1971年3月1日月曜日

浮かない日々 1968年4月1日~1971年3月31日

卒業写真 前から三列目、左から三番目が私
偶然ですが小学校の入学式の時とまったく同じ位置に立ってました

中学生活への期待と不安

兄はわたしより学年がふたつ上、姉はひとつ上でした

二人とも学区内の保土ヶ谷中学校に通っていました

小学校の卒業が近づくとわたしは兄や姉から中学校の話しをよく聞くようになりました


先生は怖い先生、面白い先生、格好いい先生、笑っちゃう先生などいろいろとのこと

烈火のごとく生徒を叱りつけるという「青たん」や「コンちゃん」

書道の「1メートルばばあ」や真っ黒に日焼けした「ようさん」


中学校には小学校とは全く違う世界があるようでした

何かにつけ小学校とは比較にならないすごいところのように思えました

中学校がどんなところなのか早く行ってみたくて入学を心待ちしました


小学生と中学生の見かけ上の大きな違いは中学生になると制服を着ることです

おまけに男子は学生帽もかぶります


中学に入る直前のわたしは身長が146センチでした

男の子は中学生の時に身長が伸びるからと、母は思い切り大き目の制服を私に買いました

制服を着ること自体初めてで、しかもぜんぜん大きいので着ていると落ち着きません


6年間使い続けたランドセルとおさらばして、帆布製の肩かけカバンになります

肩掛けカバンは体の片側だけに荷重がかかるのでとてもバランスが悪い

かといってカバンをお尻のほうへ持ってくると格好がよくない


白いズック靴は制服同様にぶかぶかです

一歩ごとにかかとがカポンカポンとなり、走るとすぐに脱げます


このようにいくつかちいさな問題がありました
それでも中学校への進学は新しい世界へと飛び込んでいくようでワクワクしました

いよいよ入学

入学式の朝、暖かい日のふりそそぐ中を緊張して中学校へ行きました

校舎の板壁に新入生の各クラスの担任教員と生徒の氏名が張り出されていました

わたしはY先生のクラスになりました


Y先生は早稲田大学の文学部を1年前に卒業したばかりの女性の英語の先生です

クラス担任になるのはY先生は初めてでした


Y先生は若々しく、ほがらかで、かつ知性が感じられました

普段は優しいのですが、生徒が良くないことをするとしっかりと叱りました


T君のこと

ある日ふたごのT兄弟の兄か弟のどちらかがY先生に訴えました

「クラスのみんなが自分たちをいじめる」

その「みんな」の中にわたしも入っていました


わたしはY先生からなんでいじめたのか聞かれました

わたしはT君が良くないことを言ったのが原因であるといいました

自分はT君と小学校で同級生だったので彼のことはよく知っていました

小学校の時父が急逝したこと

母ひとりで4人の子供を育てていること


中学に入るとT君が生意気なことばかり言うのでこずいたりしました

いじめることは良くないと思う、とY先生に話しました


Y先生はしばらく考えていました

先生から何といわれるか私はドキドキして待っていました

T君の境遇を知っていて彼を気の毒だと思うなら彼と仲良くしなさいと言いました


それからはY先生から言われたことに注意しました

T君がほかの人にいじめられないように、自分からT君と仲良くするようにしました


中学校を卒業してからはT兄弟に会う機会はありませんでした

卒業から10年以上も経ってからT君が突然たずねて来たと母から聞かされました

中学生の時に私が自分たち兄弟に親切にしてくれた、と感謝をしていたそうです


バスケットボール部に入部

前列左端がわたし

中学生になる楽しみのひとつが「クラブ活動」ができることでした

わたしはスポーツ系のクラブに入ることだけしか念頭にありませんでした

球技では野球部、テニス部、バレーボール部、卓球部、バスケットボール部

格技は柔道部、剣道部

他に陸上部などひと通りのクラブがありました


兄は陸上部、姉はバスケットボール部に入っていました

姉に影響されたわけでなく、わたしはバスケットボールに入ることにしました

なぜ身長の低いわたしがバスケットボール部に入ることにしたのでしょうか

その理由ははっきり覚えていません

兄からは「陸上部へは来るな」と言われていました

田舎の従兄が二人ともバスケットボール部だったのでそれが影響したのかもしれません


バスケットボール部は人気があって、たくさんの1年生が入部しました

そのために練習用のボールが足りなくなりました

仕方なくしばらくの間1年生はボールなしでパスやドリブルの練習をしました

この練習の良いところはミスが発生しないので先輩部員に怒られないことでした


