1979年4月1日日曜日

就職浪人 1979年4月1日~1980年3月31日

就職という壁
1978年の秋頃からわたしは就職をどうするか悶々としていまし

多くの同級生は来年3月に卒業し就職します
わたしも卒業に必要な単位は十分取れる見込みでした
またこの秋に磯工に教育実習へ行ったので申請すれば教員免許状がもらえる予定でした

肝心の就職先が決まっていませんでした


公立高校の教員採用試験がこの夏にありました

わたしはヨーロッパアルプスへ行ったのでその試験は受けられませんでした

それは承知で出かけたのでした


教員になれるのは早くても大学を1年留年した後になります

わたしはもう高校の社会科教員になるのをなかば諦めていました

かといって教員以外の就職先については何にも興味が持てず就職活動はしていませんでした


そのうちに空腹時にみぞおちの辺りに経験したことのない痛みを感じるようになりました


スキーをしに神城山荘に滞在しているときは毎晩酒を飲んでワイワイと騒いでいました

それがその腹痛のためにぜんぜん酒を飲みたくなくなってしまいました


そんな様子を見たA先生は「どうした?」とわたしをからかいました

最も信頼していた人にこのような言い方をされてとてもがっかりしました

神城山荘

わたしはここまで大学生活を大いに楽しんできたと思っていました

それが今になって就職という厚い壁の前に立ちすくんでいました


わたしが大学に進学したのは高校の社会科教師になるためでした

しかし大学に入学したあと教師という職業が自分に向いていないような気がしてきました

ことに教育実習で指導の教員から良く評価されなかったことで希望も自信もなくしました

高校教師以外に希望する就職先も思い当たりませんでした


同級生が就職活動をしている4年生の夏にわたしはヨーロッパアルプスへ山登りに行きました

それはわたし自身就職することに気が乗らなかったからでもあったのです

そのようなわたしのまわりに就職を親身に心配してくれる人がいないのは当然でした


就職浪人することを決める

大学を卒業したら学生職員は辞めなければなりません

すると何かアルバイトをしながら仕事を探すことになります

現在の体調と精神状態からするとそれはとても難しいことになると思いました

どうしたらいいのだろう

自分の行く末が見えず暗澹としていました


体育局でも仕事に身が入りませんでした

わたしが就職で悩んでいるのがまわりの人たちにも伝わったのだと思います

見かねた最年長のYさんがアドバイスしてくれました

「就職活動がうまく行ってないならT事務長にお願いしたらどうだい」

「もう1年間学生職員をやらせてもらいその間に就職活動するという手もあるよ」


わたしはそうするしかないと思いT事務長にお願いしました

T事務長はわたしが就職活動のために5年生になり学生職員を続けることを認めてくれました


地方公務員を目指す

わたしはあらためてどんな職種を目指して今後の就職活動を進めるか考えました


まず高校教員になることは完全に諦めました

次に利潤追求は信条に反するので民間企業は就職活動の対象にしないことにしました


このように消去法で考えた結果、残った選択肢は公務員になることでした


地方公務員になって横浜に戻ろうと思いました

公務員は利潤追求ではありません

また身分が安定しているので、山登りやスキーなどの趣味も続けられます

いずれも前向きな理由ではありませんが、どうにか生活の糧を得なければなりません

見切り発車的に公務員試験に向けた勉強を始めました


志望先を神奈川県と横浜市の上級職に絞って受験対策の勉強をひとりでやりました

憲法や行政法の勉強はそれ自体結構面白いものでした

学生職員の勤務が終わった後、毎夜大学図書館で閉館まで勉強しました


地方公務員の受験に失敗する

1979年の夏に地方公務員の第一次試験である学科試験を受験しました

神奈川県は不合格でしたが横浜市のほうは合格しました


第二次試験は面接試験でした

面接官からどんな質問がされるのか全く予想がつきませんでした

磯工の同級生で神奈川県庁や横浜市役所に勤めている友人に会ってアドバイスを求めました

すると彼らは異口同音に言いました

「学科試験に合格したのなら、面接試験は人物を確かめるだけなので準備の必要などない」

それは良かった、ともう合格が決まったかのように友達と酒盛りをしました


その数日後わたしは気分も軽く横浜開港記念館で行われた横浜市役所の面接試験に臨みました


控室で順番を待っていると中学の時に同じバスケットボール部だったSさんがそこにいました

Sさんは1学年上のとびきりの秀才で横浜市立大学に進学したという噂でした

そのSさんとわたしが同じ面接試験を受けるのかと急に不安になりました

その一方で合格したらこのとっつきのわるいSさんと同じ職場になるのかと思いました

もう合格したあとのことを考えていたのです


面接室に入ると人物を確かめるだけにしてはいかめしい顔をした面接官が二人座っていました

席に着いたわたしに二人は質問をしました


「現在横浜市は厳しい財政状況にありますがご存じですか」

「そのような状況下で下水道などの社会資本の整備の規模はどの程度にすべきと考えますか」


このような質問をされたと思います

わたしは全く予想もしなかった難問に動揺しました

どのように答えたのかほとんど記憶にありません

おそらくあらぬことを口走ったのだと思います


試験の最終結果は不合格でした

Sさんと同僚になるという懸念は杞憂に終わりました


再度の進路変更

わたしはまた途方に暮れました

公務員になって横浜へ戻るという願いはかなわないことになりました

民間企業を就職活動の対象から外していたことが自分を逆境に陥らせることになりました


唯一の望みは「山と渓谷社」という登山関係の出版社だけでした

わたしは月刊誌の「山と渓谷」を高校時代から愛読していました

それでこの会社だけを例外として応募し筆記試験までパスしていました


その「ヤマケイ」だけでなくどこか新たに民間企業で就職先を探した方がいいと思いました

しかし自分の気に染まないことには身が入りませんでした

大学の就職課へ行っても求人掲示を力のない目で眺めるだけでした


大学職員になる決心

1979年の晩夏、わたしは重なる困難を打開する案も浮かばないまま学生職員を続けていました


ある日、T事務長と何かの話しをしていてこういわれました

「もし大学の専任職員になりたいのであれば人事部に推薦してあげてもいい」


わたしは学生職員の仕事をしていた間、職場の専任職員の働きぶりを見ていました

