1982年5月31日月曜日

人生のリセット 1980年4月1日~1982年5月31日

経理課への配属
わたしたち新入職員10名は配属前に2か月の研修を受けました

研修は新入職員にとっては大学を幅広く理解する機会になります
大学にとってはそれぞれの新入職員の適性を見極め配属先を決める期間になります
そのように考えられているはずでした

研修の最終日に一人ずつ別室に呼ばれて配属先を言い渡されました
人事の担当者から行先を聞かされた者が一人ずつ待機している部屋に戻ってきます
ニコニコしている者や半べそをかいている者ムッとしている者などいろいろです

わたしはまったく予想もしていなかった経理課へ配属になりました
なぜこのわたしが経理課なのか?
わたしは自分の顔を指さして首を傾げました

大学の職員といってもいろいろな種類の仕事があります
学生数が4万人という規模の大学であれば仕事の内容は多種に細分化されます

大学職員の仕事とは一言でいえば教育と研究を支える業務です
それは学生や教員の直接的なサポートにはとどまりません
人事、総務、経理といった大学という法人自体の管理も職員の仕事に含まれるのです

大学の職員になるということはそのようなさまざまな業務のどれかを担うということです
そのどれを担うのかを自分で決めることはできません
自分の配属先についてとやかく言うことはできないというのが建前です

とはいえこのわたしがなぜ経理課員に選ばれたのでしょう?
就職浪人までしてたどり着いた仕事は想像もしなかった種類のものでした
落胆とは言わないまでも興味関心のまったく湧いてこない分野でした

大学職員への採用が決まった時はこれで一生安寧な暮らしができると安堵しました
そう思ってから半年後にこのような現実に直面したのです

経理課での仕事
わたしがやるのは大学内の各箇所が何にいくら使ったかを管理する仕事でした
箇所とは学部や研究所など予算を管理する単位になる組織のことです

各箇所の経理担当者が領収書や請求書を持ってやってきます
とりあえずはその領収書や請求書に記載漏れなどがないかチェックして受け取ります
こうして溜まった領収書や請求書を支払処理します

まず物品名、金額、支払先を費目ごとの分厚い帳簿に記入します
費目とは備品とか消耗品とかの区分です
すべての記入が終わったらその額をその箇所の予算から差し引いて残額を記入します
その後出納課から個人または業者の口座に現金が振り込まれます

これを毎月繰り返すのでした

この仕事は細かいところまでやり方が決まっていました
計算には電卓ではなく必ずソロバンを、記入には青インクの万年筆を用います

仕事は絶えず注意深くおこなうことが求められました
予算の総額は巨額ですがその会計処理においては1円のミスも許されません

月に一度の業者払いでは大量の請求書をいっぺんに処理しました
一週間ほど連日夜八時九時までの残業になりました


わたしはこの仕事をどうしても好きになれませんでした


まずソロバンがおぼつきません

決まりきった作業も苦手でした

いきおいミスを連発しました


それは帳簿への転記ミスとか計算違い(これは「サンチ」と呼ばれていました)です

いずれも単純で明白なミスです

ソロバンでの計算と長時間の集中ができず注意が散漫になるのが原因でした


毎月の支払処理とは別に年度の途中と年度末にあった会計士監査も苦手でした

監査では支払処理の状況について会計士から資料や説明を求められました

それに的確に対応ができず職場の先輩や上司に代わってもらうことがたびたびありました


業務の電算化
このようなわたしの困惑とは別の次元で経理の仕事には大きな流れが押し寄せていました
大学の会計処理の電算化です

大学は創立以来一世紀にわたって経理業務を手作業でやってきまし
それをこれから数年後に電子計算機にやらせようというのです

電算化は国際化とともに1980年代から90年代にかけて大学業務改革のキーワードでした
そのための要員として若い大学職員が求められました
わたしはいや応もなくその流れに巻き込まれたのでした