部の顧問教員は、「青たん」というあだ名でした

すごく怒りっぽく、怒ると同時に拳骨が飛んでくるのです

それで頭に青あざができるので「青たん」というあだ名がついたそうです


はじめて彼女ができた

中1の秋に良いことがありました

わたしにはじめて彼女ができたのです

相手はクラスもクラブも同じYという子でした


彼女はいつも何かをじっと考えているようなタイプの女の子でした

つまりわたしに較べてずっと大人でした


わたしはそれまでに彼女と何度か話をしたことはありました

ふたりともバスケットボール部に所属していたからです

彼女と付き合うようになったきっかけは中学校の運動会でした


運動会の競技を一緒に見ていました

「僕はこれから1,500メートル走に出場するけど、勝つ自信がある」

そんなようなことをわたしは彼女に話しました

結果は2位でしたが、このことで彼女は何かを感じたのではないかと思います


彼女との付き合いはいつも彼女のほうが積極的でした

わたしから何かすることはほとんどありませんでした

電話することも手紙を書くことも彼女のしてきたことへのリアクションとしてでした


わたしは彼女がいるということだけでほとんど満足していたようです

彼女はそんな何気ない付き合い方では満足できなかったのだと思います


中3になって彼女から、「もうこれきりにしたい」、と言われました

わたしは驚いて、思いとどまってくれるよう彼女に手紙を書いたり電話をしたりしました

彼女の気持ちは変わりませんでした


落ち込んでプラモづくり

中学2年の時の担任はテニス部顧問のHでした

わたしはこの人を好きになれませんでした


まずわたしの苦手な数学の担当教師だというのが不幸でした

わたしは数学がまったくできませんでした

さらにHはふたこと目にはクラスのみんなの前で泣き言を言うのです

「自分が前年に受け持ったクラスは良かった、今のクラスはどうしてこうなんだ」

ぐずぐずと愚痴っぽく話す九州弁のイントネーションも嫌いでした


こういう教師を好きになる生徒もいるのが意外で不快でした

Hはかわいい女子生徒には明らかに甘だるく接しました

Hに加えて、このクラスにはわたし自身が好きになれない嫌な生徒がいました

そのためわたしの気分と成績はとても落ち込みました


それでも、バスケットボール部の練習や試合には全部出ました

休日は山登りに行き、どこにも行かない日にはプラモデルをせっせと作りました


親戚のおじさんにもらった小遣いなどで戦闘機や戦車のプラモデルを作りました

組み立てたあと自分が好きな色に塗り、デカールを丁寧に貼りつけました

そうすると、自分でも惚れ惚れするような出来栄えになりました

六畳のプレハブの子供部屋の、そのまた狭い自分のスペースに棚を作りました

そこに出来たものを飾ったり、天井から吊るしてはひとり悦に入りました


府中へのサイクリング

この頃、兄と自転車で遠出しました

横浜から東京の府中までの日帰りサイクリングでした

ともかく自転車でどこか遠くまで行きたかったのです

思いついたのが幼い頃から時々電車遊びに行っていた府中の叔母の家でした


その家へは横浜から電車を乗り継いで何回か行ったことがありました

線路沿いの道よりもっと直線的な国道16号線を使って行くことにしました

お金も大して持たず、重い新聞配達用の黒い自転車で出かけました


途中に何箇所かきつい上り坂がありました

どうにか昼過ぎぐらいには府中近くの見知った町並みの中を走るようになりました

とうとう自分の足で漕いでここまで来たんだという実感が湧いてきました


ちょっと興奮して叔母さんの家に着くと叔母さんは大層びっくりして出迎えてくれました

叔母さんが横浜に電話をしてわたしたちが自転車で府中まで来たことを知らせてくれました

それから昼ご飯をご馳走になりました


わたしたちはこれからまた横浜まで走って帰ることが気になっていました

叔母さんの見送られながら重くなった足取りで帰路を急ぎました

帰りは南部線沿いに武蔵小杉まで行き、そこから新横浜を経由して帰りました

山坂のアップダウンにクタクタになって横浜の家に着きました


ついに自転車を買ってもらう

府中へ行った後、わたしは母にサイクリング自転車が欲しいと何度もねだりました

当時わたしの家は高額なものを子供に買い与えられるような経済状況ではありませんでした

わたしが欲しかった自転車は3万円ぐらいしました


わたしは「買ってくれ」としつこく母にねだり何ヶ月か経ちました

そしてようやく「そんなに言うなら買ってあげる」ということになりました

宙に舞い上がるような気持ちで母と一緒に仏向町の渡辺輪業へ行きまし