そしてこれは自分が一生をかけてやる仕事ではないと感じていました

大学では教員と学生が絶対的に重要な立場で、職員は裏方か良く言っても縁の下の力持ちです

そのような仕事に正直言って魅力を感じていませんでした


そうはいっても、わたしの就職活動はまったく見通しがたっていません

このままでは来年の春を無職のまま迎えるかもしれなません

それは避けたいというのがわたしの切実な願いでした


企業は新卒採用に年齢制限を設けていて大卒は24歳までと決めていました

そのためわたしが新卒として就職活動できるのは今年が最後なのでした


わたしは早稲田大学が好きだし大学の社会的な役割は重要だと思っていました

就職先としては申し分がないものの専任職員という職種が魅力的ではありませんでした

しかしこの期に及んでそんなことは言っていられないのではないかと思いました

大学の専任職員の仕事は、自分の働き方次第で変えていくこともできるだろう、と考えました


この時はこの判断がこれからさき何十年も重い意味を持ち続けるとは想像もしませんでした

妥協して目標を低くめたのだからというような気持ちがそこに潜んでいた思います

自分の能力をもってすればこの仕事は問題なくやっていける、というような思い込みです


「ご推薦よろしくお願いいたします」

わたしはT事務長に、学生職員への採用のとき以来もう何度目になるか、頭をさげました



大学職員の採用試験

筆記試験の日は理工学部キャンパスの試験会場へ戸山町の下宿から歩いて行きました


定員が数百人はありそうな大教室に入ると受験者が指定された席にびっしり座っていました

大学職員はこんなに人気があるのかと驚きました

この数では自分が採用される見込みは薄いだろうと思いました


筆記試験は適性検査と小論文でした

小論文のテーマは「処世の抱負」でした

漠然としたテーマだと思いましたがどんなことを書いたのか覚えていません


わたしは筆記試験に合格しました

つぎは面接試験でした


大学本部の会議室で行われた面接試験では10名ほど並んだ面接員たちから質問を受けました

どのようなことを質問されそれにどう答えたのか、これも定かではありません


T事務長の推薦がどう奏功したのかは分かりませんが後日大学から採用内定通知が届きました

わたしは大学に就職することに決め、山と渓谷社には応募を取り下げたい旨を伝えしました


すったもんだしたあげくこうして就職活動は終了しました

わたしは早稲田大学の専任職員として1980年4月から働くことになりました


父の言葉

横浜の両親は早稲田大学に就職が決まったことをとても喜んでくれました

父はわたしに「嫌なことがあっても決して仕事を辞めてはいけない」と繰り返し言いました


父は家族を連れて東北から横浜に出てきて色々な職業につきました

職業を転々としなければならない理由がいろいろあったに違いありません

より良い条件の仕事が見つかったのかもしれません

職場の人間関係が上手くいかなかったのかもしれません

父は自分自身のことはいっさい口にしませんでした

ただ「仕事を辞めてはいけない」と何度もわたしに言いました



1979年3月31日土曜日

かたる 日本語 経済学方法論にまつわる宇野氏といわゆる正統派の論争について

経済学方法論にまつわる宇野氏といわゆる正統派の論争について

 -昨年度のゼミ論からの展開として-


目次

序章 昨年と今年のゼミ論の結びつき

  1. 日本資本主義論争と宇野理論

  2. 宇野理論における段階論の定立に対する批判

    1. 見田石介氏

    2. 小林茂氏

終章 ゼミ論文を完結するにあたって


序 章 昨年と今年のゼミ論の結びつき

わたしは、昨年度のゼミ論文において、日本農業における「経済外的強制」について考察した。というのも、日本の封建的な社会が生み出した「経済外的強制」が、明治維新以降の社会の近代化に伴ない、どのように変質あるいは発展あるいは消滅していったのかが疑問だったからである。

この問題を考える際の方法として、まず第一に、「経済外的強制」に関する2大見解が、どのような歴史的背景をもって有力になってきたか、という点について正しい認識を持つ必要があると思った。なぜなら、日本農村における「経済外的強制」の実態は、ただたんに農業内部における生産関係だけをながめただけでは、本質的な問題の把握にまでは到達できないという根の深い、複雑な要素をあわせもつものであるからである。だから「経済外的強制」について考えるためには、まず経済一般について正しい認識がなされていなければならない。この経済一般とは具体的にいえば、ここでは明治維新の歴史的意義とその後の一連の近代化諸政策の性格づけ、ということになろう。このことについては、マルクス経済学内部においても大きく分けて2つの見解によって代表されていた、とするのが通説であった。そうすると、そのことと相互不可分の密接な関連性を有する「日本農村における『経済外的強制』」について考察するためには、いわゆる講座・労農両派の日本資本主義論争をあらかじめ概観しておく必要があったわけである。

第2の作業は、「経済外的強制」が「資本論」そのものの中においては、どのような脈絡のもとに定義づけられているかを知ることであった。経済学の分野において「経済外的強制」という概念が考察される場合には、「資本論」におけるそれが、強い影響を与えていることは疑う余地がない。「資本論」における「経済外的強制」はいうまでもなく封建的な生産関係におけるところのそれであった。

わたしが考察しようとした「日本農村における『経済外的強制』」は、日本の社会構造が明治維新を境として急激な変化を見せることから、明治維新以前・以後という2段階に分けて検討されるべきものであった。そこでマルクスが「資本論」で検討した「経済外的強制」をみたのちには、第3の作業として明治維新以前の社会ではどのような形態をもって「経済外的強制」が実存したか、を検討することであった。もっとも徳川時代を封建社会としてとらえることは通説であるから、その社会において存在した「経済外的強制」の実態を把握する作業は、迷う点が少ないという意味において困難ではなかった。わたしはこの段階で土屋喬雄氏の「日本経済史概説」における見解を引用したのであるが、今になって思いかえせば、この段階の経済社会に対する理解のしかたのちがいが、明治時代の日本農業を考えるうえで、問題のとらえ方の差となって現れることに気づかず、きわめて不充分なものであった。そうはいうものの、わたしがゼミ論で述べようとした点は、主に明治維新以降の日本農村における「経済外的強制」であるから、やむをえなかったともいえる。