三重のくびき

金の計算に興味も能力もないわたしは経理課での三つのくびき立ち往生しました


一つ目のくびきはソロバンでした


工業高校では計算尺を習いましたがソロバンはほとんど手にしたことがありませんでした

経理課の人たちはソロバンの熟達者ぞろいでした

目にも止まらない速さ(とわたしは見えました)で計算します


経理課での日常の計算はほとんどが加減算でそれ自体難しいものではありませんでした

それでも桁数が大きかったので初心者にはハードルが高かったのです


ことに誰かに手許を見詰められているとたどたどしい指の運びが余計にあやしくなりました

大学卒の経理課員であることがより緊張を高めて「サンチ」を繰り返しました


二つ目のくびきは電算化でした


今は学校会計ソフトが市販されていて数値を入力するだけで会計処理ができます

40年前にはそのような市販ソフトはありませんでした

電算化とはコンピュータ言語を使って会計処理をプログラミング化し実行することでした

つまりソフト自体を作り上げるいわゆるシステム開発も含まれていたのです


そのためN電気のシステムエンジニアと経理課メンバーとの打合せが繰り返されました

わたしもそのメンバーに加えられました

日々の会計処理すらまともにできないわたしが電算化を議論できる余地はありませんでした


わたしはソロバンの上達とコンピュータ言語の理解に同時に臨みました

アナログとデジタルを組み合わせた修練は滑稽と言っていいほど困難でした


そして三つ目のくびきが職場環境でした


狭い部屋に机を並べて座り話し声も挙動も吐息もいっさいが課内で共有されました

このような環境をアットホームと感じていた人もいたようです

わたしには職場での時間が長く息苦しく感じられました


一世紀近くもの年月をかけて形成された職場の習慣は有無を言わさずそこにありました

給料生活者として生きる以上はそこから逃れることはできません

それなのにいつまでたってもそこに身を寄せきれない自分がいました


働くということ

そんな中で勤務を続けたわたしは働くということについて改めて考えざるをえませんでした

ここで働くことの息苦しさの原因は一体何だろうとあれこれ考えました

そのような折に黒井千次という人が書いた『働くということ』という本を読みました

その頃使っていたソロバンと読んだ本

そこには苦悩するわたしの姿が写し絵のように描かれていました

こういうことは世の中にふつうにあるのだと思いました


ほんの一年前には人から「いいところに就職したね」と言われた自分でした

100%ではないにしろ自分自身も「そうなのかな」と思っていました

そして今は配属後の仕事に満足できずまっとうにこなすこともできず悶々としています


ミスを繰り返してはきまりわるそうにしている姿は人の目にもとまりました

ささいなことは気にせずにどんどん乗り越えていけばいいのだと人から言われました

自分でもそう思わないこともありませんでした


たかがソロバンじゃないか

たかが電算化じゃないか

たかが人づきあいじゃないか


そうは思っても心の底から湧き上がってくるものはありませんでした


気の染まない仕事や組織に自分を合わせていくのにもおのずと限界がありました

経理課に配属されて一年が過ぎわたしはその限界を破ろうと試みました


インドへの旅

経理の仕事への戸惑いのかたわら山登りやスキーは機会は減ったものの続けていました

それも次第にうまくいかなくなりました

山やスキーへ行く回数や日数の減少とともにやる気もレベルも低下していったのです


学生生活は労働と遊山と勉学の三本立てでした

それが就職してからは労働と遊山の二本立てに変化しました

これによって労働と遊山はもっと充実してもいいはずでした

じっさいには労働のボリュームが大きくなり遊山には身が入らなくなってしまいました


わたしはこの状況をなんとかしようと思いました

労働の方は例の三重のくびきが重くて簡単ではないので遊山の方を打開しようとしました

自分にできる何か胸がすくようなことがしたい

そんな気持ちだったのです


夏休みにヒマラヤへ行き高峰からスキー滑降することにしました


三年前にわたしは高校時代の山岳部の友人とスキークラブを立ち上げました

そのクラブにはほかにも山好きなメンバーが何人かいました

そのメンバーとインド・ヒマラヤの6000m峰からスキー滑降する計画をたてたのです


この計画は周囲からは唐突ないしは無謀だと見られました

わたしは不可能な計画だとは思っていませんでした


数年前にヨーロッパ・アルプスで標高5000m近いピークに登りました

春に富士山頂から五合目までスキー滑降をしたこともあります

こうした経験からすればこの計画は自分の可能性の範囲内だと思っていました


クラブ内から同行を希望するメンバーも現れたので彼らと何回か訓練山行に出かけました


この計画の実行に必要な1か月の休暇はどうにか認められました

休暇中は同じデスクの人たちがわたしの仕事をカバーすると申し出てくれたのです


ビザの取得、何種類もの予防接種、航空券の手配と準備を進めました

そうこうしているうちに同行予定のメンバーが行けない言い出しました

どうしても休暇が取れないというのです


こうなったうえは自分だけでやるしかないと思い一人成田を飛び立ちました

結果は6000m峰に立つことすらできずインド各地を旅しただけで帰ってきました

インド亜大陸周遊 1981年8月2日~9月1日

インドで

実家が不審火で全焼

インドから帰ったあともさえない日々が続きました


1982年1月に妙高高原へ友人とスキーに出かけました

そこから帰るとめずらしく下宿に姉から電話が入りました

横浜の実家が全焼したというのです


住んでいた両親、兄の3人とも無事で近所のアパートに避難しているといいます

隣りのお婆さんは逃げ遅れて亡くなったとのことでした


翌日仕事を休んで横浜へ行きました

家はすっかり焼け落ちてあたりには鼻を衝く火事場独特のにおいが漂っていました

お婆さんの家もその隣の家も全焼でした


わたしの机があったプレハブハウスのあたりを棒でほじくり返してみました

小学生のころに集めた鉄道キップを貼りつけたノートがすこし焦げた状態で見つかりました

それだけを手にしてわたしは両親たちが避難しているアパートへ向かいました


消防と警察の調査によればこの火事の原因は不審火らしいとのことでした

わたしはわずかばかりの蓄えを両親に渡しました


人生のリセット
仕事での三重のくびきとインド・ヒマラヤでの失敗と実家の焼失は重くのしかかりました
これらに加えて1982年の春先から体調が不安定になってきました

就職活動の頃に患ったみぞおちから腹部にかけての痛みがまたぶり返してきました
それに加えて夜によく寝られないようになりました

仕事だけはなんとか休まないようにしました
それでも同じデスクの人にはさえない顔色も減退した食欲も隠しようがありませんでした

その頃大学職員の山登りサークルで知り合ったWさんという人がいました
彼とはそのサークルのスキー山行で一緒に尾瀬に行ったことがありました
彼は研究所の経理を担当していたので伝票の送達のためよく経理課に出入りしていました

年度末のある日に彼は経理課へやってきました
前より一層さえないわたしの様子を見て課内の全員に聞こえるような声で彼は言いました

「ここにいたんじゃだめだ。どこかよそへ異動した方がいい。クビになるわけじゃないし」

Wさんの言葉をうつむいて聞きながらわたしは「やっぱりそうなのかな」と思いました
「自分でリセットしないと」

社会科学部へ異動

1982年のゴールデン・ウィーク前のことでした

わたしは上司に職場を変えてほしいと願い出ました

理由は腹痛と不眠が続くためです


そして2年前に卒業したばかりの社会科学部の事務所へ6月に異動することになりました