1979年4月1日日曜日

就職浪人 1979年4月1日~1980年3月31日

就職という壁
1978年の秋頃からわたしは就職をどうするか悶々としていまし

多くの同級生は来年3月に卒業し就職します
わたしも卒業に必要な単位は十分取れる見込みでした
またこの秋に磯工に教育実習へ行ったので申請すれば教員免許状がもらえる予定でした

肝心の就職先が決まっていませんでした


公立高校の教員採用試験がこの夏にありました

わたしはヨーロッパアルプスへ行ったのでその試験は受けられませんでした

それは承知で出かけたのでした


教員になれるのは早くても大学を1年留年した後になります

わたしはもう高校の社会科教員になるのをなかば諦めていました

かといって教員以外の就職先については何にも興味が持てず就職活動はしていませんでした


そのうちに空腹時にみぞおちの辺りに経験したことのない痛みを感じるようになりました


スキーをしに神城山荘に滞在しているときは毎晩酒を飲んでワイワイと騒いでいました

それがその腹痛のためにぜんぜん酒を飲みたくなくなってしまいました


そんな様子を見たA先生は「どうした?」とわたしをからかいました

最も信頼していた人にこのような言い方をされてとてもがっかりしました

神城山荘

わたしはここまで大学生活を大いに楽しんできたと思っていました

それが今になって就職という厚い壁の前に立ちすくんでいました


わたしが大学に進学したのは高校の社会科教師になるためでした

しかし大学に入学したあと教師という職業が自分に向いていないような気がしてきました

ことに教育実習で指導の教員から良く評価されなかったことで希望も自信もなくしました

高校教師以外に希望する就職先も思い当たりませんでした


同級生が就職活動をしている4年生の夏にわたしはヨーロッパアルプスへ山登りに行きました

それはわたし自身就職することに気が乗らなかったからでもあったのです

そのようなわたしのまわりに就職を親身に心配してくれる人がいないのは当然でした


就職浪人することを決める

大学を卒業したら学生職員は辞めなければなりません

すると何かアルバイトをしながら仕事を探すことになります

現在の体調と精神状態からするとそれはとても難しいことになると思いました

どうしたらいいのだろう

自分の行く末が見えず暗澹としていました


体育局でも仕事に身が入りませんでした

わたしが就職で悩んでいるのがまわりの人たちにも伝わったのだと思います

見かねた最年長のYさんがアドバイスしてくれました

「就職活動がうまく行ってないならT事務長にお願いしたらどうだい」

「もう1年間学生職員をやらせてもらいその間に就職活動するという手もあるよ」


わたしはそうするしかないと思いT事務長にお願いしました

T事務長はわたしが就職活動のために5年生になり学生職員を続けることを認めてくれました


地方公務員を目指す

わたしはあらためてどんな職種を目指して今後の就職活動を進めるか考えました


まず高校教員になることは完全に諦めました

次に利潤追求は信条に反するので民間企業は就職活動の対象にしないことにしました


このように消去法で考えた結果、残った選択肢は公務員になることでした


地方公務員になって横浜に戻ろうと思いました

公務員は利潤追求ではありません

また身分が安定しているので、山登りやスキーなどの趣味も続けられます

いずれも前向きな理由ではありませんが、どうにか生活の糧を得なければなりません

見切り発車的に公務員試験に向けた勉強を始めました


志望先を神奈川県と横浜市の上級職に絞って受験対策の勉強をひとりでやりました

憲法や行政法の勉強はそれ自体結構面白いものでした

学生職員の勤務が終わった後、毎夜大学図書館で閉館まで勉強しました


地方公務員の受験に失敗する

1979年の夏に地方公務員の第一次試験である学科試験を受験しました

神奈川県は不合格でしたが横浜市のほうは合格しました


第二次試験は面接試験でした

面接官からどんな質問がされるのか全く予想がつきませんでした

磯工の同級生で神奈川県庁や横浜市役所に勤めている友人に会ってアドバイスを求めました

すると彼らは異口同音に言いました

「学科試験に合格したのなら、面接試験は人物を確かめるだけなので準備の必要などない」

それは良かった、ともう合格が決まったかのように友達と酒盛りをしました


その数日後わたしは気分も軽く横浜開港記念館で行われた横浜市役所の面接試験に臨みました


控室で順番を待っていると中学の時に同じバスケットボール部だったSさんがそこにいました

Sさんは1学年上のとびきりの秀才で横浜市立大学に進学したという噂でした

そのSさんとわたしが同じ面接試験を受けるのかと急に不安になりました

その一方で合格したらこのとっつきのわるいSさんと同じ職場になるのかと思いました

