わたしは中学を卒業したあと高校へ進学するつもりでいました
かといって進学のための準備はとりたてて何もしませんでした
受験勉強どころか自分の進学先についてさえじっくり考えたことはありませんでした
数学や英語といった嫌いな教科は授業を受けること自体が苦痛でした
試験の前に少し勉強するだけで普段は予習も復習もほとんどしませんでした
小学生の頃は将来は電車の運転手や料理人になることを漠然と思い描いていました
中学生になってからは特段自分の将来についての考えたことはありませんでした
中学を卒業した後の進路について両親とじっくり話し合った記憶もありません
中学3年生の秋に三者面談がありました
「君のところは四人兄弟で家計が大変なのだから職業高校へ行き就職した方がいい」
そのようにクラス担任の先生から勧められました
わたしには明確な進路希望がなくただ普通高校へ行くのかなと思っていました
先生によるとわたしの成績は公立普通高校に入学できるレベルに達していないそうです
私立の普通高校であれば行けるところもありますが授業料がとても高いそうです
県立の工業高校であれば授業料も安く就職もしやすいのだそうです
それで先生は機械科へ進学したらどうかと勧めてくれたのです
わたしは工業高校への進学をまったく考えていなかったのでちょっととまどいました
でも考えてみると先生のいうことももっともだと思いました
先生は兄のクラスの担任をしたこともありわが家のことを良く知っていました
子供が多く収入も安定していなかったので市から児童手当の給付を受けていました
そういうことを知っている先生が考えたことに反発する気持ちはわたしにはありませんでした
そうはいってもあと3年後に高校を卒業し就職している自分が想像できませんでした
なにか自分の将来が一方的に決められたように感じたのは事実です
わたしは先生の勧めに対してどのように返事をしたらいいか分かりませんでした
教室の窓越しに校庭をながめていると母が先生に言いました
「先生のおっしゃるとおりにいたします。どうぞよろしくお願いします」
わたしもそうするしかないのかなと思いました
このようにして磯子工業高校の機械科に入学することになりました
山岳部に入る
高校に入学したら山岳部へ入ろうとあらかじめ決めていたわけではありませんでした
磯工に山岳部があることは入学するまで知らなかったのです
中学生の時はバスケットボールを3年間やりキャプテンもしました
チームメートのKも磯工に入学したのでまたバスケットボールかなとは思っていました
入学間もない日の放課後に各クラブが新入生を勧誘するための行事が行われました
そこに山岳部も参加していました
体育館の前にはオレンジ色の大きな家形テントが張られていました
その周りに部員がいて新入生に対して熱心に山岳部の活動について説明していました
かたわらでは別の部員が山で使う石油コンロでお湯を沸かし紅茶を作っていました
新入生に山用の食器が渡され砂糖の入った紅茶を飲ませてくれました
学校の中で火を使いお茶が飲めるなんて楽しそうだな、と俄然山岳部に興味を持ちました
その場所にはわたしと同じ保土ヶ谷中学校出身のSもいました
Sは中学では陸上競技部に所属していたので山岳部を見に来ていたのは意外でした
Sと話していると別の部員が山岳部がどんなに面白いクラブか話してくれました
部員は変わった奴ばかりだけれど3人の顧問の先生はみな素晴らしい人たちだといいます
顧問が引率して毎月1回は丹沢などへ行くそうです
夏休みは北アルプスで1週間の合宿山行があり、冬休みにはスキー合宿もするというのです
それを聞くともう矢も楯もたまらなくなりました
Sと顔を見合わせ「じゃあ入ろうか」といって2人そろって入部することになりました
北アルプス野口五郎岳で 1971年7月24日 |
数学の特訓
磯工に入学してみて驚いたのは、いわゆる「不良」レベルの生徒の多さでした
「不良」とは、単に勉強をしなかったり、学校に来ないということではありません
他の生徒を恐喝したり、人の物を盗むという犯罪まがいのことをするのです
保土ヶ谷中学校と比較すると磯工にはこういう「不良」の割合がずっと高かったのです
中学には全校で数人でしたが、ここには各クラスに数人いました
わたしはそのような「不良」ではありませんでしたが成績が「不良」でした
磯工は全体的に生徒の学業レベルの低い高校ではありました
それでも工業高校なので数学がまったくできない生徒というのはあまりいませんでした
工業高校では基本的な数値計算ができないとまったく話になりません
数値計算は数学や物理だけでなく機械に関する専門科目でも頻繁に登場するのです
そのような中でわたしは分数の足し算も満足にできませんでした
レベル的には中学生以下だったと思います
中学では計算ができないことをなんとかごまかして切り抜けてきました
ところが工業高校ではもうごまかしが効きません
入学した最初の学期にはもう逃げ隠れできないところまで追いつめられてしまいました
わたしは磯工に入学して早々に山岳部に入部しました
その山岳部の顧問の1人のMI先生はわたしのクラスの数学の担当教員でもありました
彼はこの春に大学を卒業したばかりです
学生の時は応用物理学を専攻するかたわら山岳部に所属していました
それで磯工の山岳部の顧問になったのです
びっくりしたことがありました
MI先生は初月給をもらうとわたしのほか数名の山岳部員をレストランへ連れて行ったのです