店の壁に新品の自転車が数台掲げられています

それらと母の顔を交互に何度も眺めようやく一台の自転車に決めました

ブリヂストン製の10段変速くらいのドロップハンドルで、色は黒と銀です

小学生の時から長年夢見た自転車をついに買ってもらったのです


何か月払いかの月賦で買ってもらったその自転車に正直あまり乗りませんでした

サイクリングにもほとんど行きませんでした

言い訳になりますが忙しかったのです


中3の時は学校のクラブ活動でバスケットボール部のキャプテンをやっていました

平日の放課後は毎日練習で、月に1度くらいは週末に試合がありました

それに加えて、好きな山登りに月に1度くらいは行っていました


高校生になると、アルバイトもするようになってさらに忙しくなりました

そんなこんなでサイクリングは自分の頭から離れていってしまいました


アルバイトへ行く時に電車賃を浮かすためにその自転車を使ったのが最後でした

高2で原動機付自転車の免許を取り、中古のバイクを乗り回すようになりました

あれほど無理を言って買ってもらった自転車は庭の片隅で錆びてしまいました


長距離走の悩み

中2の夏休みが終わり、秋になってくると、気持ちがだんだん落ち着かなくなってきました

運動会があるからでした

運動会である1500メートル走のことが、非常に気になりだしたのです


今思えば、どうしてそんなことがそれほど気になったのか不思議です

毎日のように1500メートル走のことについて考え、思い悩みました

「自分は1500メートル走で学年1位にならなければならない」

「1位になることがクラスのみんなから期待されている」

「1位になれなければ恥ずかしい」

といろいろな思いわずらわされました


「もし1位になれなかったらどうしよう」、と不安がつのって寝付けない夜もありました

そんなに思い悩んだことなのに今となってはその運動会の記憶がありません

1500メートル走に出場したのか、しなかったのか、記憶にないのです


人は自分に都合の良いように思い出を記憶する、と何かの本で読んだ気がします

ひょっとするとこれはそのケースかもしれません


バスケットボール部のキャプテン、丸坊主になる

中3の時の担任はバスケットボール部顧問の「青たん」でした

わたしの兄や姉も「青たん」の世話になっていました

「青たん」は兄が3年生の時のクラス担任でした

姉は女子のバスケットボール部だった男子の隣でいつも練習していました


「青たん」はわたしの家が経済的に苦しいことを良く知っていました

というのも、わが家は「児童手当」を受けていたからです

当時は家計の困窮度に応じて市から「児童手当」が交付されていました

その「手当」の現金が封筒に入れられ担任教師から生徒に学校で手渡されていました


キャプテンになったばかりの時に区の大会がありました

わたしたち保土ヶ谷中学はぜんぜん振るわず一回戦で早々と敗退してしまいました

怒った「青たん」は試合後に「レギュラーは全員坊主刈りにして来い」と命じました


レギュラーでキャプテンのわたしは最早これまでと観念しました

家に帰ると母親に理由を言って散髪代ををもらって床屋へ行き丸坊主にしました

みんなも坊主頭にしたんだろうな、と思いつつ翌日登校しました

すると、あろうことか坊主になっていたのはわたしだけでした

レギュラーの連中はわたしの頭を見て大笑いしました

そいつらを「青たん」はきっと叱り飛ばすだろうと期待しました


その日の放課後の練習に「青たん」がきました

坊主にしなかった連中を見ても「青たん」はなぜかすこしも叱りません

「青たん」の怒りはひと晩寝て覚めてしまったのでしょうか

わたしはまったく釈然としませんでした

こんなことなら自分も坊主になどするのではなかったと後悔しました


刈ってしまった頭はすぐにはもとにもどりません

間の悪いことにそれからすぐ後に卒業アルバムに載せる集合写真の撮影がありました

中学3年間のほんの一瞬だけ坊主頭にしたわたしがアルバムに残ることになりました


バスケットボール部の仲間

わたしの中学生活はバスケットボール部での活動が中心でした

バスケットボール部の同学年にはわたしと同じ常盤台小学校出身の者が何人もいました

その中でも、とくに仲が良かったW、K、Sの3人とでした


毎日練習が終わると空腹で疲れた体をだらだらと引きずるように一緒に帰りました

中学校は丘の中腹にあるので家に帰るためにみんな坂道を登って行きました


丘の頂上近くに「三枝」という駄菓子店がありまし

その店先に、スプリングがへたったソファーが置いてありました

わたしたちはそこにぐったりと座り込んで駄菓子を買い食いしました