このように完全とはいえないまでも準備段階的な作業を終えて、いよいよゼミ論文の主題そのものの検討に入ったわけである。この第4の作業では講座・労農両派の見解を検討した。その内容は別に目新しいものではなかった。というのもこの問題については既に両派の論客が多数論文を発表しているので、それらを概括的に整理したという域を出ないものであったからだ。しかし、これはこれでわたし自身の勉強にもなったから、あながち無駄であったともいえない。

現時点においては、講座・労農両派の論争は既に過去のものとなりつつあり、戦後はむしろ論争そのものよりも、講座・労農両派の理論的ないきづまりが、どのような理論的欠陥から出発しているか、という点に考察が進展しているようである。この点を代表する理論として、宇野氏独自のそしてまた一派を形成する宇野理論がある。そこで、次に宇野氏自身の日本資本主義論争に対する見解を若干見ておきたいと思う。

宇野氏は論争の中心点は日本の農業問題であると断定し、さらに両派の見解を総括的に解釈している。すなわち、講座派は、小作料は封建遺制であるととらえ、また、労農派は、明治の農村を、封建的遺制を多分に含蓄しているとしても、資本主義の発達と共に商品経済的規定を免れないものとして経済学的に分析しようとした。このことをいま少し詳細にいえば、講座派は地主が天皇を頂点とする政治的勢力を背景にして封建時代から続く効率の現物小作料をいわば経済外的に強制するものとした。一方、労農派は、日本の資本主義の後進性のために農村の過剰人口、土地に対する競争を通して、地主にそういう旧来の小作料をも要求し得る地位を与えるのであって、資本主義の一層の発展は、漸次にその関係を改変するものとした。そうして結論的には「何か西欧諸国の資本主義は『資本論』のような原理論に現れる階級関係をそのまま実現しているのに対して、日本では到底そういう関係の実現は不可能と見るか、あるいはまた漸次には実現されるとみるか、とにかく『資本論』のような原理論は、資本主義が充分に発達すればそのままに展開されるように考える考え方が依然として支配的に残ったのである。」

このように宇野氏は、講座・労農両派の理論的欠陥を批判している。その欠陥というのはひとことでいえば「段階論の欠如」である。「段階論の欠如」が、一体どういった問題を生じさせたかという点については後で検討するとして、ここでは何故宇野理論についてゼミ論文でとりあげるかということを、もう一度はっきりさせておきたい。

わたしは、昨年のゼミ論文で述べた「日本農村における経済外的強制」と起点として、現在のマルクス経済学内部の対立の問題の一端に触れてみたいという意図をもって今年度のゼミ論文を書きあげたいと思う。

昨年度のゼミ論文は、決して満足のいくものではなかった。というのも、講座・労農両派の論争を一応止揚するものとして立ち現れた宇野理論について、ほとんど何も検討することができなかったからである。そこで、経済学方法論にまつわるいわゆる正統派と宇野理論の、特に段階論の方法について検討することが今年度のゼミ論の目的である。


  1. 日本資本主義論争と宇野理論

宇野氏自身は、日本資本主義論争について立ち入って見解を表明してきたわけではなく、むしろ傍観していたといった方が正しいように思われる。しかし宇野理論の体系化に際して、日本資本主義論争が与えた意義は非常に大きく、宇野氏がこの論争についていかなる評価を持っているかを見ておくことは、宇野3段階理論について検討するための準備として重要である。

講座・労農両派の論争が正しい方向に向かわなかったことの原因を宇野氏は次のように分析している。

「・・・戦前の日本資本主義論争は、その点をよく示している。いわゆる講座派も労農派もその点(資本主義の基本的規定で直ちに日本資本主義を分析できるとした点=筆者注)はあまり明確ではなかった。どちらも『資本論』で直ちに解明しうるように思っていた。そこには根本的な難点があった。『資本論』自身は資本主義の発展は原理論的研究の対象をなす純粋の資本主義に益々近づくものとしていたので、後進国と先進国の相違も結局は解消されるものとし、原理論的関係をもって十分としていた。そしてそのことが原理論的展開の内に、わたしのいわゆる段階論的規定を混入させたりすることになった。わたしはその点を金融資本乃至帝国主義論をもって再検討すべきものとし、原理に対して段階論を区別したわけだ。」

「戦前の我が国における、いわゆる日本資本主義論争は、従来のマルクス主義の現状分析における、段階論無視の欠点を明らかに示すものである。すなわち明治以来の我が国における資本主義の発展にも、旧来の封建的遺制の支配的規定を主張する、いわゆる講座派も、またかかる遺制も漸次に消滅せしめつつ発展する資本主義を主張する、いわゆる労農派も、資本主義が後進国に輸入される場合の、段階論的規定の影響を明確にしえなかったのであった。『資本論』の与える原理論的規定が直ちに現状分析に役立つものと考えられたために、講座派では、日本における資本主義の発展に多かれ少なかれ残存する封建遺制を明治維新における不徹底なるブルジョア革命によるものと考えたのに対し、労農派は資本主義の発展は、日本においてもマルクスのいうように、『資本論』の規定をそのままに自分自身の『未来の像』を示すものと考えたのである。」

つまり要約すれば、講座派が日本資本主義の特殊性と規定していた現象は、発展段階論を持って検討されなければならないものであったし、また労農派が原理論的世界に解消してしまっていた日本資本主義の特殊性も、発展段階論によってはじめて正当に分析される、という宇野氏独自の見解にたちいたるわけである。

