるかどうかです
コー・カレッジでの二週間の体験が私の好奇心の扉を開きました
早大職員の海外研修プログラムに応募しようという気持ちが湧き上がってきました
そしてどうしたらプログラムに採用されるだろうかと考え始めました
プログラムに採用されるには十分な英語力と重要なテーマが必要です
そのテーマとして協定大学でのインターンシップはどうだろうかと考えました
インターンシップを通じて教育システムを理解し早大職員の業務にフィードバックする
そのインターンの受け入れ先となってくれる大学があるか直接聞いてみよう思ったのです
まだ研修プログラムに採用されたわけでもないし上司に相談もしていません
明らかにフライングでしたがこんなにいい機会はもう無いだろうと思いました
思い切ったことをしようとしている自分を自分で励ましました
アーラム大学の教務部長は国際教育に非常に熱心な方でした
縁のある早稲田大学からの訪問者ということでいろいろ熱心にお話をしてくれました
その話の半分を理解するのがやっとでした
お会いしているあいだ背すじを汗が流れ続けていました
結局インターンシップのことは言い出せずじまいでした
ワシントン大学では日本研究科の教員の方が歓待してくれました
ご夫婦でワシントン大学に勤めるかたわら子育てをしていてとても忙しい様子でした
いきおい特別なことをする暇は無いようでご家族と一緒にお宅で食事をさせてもらいました
それがとても自然で失礼などでは全くなくかえって相手の気持ちがよく伝わってくるのでした
自分もこのようにありたいと思わせてくれるような人たちでした
ワシントン大学で 1990年8月 |
そうすると「ワシントン大学の○○博士に○○の内容の手紙を書きなさい」とのことでした
そのアドバイスが具体的だったのでもう半ば受け入れられたような気になりました
最後にワシントンDCにあるジョージタウン大学を訪問しました
土地柄もあり国際関係のプログラムが充実していて早大生にも人気がある協定大学です
ジョージタウン大学で留学中の学生と 1990年8月 |
その大学の国際教育プログラムの責任者の方と面会しました
交換留学プログラムについてお話しした後に尋ねてみました
「私が海外研修プログラムに採用されたらインターンとして受け入れてくれますか」
唐突な質問に少し面食らった様子でした
それでも「採用されたら連絡をください」と言われました
これは受け入れてくれる可能性があるということだと理解しました
海外研修プログラムに応募
アメリカ出張で得た感触に気を良くして研修プログラムに応募する準備を本気で始めました
ポイントは二つで一つは英語力もう一つは業務に密接した研究テーマの設定です
英語力はTOEFL500点以上が必要でしたがこれはもうクリアしていました
研究テーマについて協定校でのインターンシップはどうでしょうかとU事務長に相談しました
U事務長からはっきり言われました
アメリカの大学でただインターンをするだけでは成果が見通せない
大学院で大学教育関連のことを学び修士号が取れれば成果は明白だ
修士号の取得には通常2年かかるが場合によっては1年でも不可能ではない
アメリカの大学院修士課程に入学するにはTOEFLは最低550点以上が必要です
もっと英語力を高める必要がありましたがそれはそう困難ではないと思っていました
何回か試験を受けて565点が取れました
数校の大学院からカタログを取り寄せてプログラムを検討してみました
関心を持ったのはその名も「高等教育」というプログラムです
大学をはじめとする高等教育機関で将来リーダーシップをとる人たち向けのプログラムです
内容は高等教育の歴史から始まって組織運営、プログラム評価、人材育成などでした
このプログラムを置いている大学院はアメリカ全土に多数ありました
そこでこのプログラムで修士号を取得することを海外研修の目的にしました
1991年の秋ごろに研修プログラムに応募したところ幸運にも採用されました
難しいのはどこの大学院で学ぶかを決め入学許可を得ることでした
20ほどの大学院から資料を取り寄せて検討してみましたがなかなか決められません
どこの大学院のプログラムもそう違いないように見えるのです
いろいろ考えた結果オレゴン大学がいいかなと思うようになりました
勉強するかたわら近くで山登りやスキーが楽しめるのが魅力です
家族と共に行くので生活環境がいいことは大切です
これについてU事務長からポートランド州立大学(PSU)はどうかと聞かれれました
そのころ早稲田大学は海外キャンパスの取得を検討していました
オレゴン州はその有力な候補地でポートランドは州最大の都市です
オレゴン大学には高等教育のプログラムがありますがPSUにはありません
PSUの修士課程を調べてみると成人教育に関するプログラムがありました
研究テーマをこちらに変更してPSUの大学院に応募し入学許可を得ることができました
こうして一年間アメリカの大学院に留学することになったのです