ふだん行くことのないような店で昼食をご馳走になりました
スパゲティか、ピラフか、カレーライスか、何を食べたかのかは忘れてしまいました
こんなことをしてもらっていいのかとわたしはとても恐縮しました
そのMI先生にわたしが数学を全く苦手としていることをすぐに見抜かれてしまいました
何回かの100点満点のテストでわたしは10点、5点という点をたて続けにとってしまいました
最後は0点でダメ押ししました
MI先生はわたしの点数にいきどおり「あとで物理実験室へ来なさい」といいました
「テストの点数がこのままだったら山岳部を退部させる」と先生はわたしに言い渡しました
わたしはおののき目の前が真っ暗になりました
わたしにとって山岳部は高校生活の唯一の希望だったからです
わたしにはどのようにして点数を向上させたらいいか全く分かりませんでした
わたしは先生に正直にいいました
「山岳部はどうしてもやめたくありません。けれど一体どうしたらいいか分かりません」
すると先生は「一対一で教えるから毎週1回放課後ここへ来なさい」といいました
こうしてわたしは生まれて初めて勉強の個人指導をしてもらうことになりました
一回2時間ほどのMI先生の指導はとても厳しいものでした
まず先生が基本的な計算問題の解き方を説明してくれます
次にわたしが練習問題を解きます
そして先生と一緒に答え合わせをします
とうぜん間違えているところがあり先生から指摘されます
その間違えをわたしがあわてて消しゴムで消そうとします
すると先生は消しゴムを持ったわたしの手を叩いて叱りました
「なにをどう間違えたのかをはっきりさせ、そこをきちんと理解しなければだめだ」
そんな先生のことばもすぐには耳に入りません
ともかく先生に叱られないようにとオドオドと説明を聞き問題を解くしかありませんでした
また今週も実験室へ行って叱られるのかと考えると気が重くなりました
わたしの様子が気になったのか先生は指導を終えた後にお菓子をくれたことがありました
そんなことが1か月以上続いたあとだったかと思います
わたしは指導中に先生から叱られる回数が減ってきていることに気がつきました
そして7月になって学期末試験がありました
わたしは数学のテストで合格ラインである60点以上の成績を取ることができました
MI先生は笑顔でわたしにいいました
「もうここに来なくていいよ。これからは自分で勉強しなさい」
その後は試験のたびに数学の得点が上がっていきました
クラスでも上位になったわたしはすっかり自信を持ちました
数学は社会や国語と並んでわたしの得意科目になったのです
高校2年生になったある日に山岳部で丹沢へ行きました
引率の顧問はMI先生と、2年からわたしのクラスの数学担当になったMU先生の二人でした
丹沢へと向かう電車の中でその二人の先生と立ち話をしました
MU先生は「クラスで一番数学ができる」とわたしを褒めてくれました
するとMI先生は1年生の時のあの個人指導のことをMU先生に話しました
それを聞いたMU先生は「へえー」と目を丸くしてわたしの顔を見ました
沖縄への修学旅行
修学旅行の行先や行程はまず生徒で話し合って案を決めるとのことでした
わたしたちのクラスは修学旅行ではぜひ沖縄へ行こうということになりました
神奈川県の県立高校で修学旅行で沖縄へ行った例は無いということでした
学校や県の教育委員会がこれを認めるかどうか危ぶまれました
おそらくA先生が沖縄へ行くことの意義を学校側に熱心に説いてくれたおかげでしょう
沖縄案は認められました
それからクラスの中で何度も話合い旅程を検討しましたが、これが難航しました
沖縄は遠いのです
羽田から那覇まで飛行機で2時間ですが予算には当然限度があり飛行機は使えません
そこで旅費の安い船で東京から那覇まで行き、帰りは船と鉄道を使うことになりました
全体の日程が1週間で往復に4日かかると沖縄には3日弱しか滞在できません
そのような短期間で沖縄をどのように回るか難問でした
いろいろ話し合いをしてようやく決まりました
初日はまず首里高校の生徒と基地問題について話し合います
その後守礼の門や城跡を見学しながら糸満まで行って旅館に泊まります
翌日はグループ単位の自由行動で那覇まで戻り、那覇のホテルに泊まります
そして三日目に船で帰路鹿児島へ向かうことになりました
沖縄へ船で行くことになり何人かの生徒は塗炭の苦しみ味わうことになりました
晴海ふ頭を出港した船は東京湾から太平洋に出て日本の南岸にそって沖縄へ向かいます
外洋に出ると波のうねりが大きくなり船酔いする生徒が続出しました
中には嘔吐を繰り返し船室でぐったり寝たままになってしまう生徒も3、4名出ました
その生徒を他の生徒がつきっきりで介抱しました
このようなことが学校や教育委員会にどのように伝わったのかは知りません
船で沖縄へという修学旅行はこれが最初で最後になったようです
神奈川県立磯子工業高等学校 校歌
作詞:二宮龍雄
作曲:大和憲史
根岸の汐路 東に晴れて
富士が根 西に輝くところ
ここ森町のみどりの丘に
若き生命の花咲きかおる
われらの学び舎 磯子工業
学びて進む 道すじわかれ
競いて磨く わざ異なれど
望みはひとつ文化の楽土
築く使命の誇りに映ゆる
われらの学び舎 磯子工業
屏風が浦べ 波風越えて
青春拓く いばらの行く手
友垣強く明るく勤め
世紀みちびく光を生まむ
われらの学び舎 磯子工業