このような宇野理論の特徴は、くりかえすまでもなく、一般に宇野3段階理論の中に典型的に見られるものである。そこで、この章においては、経済学方法論としての宇野3段階理論そのものが、どのような構造をもっているかという点について、特に原理論と段階論を区別する必要がなぜ生じているかを中心に分析していきたいと思う。というのもマルクス経済学界におけるいわゆる正統派と宇野氏一派の論争は、多岐でしかもかなり深い洞察を必要とするものであるから、とうていその全部について検討することはわたしにとって不可能だからである。そこでわたしは、あくまで昨年度のゼミ論文の延長線上において、今日的な正統派と宇野理論の問題を考えてみたい。つまり、正統派と宇野理論の経済学方法論のちがい、さらにいえば宇野理論における段階論の必要性という点に問題を限局して見ていきたいと思うのである。

宇野理論はその研究段階が、原理論・(発展)段階論・現状分析に分けられると一般にいわれている。わたしがこのゼミ論文において取り上げようとするマルクス経済学方法論の段階論をめぐる正統派と宇野氏一派の論争は、このように研究段階が3つに分けられることの是非をめぐるものであって、経済学研究の1段階としての発展段階論のことだけを検討するものではない。できるかぎり経済学研究の3段階論そのものについて考察を及ぼしていきたいのである。

ではまず第一に、宇野氏自身が最も得意としていたところの原理論について、そのあらましをみてみたい。

「原理論は、産業資本の時代の資本主義の発展傾向にその根拠を与えられるものではあるが、そしてまたその理論の原型は産業資本によるものであり、理論的に想定される純粋の資本主義社会でも産業資本の支配のもとに資本の機能は展開されるものであって、その意味では産業資本の原理といってもよいのであるが、資本主義発展の1段階としての産業資本の時代の原理をなすわけではない。」(㈠より)

この箇所で宇野氏が使用している「原理」という言葉の経済学的意味は、

「直ちに資本主義の発生・発展・消滅の過程を明らかにするものではなく、商品等々の基本的規定を明らかにするもの、それは永久にくりかえすかの如くに説くほかはないものとして与えられる」

ものであって、そこには「純粋の資本主義社会」という概念が想定されているわけである。

「純粋の資本主義社会」という概念は仮定のものであり、実存しなかったのであるが、マルクスは『資本論』において資本主義社会を分析しようとした時、その社会の諸法則があたかも純粋に展開するというふうに前提した。このことから、宇野氏はマルクスのこの考えをさらに徹底的におしすすめて、原理においては「純粋の資本主義社会」という概念を想定する必要があるとしたわけである。

現実の歴史において、資本主義が最も典型的に展開したのは、19世紀中頃のイギリス産業資本主義社会においてであったと一般的にいわれている。この社会も結局純粋の資本主義社会に近づく傾向をその後次第に鈍らせていった。それにもかかわらず「純粋な資本主義社会」を想定する必要があるのは、宇野氏によれば、次のような必然性からである。

「・・・かくして経済学の原理は、いかなる時代の、いかなる国の資本主義にも直ちにそのままにはあらわれない純粋の資本主義社会の経済的運動法則として展開されるべきであるが、しかし、いかなる時代、いかなる国の資本主義にしてもこの原理的規定なくしては、科学的に分析し、解明しえないという、そういう基本的規定を与えるものである。」

  1. より)

 宇野氏が経済学の原理論をこのようにとらえる要因として、氏の「資本論」に対する独自の見解がある。

 「いわゆる(講座・労農両派の)日本資本主義論争は、『資本論』をもって直ちに解決しようとした現状分析の欠陥を直ちに解決しようとした現状分析の欠陥を互いに争った『資本論』自身が、この点を明らかにしていないということが、その根本的原因をなすものといってもよいであろう。」(㈠より)

 このような日本資本主義論争批判に、宇野氏の「資本論」にたいする見解が端的にあらわれている。マルクスの「資本論」は資本主義の機構を明らかにした点で、偉大な業績であり、自分の理論もこの「資本論」に負うている、と宇野氏は述べる一方、「資本論」でさえも経済学研究の究極の目標である現状分析の武器としては一定の限界がある、としている。というのも、マルクスが「資本論」を著した時代は、イギリス資本主義社会が依然として純粋資本主義社会に近似していく傾向を失っていなかったわけであるが、その傾向が次第に弱勢となり、ついには帝国主義へと移行していったという現実の未来をマルクスは知り得なかった、ということが「資本論」の現状分析の武器としての限界性を決定的にしていると宇野氏は断定する。

 「マルクスが『資本論』を執筆していた当時には殆んど予想を許さなかったような発展が、資本主義のその後に見られることになったのであって、われわれはもはや単純に資本主義の発展はますます純粋の資本主義社会に近似してくるとはいえなくなっている。」

  1. より)

 以上宇野氏のいわんとする原理論的規定というものが、どのような内容をなすものかを

検討してきたのであるが、この原理論の規定はまた発展段階論の性格と密接な関連がある。なぜなら、宇野3段階論は経済学研究の段階を、まず理論と現状分析という常識的なわけかたから出発して、さらにその中間に発展段階論という中間理論をもってきた形になっているからである。その一方で、原理論と発展段階論は次のような意味から峻別されなければならないとも宇野氏はいう。

「・・・原理論を可能ならしめた資本主義の純粋傾向をある意味で逆転する金融資本の時代の出現は、原理論に対する段階論の展開を明確に区別せざるをえなくするのである。」

  1. より)

つまり、産業資本主義が過去において最も典型的に機能していた時代から、資本主義そのものが歴史的に発展していくことによって、その資本主義は、もはや資本主義一般の理論ではとらえられず、また新しい一般的理論を成立させることも不可能なまでに変質してしまう、と宇野氏はみる。その考え方が明確に現れているのは、いわゆる帝国主義の段階における金融資本の役割りをみるときである。宇野氏にとって、金融資本は「基本的な経済学の概念とちがった性質をもっている」ものであって、それを資本主義の一般的な原理論でもって解明することは不可能である。このことから、つまり、帝国主義の出現によって「資本論」は現状分析の武器としては不充分なものとならざるをえなかった。もちろん、「資本論」の歴史的な価値は、そのことによっていささかも減ずることはない。しかし、経済学の究極の目標は、あくまでも現実の社会を正確に分析して、よりよい社会をそしきすることに貢献することにあるのだから、経済学はその目標を達成するのに最も有効な研究体制を備えていなければならないと宇野氏は考えているわけである。