大抵はバラ売りのせんべいを2、3枚買って食べました

小遣いが無くて買えないやつがいるときは、そいつにも分け与えました

そこでしばらくなにやら話をしたあと、4人はそれぞれの家へ帰りました


バスケットボール部の練習はハードでした

わたしは1年生の終わりころに膝の関節を痛めてしまいました

成長期にきつい運動をし過ぎたためだと誰かに言われました


自主練習と称して冬に早起きして走り込みやシュート練習をしました

夏休みは練習中にカン蹴りやバカ話をして笑い転げたこともたびたびありました

試合の日の帰りにみんなでラーメン屋に立ち寄るのがとても楽しみでした


勉強嫌い

中1の時は小学校の時に勉強した余力が残っていてまずまずの成績でした

中2年になると成績がどんどん低下していきました

とくに悪かったのは数学、英語、理科などでした

国語、社会はなんとか普通の成績を保っていました


両親はわたしにぜんぜん勉強しろと言いませんでした

わたしも勉強して良い高校へ行こうなどという気がありませんでした


この頃、父はビルの清掃の仕事をしていました

母の弟と、その友人のKさんがわたしの家に住み込んで父の仕事を手伝っていました

家族5人でさえ手狭な家に大の男が2人加わって、家はもう飽和状態を越えていました


当時わたしと兄は庭に建てられた6畳間のプレハブで寝起きしていました

そこには二人の勉強机がありました

そこへ住み込みの大人2人も寝かせるために、2段ベッドが2台入れられました

6畳1間に男4人が寝起きすることになったのです


住み込みの2人は毎日のように酒をしたたか飲んで帰ってきました

そして帰ってきてもすぐに寝ません

独り言をぶつぶつ言ったり、故意に寝ているものを起こしたりしました

ようやく寝付いたとホッとするのもつかの間で、今度は大いびきをかきます

彼らの振る舞いは耐え難かったのですが、誰に訴えることもせずひたすら我慢していました


この我慢と引き換えにわたしは家で勉強をしませんでした

しなかったというよりできなかったと言った方が適当かもしれません

授業中でも先生の話などはうわの空でした

ポカーンと窓の外を見たり、居眠りをしていることが多かったと思います


中3の友達

中3の時のクラスメートは明るく楽しい連中が多く好きでした

男子にはお互いにC調で気の合うHIやHOがいました

女子にはバスケットボール部のM、K、テニス部のMなど、かわいい子が多くいました


中3のクラスの女子でわたしが最も気に入っていたのはテニス部のKさんでした

彼女とは、クラスの席替えで、お互い近くに座るようになりました

休み時間に話をしていると、この子とはうまが合うなと感じ、すぐに打ち解けました


彼女はわたしに較べるとずっと落ち着いていて、成績もクラスでトップレベルでした

だからどうしてわたしと親しくなったのか不思議でした

わたしたちはデートをすることもなく時折手紙をやりとりするくらいでした


中学卒業が間近になった頃、もう彼女に会えなくなるかもしれないと不安になりました

彼女との仲を保つために何かをしなくてはと思いました

それで兄が持っていたレコードをカセットに録音しメッセージと共にプレゼントしました

それについて彼女から芳しい返事はありませんでした

やがて彼女は高校受験の勉強に追いまくられるようになりました

暇なわたしを相手にする時間などないようでした

彼女はその後家族と共に千葉の木更津へと引っ越していきました


工業高校への進学が決まる

中学卒業後の進路を決める時に担任教員、保護者、生徒の三者面談がありました

わたしはなんとなく友達の多くが行く近くの普通高校へ行きたいと思っていました

父母は進学先についてとくに何もわたしに言いませんでした

担任の「青たん」の考えははっきりしていました

「君の家は兄弟が沢山でお金がかかるから、早く就職して親を楽にしてあげた方がいい」

そう言って県立工業高校の機械科への進学を勧められました

工業高校へ行くことなど、わたしはその時まで一度も考えたことがありませんでした

ましてや具体的に機械科などということも...

「先生がそう言うのだから」とちょっと済まなそうに母は言いました

わたしはそうするしかないのだろうと思いました


横浜市立保土ヶ谷中学校校歌「若い夢」

古関吉雄 作詞
岡本俊明 作曲

かろやかに 小鳥は 空をめぐり
降るひかり 明るく おどる丘べに
歌声 たのしく 響きわたる
たぎりわく 喜び 喜びのせて

見はるかす 巷の どよめき 越え
かがやかに 遥けく 海はきらめく
ゆたかに 花さけ 若い夢よ
新しい 世界を 世界を ひらけ
栄えよ 永遠に われらが 母校