もう合格したあとのことを考えていたのです


面接室に入ると人物を確かめるだけにしてはいかめしい顔をした面接官が二人座っていました

席に着いたわたしに二人は質問をしました


「現在横浜市は厳しい財政状況にありますがご存じですか」

「そのような状況下で下水道などの社会資本の整備の規模はどの程度にすべきと考えますか」


このような質問をされたと思います

わたしは全く予想もしなかった難問に動揺しました

どのように答えたのかほとんど記憶にありません

おそらくあらぬことを口走ったのだと思います


試験の最終結果は不合格でした

Sさんと同僚になるという懸念は杞憂に終わりました


再度の進路変更

わたしはまた途方に暮れました

公務員になって横浜へ戻るという願いはかなわないことになりました

民間企業を就職活動の対象から外していたことが自分を逆境に陥らせることになりました


唯一の望みは「山と渓谷社」という登山関係の出版社だけでした

わたしは月刊誌の「山と渓谷」を高校時代から愛読していました

それでこの会社だけを例外として応募し筆記試験までパスしていました


その「ヤマケイ」だけでなくどこか新たに民間企業で就職先を探した方がいいと思いました

しかし自分の気に染まないことには身が入りませんでした

大学の就職課へ行っても求人掲示を力のない目で眺めるだけでした


大学職員になる決心

1979年の晩夏、わたしは重なる困難を打開する案も浮かばないまま学生職員を続けていました


ある日、T事務長と何かの話しをしていてこういわれました

「もし大学の専任職員になりたいのであれば人事部に推薦してあげてもいい」


わたしは学生職員の仕事をしていた間、職場の専任職員の働きぶりを見ていました

そしてこれは自分が一生をかけてやる仕事ではないと感じていました

大学では教員と学生が絶対的に重要な立場で、職員は裏方か良く言っても縁の下の力持ちです

そのような仕事に正直言って魅力を感じていませんでした


そうはいっても、わたしの就職活動はまったく見通しがたっていません

このままでは来年の春を無職のまま迎えるかもしれなません

それは避けたいというのがわたしの切実な願いでした


企業は新卒採用に年齢制限を設けていて大卒は24歳までと決めていました

そのためわたしが新卒として就職活動できるのは今年が最後なのでした


わたしは早稲田大学が好きだし大学の社会的な役割は重要だと思っていました

就職先としては申し分がないものの専任職員という職種が魅力的ではありませんでした

しかしこの期に及んでそんなことは言っていられないのではないかと思いました

大学の専任職員の仕事は、自分の働き方次第で変えていくこともできるだろう、と考えました


この時はこの判断がこれからさき何十年も重い意味を持ち続けるとは想像もしませんでした

妥協して目標を低くめたのだからというような気持ちがそこに潜んでいた思います

自分の能力をもってすればこの仕事は問題なくやっていける、というような思い込みです


「ご推薦よろしくお願いいたします」

わたしはT事務長に、学生職員への採用のとき以来もう何度目になるか、頭をさげました



大学職員の採用試験

筆記試験の日は理工学部キャンパスの試験会場へ戸山町の下宿から歩いて行きました


定員が数百人はありそうな大教室に入ると受験者が指定された席にびっしり座っていました

大学職員はこんなに人気があるのかと驚きました

この数では自分が採用される見込みは薄いだろうと思いました


筆記試験は適性検査と小論文でした

小論文のテーマは「処世の抱負」でした

漠然としたテーマだと思いましたがどんなことを書いたのか覚えていません


わたしは筆記試験に合格しました

つぎは面接試験でした


大学本部の会議室で行われた面接試験では10名ほど並んだ面接員たちから質問を受けました

どのようなことを質問されそれにどう答えたのか、これも定かではありません


T事務長の推薦がどう奏功したのかは分かりませんが後日大学から採用内定通知が届きました

わたしは大学に就職することに決め、山と渓谷社には応募を取り下げたい旨を伝えしました


すったもんだしたあげくこうして就職活動は終了しました

わたしは早稲田大学の専任職員として1980年4月から働くことになりました


父の言葉

横浜の両親は早稲田大学に就職が決まったことをとても喜んでくれました

父はわたしに「嫌なことがあっても決して仕事を辞めてはいけない」と繰り返し言いました


父は家族を連れて東北から横浜に出てきて色々な職業につきました

職業を転々としなければならない理由がいろいろあったに違いありません

より良い条件の仕事が見つかったのかもしれません

職場の人間関係が上手くいかなかったのかもしれません

父は自分自身のことはいっさい口にしませんでした

ただ「仕事を辞めてはいけない」と何度もわたしに言いました