 このことと、帝国主義的段階という歴史的な一発展段階を考察するに際して必要となってくる段階論という関係について宇野氏自らがのべているところを若干引用してみよう。

 「・・・もっとも資本主義社会も経済減速の全面的展開を示すものではない。資本主義社会自身も歴史的過程として、発生・発展・没落の過程をとるのであって、経済法則の展開もこの歴史的過程に特有な制約を受けるのである。」(㈠より)

この部分は、宇野氏が発展段階論の必要性を間接的に表現している部分であるが、これを帝国主義段階にあてはめて考えれば、次のようになるであろう。すなわち、「純粋な資本主義社会」からみれば資本主義の発展の一段階として現われた産業資本主義の社会が、さらにまた次の段階に発展して帝国主義の社会に移行した、ということになるのであろう。ところが、その帝国主義段階という歴史的過程は、金融資本を基礎にしており、自由主義段階とは本質的に異なるから、資本主義一般の原理をあてはめることはできない。このことから、帝国主義はいわゆる「タイプ的解明」を養成する性質をもつ歴史的段階として立ち現れるのだと宇野氏はみる。そしてさらに、産業資本主義社会もまた「純粋な資本主義社会」ではないがために原理論をもっては解き明かすことができず、さらにさかのぼって商人資本主義の社会も同様であるから、発展段階論が必要になるのだ、と結論する。

「経済学研究の方法論として、資本とか、土地所有とか、賃労働とか、そういう基本的規定を解明するのは原理論でなければならない。それに対して国家とか、外国貿易とか、世界市場とかの問題を解明するのは、一般的には段階論的なものとして行わなければならない。もちろんさらに具体的には現状分析を必要とする。」(㈠より)

 概略以上のようにして宇野氏は自らの3段階論を構築しているわけだが、このゼミ論で中心となる問題は、宇野経済学方法論においてなぜ3段階論が必要となるか、という点である。これくらいに問題を限定して考えないと、自分の力ではとても充分に考察を加えることができない。もっともこの問題にしても非常に難しいものであって、もとより充分な考察を加えられる自信があるわけではない。にもかかわらず、あえてこの問題にねらいを定めたのは、昨年度のゼミ論文の展開で、是非とも検討してみたいという気持ちが強くおきたからである。たとえ今年度のゼミ論文で充分満足のいく結論を出せなくとも、将来にわたって研究していく価値のある問題であると判断したからである。

 さて話をふり出しにもどすと、以上述べてきた宇野理論は、一見日本資本主義論争に最後的な結論を与えたような外観をていしているが、現実には宇野理論に対しさまざまな角度から批判が加えられている。その中で、いわゆる正統派と呼ばれる人々から提起されている宇野批判を、経済学方法論上の段階論の必要性に関するものだけに限定して、次に検討してみたいと思う。


  1. 宇野理論における段階論の定立に対する批判

 現在、マルクス主義経済学のいわゆる正統派と呼称される人々の中で、とりわけ宇野3段階論に対する批判を活発に行っている人として、見田石介氏があげられる。ここで見田氏の見解を宇野氏のそれと比較検討してみようと思ったのは、概略以下のような意味においてである。

 第一章では宇野理論について充分とはいえないまでも、核心となる独自の経済学方法論の体系を、段階論の必要性という点を中心に理解するよう努めてきた。そして、宇野理論そのものについては、深い考察を加えたとはいえないまでも、氏のいわんとすることのアウトラインはつかみえたと思う。そこでひるがえってもう一度「何故宇野理論を検討する必要が生じたのか」ゼミ論文の流れから考えなおしてみると、それは何よりもまず宇野理論が講座・労農両派の理論ならびに現状分析の欠陥を止揚するものとして登場してきたということの意味を、自分なりに解釈することであった。具体的にみれば、宇野氏が自ら構築した経済学の体系が一体どのような構造をなすものであるのかを知る作業である。この作業を進めて行くにつれ、今度はその宇野理論に対する批判が、いわゆる正統派と呼ばれる人々から提起されていることに気づかされた。そこで、ゼミ論文をさらに発展的に展開するために、その宇野理論批判についても若干検討してみたいという欲が起こったのである。もとより、その宇野理論批判も多方面からなされているので、その全部についてみるというわけにはいかない、しかし、見田石介氏の「宇野理論とマルクス主義経済学」はこの宇野批判の要点をついていると思うので、とりあえずこの本を中心にして、宇野理論批判の一角にふれてみたいと思う。


  1. 見田石介氏

 まず見田氏は宇野氏の原理論と段階論の区分方法について疑義を表明している。

 宇野氏は、この区分を必要とする理由として、純粋な資本主義と不純な資本主義という2つの概念のもとに原理論と段階論が成立することをあげている。これに対し見田氏は次のような批判を加えている。

 いわゆる「マルクス主義経済学者」が帝国主義について研究する際には「帝国主義のもとでも資本主義一般の基本的特質はどこまでも失われはしない」という基本的な立場があることを見田氏は明らかにしたうえで、さらに次の2点に分けて、「帝国主義の研究にまつわる問題」を考察するのだと言っている。

 まず、資本の一般的理論とその段階の理論を別のものとみるのではなく、それらのいわば弁証法的同一関係をみるのが、まずこの問題に対する「マルクス主義経済学」の第一の特色といってよい、と見田氏はいう。そして、「資本の原理はそのすべての段階の事実にもとづいてえられ、そのすべての段階に共通に妥当するものであってはじめてその名に値し、資本の段階論の理論は資本の原理の基礎から与えられてはじめてその名に値する。」という第2点の主張がなされる。

 見田氏はこのような脈絡の中で帝国主義の問題を考察しようとしているのであるが、宇野理論によると、その2点はことごとく否定されてしまう。

 その否定のされ方は見田氏によると次のとおりである。

 第一点について

「帝国主義段階についても、自由競争の段階の資本主義が、その集積・集中をつうじて必然的にそれに転化するというマルクス・レーニンの考え方は強く否定される。そして一方資本の原理そのものは、いったん与えられると、それ以上、資本性的生産様式の発展がその後にどんな現象を呈しようとも、変化させられないものである。」

 第2点について

 「(宇野氏によれば)純粋資本主義の運動法則の作用が貫徹するところにでなく、それが阻害され不純化され、こうして資本の原理が歪曲されるところに段階論がうまれるのであるから、資本の段階の事実は、資本の原理によっては説明できないものであり、それとは別個に与えられなければならぬ。」(㈦より)

 以上のように、見田氏と宇野氏の理論には決定的ともいえる隔たりがある。この理論的対立について自分なりの見解を与えるにはもう少し詳細に双方の意見を検討しておく必要がある。

 まず、第一点について、見田氏は資本の一般的理論(すなわち原理論)と発展段階の理論とは弁証法的な同一関係にあると言うが、宇野氏はそれを同一関係ではなく、それとは逆にむしろはっきりと区別して考えなければならないと考えているわけで、きわだった対立を見せている。

 この相違点を宇野氏の側から指摘するものとして、同氏の「経済学の方法」では遊部・佐藤両氏の見解があげられている。両氏は、むしろ宇野氏一派とは理論的に対立する関係にあり、そのことが宇野氏の立場をはっきりさせることに役立っている。まず遊部氏は「帝国主義のさまざまなタイプを貫く、一般的共通性を引き出すのが理論経済学の課題であり、またこのような共通性を代表する国があれば、あたかも資本一般の分析の場合も、イギリスのそのようなその典型としてみなされるのではなかろうか。」と述べている。また佐藤氏は「われわれ(マルクス主義経済学者=筆者注)は各国金融資本の特殊性を明らかにしたのちに、どうしてそれに共通する金融資本の一般的本質の把握へと進んではならないのだろうか。またわれわれは金融資本についての一般的概念を予想せずして、どうして各国金融資本の特殊性を解明することができようか。」と述べている。両氏の見解を総合して、いわゆる「マルクス主義経済学者」とよばれる人々の第一点に関する見解を要約してみる。

 資本主義国には様々なタイプがあることは事実であるが、しかし、その多様性の中にも、資本主義国であるという共通性があるわけで、そこにはその共通性を基盤とした一般的概念が成立する。資本主義は、経済社会の発展につれて生成・発展・没落の道をたどると一般的には考えられ、その各段階は各国の特殊性によってある程度の偏奇をうけるにしても、本質的には各段階の国々にあてはまる一般的共通性をうちたてることが可能である。

 以上が、わたしが理解したいわゆる正統派の第一点に対する見解のあらましであるが、それではこの点に対して宇野氏はどのような反駁を加えるのだろうか。まず、結論的には、「原理論に対して段階論を区別しないで、現代の資本主義にしろ、金融資本の時代にしろ、いずれも法則的に、原理的な法則性をもって解明しようとすることは正しくない」ということである。

 なぜなら、「資本主義の発生・発展・没落の過程は、具体的には個々の国々においてそれぞれ個別的なる特殊の事情と関連をもって展開されるのであって、資本主義の世界史的発展を示すにすぎない。」からである。このようなことを考慮せずに、帝国主義あるいは金融資本の一般的本質・一般的概念あるいは一般的共通性といったことを主張して強引に理論を打ち立ててみようとすることは誤りであると宇野氏は断定する。この主張の根本には、宇野氏一流の「理論と実践の統一」に対する強固な信念がある。そこで、ゼミ論文の主旨とは少し離れるが、この段階論の問題と若干関連性があるので、宇野氏の見解を要約してみると、次のようになると思う。

 「どんな精確な原理にしても、また詳細な現状分析でも、それ自身には、決して現実を変革することは勿論のこと、それに何等かの変化を与えるというような、対決を現実に迫るものではない。」(㈡より)

ところが、いわゆる正統派の人々は、マルクスの「資本論」とレーニンの「帝国主義論」を必要以上に高く評価して、その理論をもって現実の経済社会を分析しようと試みるから、その理論は様々な欠陥があるのだと宇野氏は見るわけである。

 以上第一点についてはこれ位にして、次に第2点について両氏の見解を比較してみよう。第2点で問題になるのは、段階論の必要性がどのような理由から生じてくるか、という点である。この点は第一点と切り離しがたく結びついている為、両氏の見解はまたもや鋭く対立する。すなわち、見田氏は弁証法的同一関係という発想から、段階論は原理論から与えられてはじめてその名に値すると主張する。一方宇野氏は、段階論は原理論が歪曲されるところに生まれると見る。

 まず宇野氏がこのような見解に至る淵源から分析してみよう。さきに述べたように、宇野氏はマルクスの業績を高く評価して、「マルクスが資本主義の発展と共にますます純粋の資本主義社会に近づくものとして資本主義の一般原理をたてるということをやったということ、それだけで大変なことだったと思っている。しかしその一方で、宇野氏はそのようなマルクスの「資本論」にも歴史的制約があるとみている。というのも、マルクスが生存していた時点ではまだ帝国主義は出現していなかった。そのために当然ながらマルクスは「資本論」を帝国主義の理論の書とすることができなかった。その点に「資本論」の歴史的制約があると宇野氏はとらえる。だから帝国主義の出現をまってはじめて経済学の3段階論の方法は確立され、また「帝国主義の出現とともに、あらゆるイデオロギー的観点から解放されて科学的観点の確保が客観的にも可能になり、必然化される。」と宇野氏はいう。このような宇野氏の考えはまず第一に、日本資本主義論争に対する氏独自の総括のうえに成立している。つまり、講座派は、論争においてイデオロギー的観点から日本資本主義を分析しようとし、また講座・労農両派とも原理論と段階論を明確に区分せず、日本資本主義をマルクスが「資本論」において構築した原理論的世界に次第に近づきつつあるものとして分析しようとした。このことに日本資本主義論争の根本的な誤りがあると宇野氏は考えている。

 見田氏も、資本主義を分析する際に、資本一般の理論とは別に、資本主義の発展段階論を考察すべきであると考えている。ただここで宇野氏と考えを著しく異にするのは、見田氏が発展段階論はあくまで資本主義一般の理論を基礎として成立すると主張する点である。

 これに対し宇野氏はどのように反論するだろうか。

 「いかなる場合にも原理論的法則でもってあるいは原理論と同様に片付くわけではない。不純な状態の変化の過程自身にいかなる法則性を展開しうるか、わたしには今のところその点については、ただ原理論と同じようにするわけにはいかないといえるだけだ。」

  1. より)

このように宇野氏はいくぶんひかえめに自分の見解を述べているが、ひかえめなのは氏の考えが明確でないからではなくて、経済学の方法論が正しいか否かは、その方法が実際に用いられてみて(ここでは経済学の研究が原理論から段階論をへて現状分析に至るまでの過程をみて)からでないと検証できないという氏の考え方に起因している。

 以上「帝国主義の研究にまつわる問題」を見田氏の指摘した2点について検討してきた。

 第2点について見田氏は「宇野理論とマルクス主義経済学」の中でさらに論理を展開しているので、次にその点について両氏のいわんとする所を検討してみたいと思う。

 宇野氏は段階論が必要となる理由として資本主義の不純化ということを考えているが、それではその不純化がどのように作用して、段階論を必要とさせているのか。

 「資本主義の純化、不純化というのは、宇野理論では第一に(純化についてみれば=筆者注)、現実の資本主義が、前資本性的生産関係を駆逐していくことであり、というのは、それが逆転してふたたび前資本性的生産関係を増大させ、あるいは温存させて、それが資本主義の『本質的特徴』をなすことを意味している。」

 このことから「資本主義の本質的特徴が前資本制的関係のうちにみられるところに帝国主義段階が成立するのである。」というかなり極端ともいえる結論がひきだされる。

 見田氏はこの点を批判して、宇野理論がこのような形をとるに至ったのは、宇野氏が理論として提出される以前に当然前提とされるべき問題を誤って理解していることにあるとして、以下その問題について言及している。

 第一点

 「帝国主義段階では、純粋な資本主義の運動法則が『阻害』されたり、不純なものすなわち非資本主義が、その本質的基礎となっているといわれるなら、そのようなものは他の何かの段階ではあっても、資本主義の段階とはいえないだろう。

第2点

「科学の行う抽象は、現実の過程そのものが、自らを純化する場合にだけ、ゆるされる。」

すなわちこれは「客観的抽象」あるいは「原理論は対象だけでなく、方法をも模写」するというゆえんである。

「このように純化の傾向が逆転するというのは、宇野理論の要め石をなすものである。」

 このように見田氏は宇野理論における「資本主義の不純化」という概念の重要性を分析している。そしてさらに、このような概念を不当に重視することの不合理性を次のように批判している。

しかしこのように現実の資本主義がその末期において不純化して、非資本的関係がその本質的な特徴をなすというのは、まったく事実に反する。」

 以上ながながと見田氏と宇野氏の見解を比較検討してきたわけであるが、さてそれではわたしとしては双方の見解にどのような意見をもつか、あるいはどちらかの立場に賛成するか判断することは、非常に困難なことに思える。というのも、わたしにとっては、両氏の見解を一応理解することさえ多くの努力を必要とすることであって、それをさらに批判検討するには、もっと多くの宇野理論批判に対し耳を傾ける必要もあるので、及びもつかないし、またこの論文ではそこまでやる必要もないと思う。なぜかならば、またまたこのゼミ論文の主旨をくりかえすことになるが、まず第一に、わたしが宇野理論を取り上げて、その膨大な業績の一端でさえも知りたいと願ったのは、あくまでも昨年のゼミ論文からの脈絡からであった。そして第2に、その宇野理論にも現在様々な角度から批判があびせられていることから、昨年度のゼミ論文と関係ある部分に問題を限局しながらも、若干宇野批判にも考察を及ばせたいという「欲」が出た。だから、このゼミ論文の主眼は以上の2点に要約されるのであって、宇野理論をゼミ論文に取り上げたからといって、それでは早速それをどう評価するか、ということよりむしろ、まず宇野理論そのものと、それによせられている批判を検討することを通じて、自己の考えをじっくりと完成させていきたいと思ったわけである。

 ところが実際には理論そのものを検証することだけでも、わたしにとっては大仕事で、今までのところうまくいっているとはいいがたい。

 そもそも、わたしが経済学の方法論としての宇野理論にはじめて興味をもったのは、小林茂氏の「農業経済学基礎理論」の中の、宇野3段階論批判を読んだ時であった。小林氏はその中で、宇野理論の根本的な問題としてこのゼミ論文のなかでも、しばしば言及した経済学研究の段階論的方法について批判している。そこで次に、小林氏がどのような方法で宇野理論を批判しているかをみてみたい。


 2. 小林茂氏

 小林氏が「農業経済学基礎理論」の中で宇野理論について言及している個所は、前篇・農業経済学の体系において農業経済学に関する既存の諸説を検討した後の所、D・宇野3段階論批判の部分である。

 小林氏は、この中で、「農業経済学の学的位置と関連する経済学の3段階論区分の検討だけ」行う、という限定をつけている。しかし、この限定は、本論文の内容と照らしてみても、ここで言及することに不都合を生じさせるものではないと思う。

 そこでまず、小林氏は宇野3段階論の体系そのものをどのようにとらえているかをみてみたい。すでに前段までで言及した点と重複するが、その中には宇野批判のよりどころとなる重要な示唆が含まれている。小林氏は宇野理論の各段階論が、いかなる内容と目的をなすものであるかについて、次のようにまとめている。

(1) 原理論

 いわば頭脳の中に画かれた純粋な資本主義の抽象的な理論像における商品経済の一般的法則を究明する基本的理論部分。

 (2) 発展段階論

 原理論における抽象的一般的法則を基礎として世界史的な発展段階における諸規定を究明し、その類型を検出することを目標とする中間的理論部分。

 (3) 現状分析

 原理論を基礎とし、発展段階論を媒介として、具体的な1国別の経済の現状を分析するものであり、これが経済学の究極の目標である。

 (2)の発展段階論はさらに次の3段階論に区分される。

 (1) 重商主義段階

 十六世紀から十八世紀前半にかけてのイギリスの羊毛工業における商品資本が支配的な時代。

 (2) 自由主義段階

 十八世紀後半から十九世紀にかけてのイギリス綿工業における産業資本が支配的な時代。

 (3) 帝国主義段階

 十九世紀末以降のドイツおよびイギリスの重工業における金融資本の支配的な時代。

「したがって、原理論という基礎理論を土台とし、発展段階論を媒介として、初めて究極的目標である一国別経済の現状分析を行うことができるというような立体構造を宇野経済学の体系はもっている。」(㈩より)

 このように、宇野理論体系を概括した後、この体系の中で農業経済学はどこに位置づけられるのかを考察して、まず原理論に属さないことは明らかだが、では発展段階論なのか現状分析なのかと考えてみるとはっきりしない、としている。そこで、農業経済学の学的位置を明らかにするには、発展段階論と現状分析が、一体どのような論拠のもとに成立するのかということを検討する必要が生じる。

 発展段階論のほうは、原理論が現状分析の武器になりえないことから、原理論を基礎としながらも、さらに不純なものをも考慮に入れた中間理論ということになる。また、現状分析は、いうまでもなくその発展段階論という補足的中間理論で行う現実の経済社会の分析である。

 「原理論の対象(純粋資本主義)のなかにはなくて、発展段階論において考慮しなければならない『不純物』(非経済的要素)とは、『ブルジョア社会での国家形態での総括』とかまたは『国家関係』にみられるような上部構造の歴史的性格である。」(㈩より)

 それでは、「発展段階における指導的資本主義の典型国の支配的産業の支配的資本形態」はどのようになるか、ということを次に小林氏は検討している。

  1.  重商主義段階

十六世紀から十八世紀前半にかけてのイギリス羊毛工業における商人資本の支配形態。

  1.  自由主義段階

十八世紀後半から十九世紀にかけてのイギリス綿工業における産業資本の支配形態。

  1.  帝国主義段階

十九世紀末以降のドイツおよびイギリスの重工業における金融資本の支配形態。

ところが、このような「宇野理論では、農業経済学(発展段階論)の内容は、典型的資本主義国における『農業経済史』の研究と実質的に変わらないものになってしまう。」という問題が生じる。この発展段階論の欠陥を要約すれば、

  1. 農業経済学の内容は農業経済史や農業経済の現状分析と区別のつき難いものになる。

  2. 各資本主義段階の経済構造の特徴が、ただ静態的に分析されるだけにとどまってしまう。

結論として小林氏は宇野理論の欠点を次のように分析している。

「宇野理論においては、発展段階論は世界史的資本主義発展段階を代表する典型国の資本主義構造を上部構造に現れた特徴によって類型化することを課題とし、そこでは正当な意味での発展の法則そのものは検出されない。一方原理論は資本主義経済構造の繰り返すものとしての法則の究明に限定されている。故にこの経済学の構造では、発展法則の究明を引き受ける部分が存在しないことになる。」(㈩より)

 そうすると、3段階論のうち発展段階論は、一部は原理論の中に、もう一部は現状分析のなかに解消されるのではないか、というように小林氏は判断する。そして、宇野理論が、このような誤謬をもつに至ったのは、宇野氏の原理論のとらえ方に根本的な問題があるとして、次のように原理論の方法(宇野理論における)を批判している。

 ・(宇野理論では)原理論の研究対象としての純粋資本主義を想定する過程で、「十9世紀の」「イギリス」という特定時代と特定国の属性がともに不純なものとして捨象されてしまうわけである。

 ・宇野教授の「純粋資本主義」理念像では、この時代規定(「十9世紀の」)までが不純物として捨てられたために、商人資本主義でも独占資本主義でもない「無歴史の」ちょうどのような架空な資本主義が想定されてしまったのである。

 ・それは、マルクスの科学の方法としての「上向法」の適用に関して、純粋な「資本主義」理念像の規定(原理論構築の基盤)という方法があまりに画期的であり、その輝きに眩惑されて、隠された欠陥を見失ったのだと思われる。

 ・宇野教授は原理論で資本主義経済の構造法則だけが単独で究明されるとした。この間違いの根源は、「純粋資本主義」という無歴史・脱歴史の理想像の想定が可能だと考えたところにある。

 ・資本論の世界とは異なり、産業資本主義という歴史的規定性まで捨象して画かれた「純粋資本主義」という原理論の世界は、宇野教授の「過剰抽象」の結果であり、それはまた原理論における資本主義の基本的経済法則を「価値法則」であるとする誤謬となって表面化している。


終 章 ゼミ論文を完結するにあたって

 本年度のゼミ論文のテーマとして選んだ宇野理論は、初学者たるわたしにとって大きすぎるテーマであると書きはじめる前からわかっていたが、また是非やってみたいと思うところでもあったのである。自分の大学生活をふりかえってみて、最も懸命に勉強できたのはゼミ論文のテーマについてであった。それにもかかわらず、その成果は宇野経済学体系という巨大な山塊のふもとにようやくたどりついた、という感をまぬがれない。しかし、性急に効果だけを求めることが学問ではないのだし、特に社会科学というものはもっとどっしりした学問ではないかというイメージがわたしにはある。自分の非力をかえりみず、宇野経済学を学びたいという気持ちをいだいたわたしは、きっと将来にわたって経済学を学ぶことをやめないような気がする。


参考文献

  1. 経済学方法論 宇野弘蔵

  2. 経済学の方法 宇野弘蔵

  3. 宇野弘蔵著作集 宇野弘蔵

  4. 日本経済論上 大内力

  5. 農業経済学序説 大内力

  6. 日本農業論 大内力

  7. 宇野理論とマルクス主義経済学 見田石介

  8. マルクス主義経済学の擁護 見田石介

  9. 宇野経済学方法論批判 黒田寛1

  10. 農業経済学基礎理論